たとえ小さな羽根だとしても ~九月一日、夜明け前~

御子柴 流歌

羽毛、ひとひら。

 夜がまだ残る朝方、部屋の中はしんと静かだった。


 時計の針が進む音だけが、妙に大きく耳に届く。


 

 八月三十一日の夜――否、もはや九月一日の夜だが。

 こんな夜は、どうしてこんなにも長く感じるのだろう。

 

 布団に横になったまま、天井を見つめているだけで、胸の奥が重くなる。


 「明日から学校だ」と思う。その瞬間、心臓がきゅっと縮んだように痛む。

 廊下のざわざわ、笑い声やひそひそ話、背中に刺さるような視線。

 机に座るときのあの居心地の悪さ。

 思い出したくもない場面が、頭の中で何度も繰り返される。


 行きたくない。けれど、行かなくちゃいけない。

 その二つの気持ちがぶつかって、頭の中をぐるぐる回り続ける。

 目を閉じても、考えるのをやめられない。

 やめようとすればするほど、不安は大きく膨らんでいく。


 息苦しくなり、布団を頭までかぶった。

 暗闇のなかで目を閉じても、なにも変わらない。

 八月の最後の夜であり九月最初の夜は、やけに湿気を含んでいて、少し汗ばんだ肌にシーツがぴたりと張りつく。



 ――そのときだった。


 窓から「コツン」と小さな音がした。


 思わず顔を出してカーテンを開けると、窓辺に一羽のスズメがとまっていた。

 夜明け前の薄青い空の下、羽毛をふくらませて、首をすくめている。

 まだ眠そうに見えた。


 どうしてこんな時間に、ここへ来たのだろう。


 ぼんやりと見つめていると、スズメと目が合った。

 しっかりと視線を交わせたのだろう。

 スズメは「チチ」と短く鳴いた。

 それは、あいさつのようでもあり、問いかけのようでもあった。


 返すように心の中でつぶやく。


「眠れなかったんだよ」。


 すると、スズメは小さく羽を震わせた。

 ふわりと一枚の羽毛が宙に浮かび、窓のすき間から部屋に入り込んで、布団の上に落ちた。


 手に取ると、その羽毛は驚くほど軽かった。

 ほとんど重さがない。

 けれどそれは確かにここに存在して、指先をやわらかくくすぐった。


 その瞬間、胸の重さがほんの少し薄らいだように思えた。

 理由はわからない。

 ただ、羽毛の軽さに心を重ねるようにして、不安が空気に溶けていくのを感じた。


 ――大丈夫。


 そんな声が、どこからともなく聞こえてきた。

 励ましではない。ただ包み込むように、不安をそっと和らげてくれる声だった。


 学校に行かなきゃ、と自分をせかしていた。

 でも、本当は、今日どうしても行けないなら、それでもいいのかもしれない。


 少し休んだって、世界は止まらない。スズメは飛ぶし、風は吹くし、太陽は昇る。

 だから、「行けない自分」を責めなくてもいい。ただ、生きていれば、それでいい。


 窓を開けると、ひんやりとした風が流れこんできた。

 夏の夜の名残を残しながらも、どこか秋を思わせる涼しさを帯びた風だった。

 遠くの方で朝焼けがにじみ始めて、空の色は黒から青へ、青から橙へとゆっくり移り変わっていく。

 風に乗って、草の匂いや、夜露の冷たい香りが漂ってきた。

 世界はこんなふうに、ちゃんと続いていくのだ。


 その変化を眺めているうちに、不思議と心臓の鼓動は落ち着いてきた。

 呼吸もさっきより楽になっている。


 今日は行けなくてもいい。

 行ける日が来たら、そのとき行けばいい。

 その日は、きっと在る。


 そう思うと、胸の奥で固まっていたものが、少しずつほどけていくのがわかった。


 振り返ると、布団の上にはまだ羽毛があった。

 小さな小さな、その存在。

 けれど確かにここにあって、まるで「そばにいるよ」と告げるように。


 布団にくるまって羽毛を握りしめる。

 外では鳥の声が増え、街の音も大きくなりつつあった。

 世界が目を覚まし始めている。


 その音にまぎれて、自分も息をしていた。生きていた。

 掌の羽毛のぬくもりが、それを確かに教えてくれる。


 ふと、思う。――自分も、この羽毛と同じなのだ。

 小さくて、頼りなくて、けれど確かに世界の一部。

 空気のなかに溶けて、光に包まれて、ちゃんとここにいる。


 ――大丈夫。

 世界は続いていく。そして、そのなかに自分もいる。


 九月一日が怖くてもいい。今日を生きていればいい。

 それだけで、ほんとうに、それだけでいいのだ。

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たとえ小さな羽根だとしても ~九月一日、夜明け前~ 御子柴 流歌 @ruka_mikoshiba

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