最終話
あの夜、病院の廊下で泣き崩れた私を、葉隠さんはただ静かに見守ってくれていた。どれくらい泣き続けたのか、覚えていない。ただ、涙が枯れ果て、しゃくりあげる肩を彼女がそっと支えてくれた時、私は自分が独りではないことを知った。
父の容態は幸いにも一命をとりとめ、ゆっくりと回復に向かっていった。私の世界から魔法が消え去ってから、数週間が過ぎた。
フィルターを失った世界は、驚くほどに色褪せて、無愛想だった。
通勤電車は人々を運ぶただの鉄の箱で、車窓を流れる街は灰色のコンクリートの集合体だ。女王様の叱責は荘厳なアリアなどではなく、ただの不快な音の塊となって鼓膜を揺らす。人の顔に浮かぶ悪意や無関心も、何の緩衝材もなくダイレクトに心に突き刺さった。世界は、私が思っていたよりもずっと、殺風景で、時々ひどく残酷だった。
けれど、不思議と絶望はなかった。
魔法が消えた代わりに、世界には「本物」の感触が満ちていたからだ。
葉隠さんが休憩時間に淹れてくれる、安物のインスタントコーヒーの湯気の温かさと、鼻腔をくすぐる香ばしい苦み。見舞いに行った病室で、父が弱々しくも握り返してくれた、ゴツゴツとして乾いた手のひらの感触と、深く刻まれたしわ。図書館の大きな窓から差し込む木漏れ日が、埃っぽい床の上で静かに揺れている様子。それは黄金の粒子などではなく、ただの光と影の揺らめきだったが、そのささやかな美しさに、私は何度も息をのんだ。
世界を美しくするのは、現実を捻じ曲げる認知フィルターなどではなかった。この、ありのままの世界を、美しいと感じられる私の心、そのものだったのだ。
職場に復帰した日、私は司書として、再び子供たちの前に立った。定例の「おはなし会」の時間だ。
手にした絵本は、かつての私ならファンタジックな言葉で飾り立てて紹介しただろう物語。けれど、今の私には、そのための魔法の言葉は何一つ浮かんでこなかった。どう話せばいいのだろう。子供たちの期待に満ちたまっすぐな瞳を前に、私は立ち尽くしてしまった。
その時、隣に立った葉隠さんが、私の背中を指でとん、と軽く押した。まるで「あなた自身の言葉で」とでも言うように。
私は一つ深呼吸をして、子供たちを見つめ、話し始めた。ありのままの、私の言葉で。
「こんにちは。今日読むお話の主人公はね、とっても悲しいことがあって、泣いてしまうの。みんなも、学校やおうちで、悲しくて泣いちゃうことあるかな?」
一人の男の子が、小さな声で「ある……」と呟いた。私は、その子に優しく微笑みかける。
「そっか。うん、あるよね。悲しい時は、泣いてもいいんだよ。このお話の主人公もね、たくさんたくさん泣くの。でもね――」
私はもう、悲しみを美しい宝石に変えることはしない。物語の中にある本当の感情を、痛みも、喜びも、そのままの形で、この子たちと分かち合いたい。それこそが、今の私が果たすべき役割なのだから。
季節は、いつの間にか秋に変わっていた。
葉隠さんとの帰り道。冷たい空気が心地よい、雨上がりの夜だった。私たちは仕事の話や、新しく入った本の感想や、そんな他愛のないことを話しながら、並んで歩いていた。彼女との間には、もうあの凍てついた空気はなく、穏やかで、温かい信頼が流れていた。
濡れたアスファルトが、オレンジ色の街灯の光を不規則に反射して、きらきらと輝いていた。それは孔雀の羽根でもなければ、夜空に散りばめられた銀河でもない。ただの濡れた地面に映る、ただの光。
けれど、私はその光景から目が離せなかった。
「綺麗ですね」
言葉は、自然と口をついて出た。飾り気のない、素直な気持ちだった。
葉隠さんは、一瞬だけ驚いたように私の顔を見て、それから、私が今まで見たこともないような、とても柔らかい微笑みを浮かべた。
「本当ね」
彼女は、私と同じ光を見つめながら、静かに言った。
「こういうの、前は気づかなかった」
リアリストだった彼女の世界もまた、私との出会いを通じて、ほんの少しだけ、色豊かになっていたのかもしれない。
おとぎ話のガラスの靴は、もうどこにもない。けれど、裸足のままの心で踏みしめる現実は、思ったよりもずっと、温かかった。
私たちは並んで、光る道を、明日へと続くこの現実の道を、一歩一歩、確かに歩いていった。
涙は宝石にならない 火之元 ノヒト @tata369
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