第4話
病院からの電話は、私の世界を終わらせるための冷たい号砲だった。
呆然と立ち尽くす私に、現実的な指示を飛ばしたのは葉隠さんだった。彼女は冷静に病院の名前と場所を電話口で確認し、司書長に事情を説明し、私の腕を引いてタクシーに乗り込ませた。その全てが、まるで遠い国の出来事のように、私の意識の表面を滑っていくだけだった。
タクシーの窓の外を、夜の街が流れていく。けれど、それは私の知っている街ではなかった。街灯は滲んで巨大な涙のしずくとなり、車のテールランプは夥しい量の血のようにアスファルトの上を流れていた。私のコントロールを離れた世界は、ただただ悪意に満ちた風景画となって、私を嘲笑っていた。
病院に到着すると、鼻をつく消毒液の匂いが私を迎えた。私の世界では、それは「忘却の川の霧」のはずだった。これを吸い込めば、全ての辛い記憶を忘れられる。そう、いつものように物語に逃げ込めばいい。なのに、今はその霧が、喉にまとわりついて息を苦しくさせるだけだった。
医師からの説明は、ほとんど頭に入ってこなかった。脳梗塞、危険な状態、集中治療室。ただ、単語だけが意味もなく耳を通り抜けていく。ガラス張りのICUの前まで来た時、私はようやく、その現実と向き合った。
たくさんの管に繋がれ、電子音の鳴り響くベッドの上で、父が眠っていた。
けれど、私の目には、それはただ「呪いにかかって永い眠りについた、威厳を失った王様」の姿にしか映らなかった。悲しくない。心配でもない。物語の登場人物を眺めているような、奇妙なほどに冷静な自分がいる。本当の感情が湧いてこない自分自身に、心の奥が冷たく凍りついていくのを感じた。
待合室の硬い椅子で、私は膝を抱えてうずくまっていた。どれくらいそうしていただろう。不意に、手のひらに温かい感触が伝わった。見上げると、葉隠さんが自動販売機で買ってきたお茶を、私の手に握らせてくれていた。そのプラスチック越しの温かさだけが、今の私が感じられる唯一の現実だった。
「桜井さん」
静かな声だった。葉隠さんは私の隣に腰を下ろし、真っ直ぐ前を見つめたまま、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
「私、ずっと、人の気持ちがわからなかった。事実とデータだけが正しくて、感情なんて曖昧で、不合理なものだって、そう思ってた」
それは、私が今まで知らなかった、彼女の物語だった。
「でも、ここに来て、あなたと会って……あなたが必死に守ってるその世界を見て、少しだけわかった気がするの。物語は、理屈じゃない。ただ、心を温めるためにも、そこにあるんだって」
彼女はそこで一度言葉を切り、私の方を向いた。その焦げ茶色の瞳は、真剣な光で私を射抜いていた。
「あなたの見ている世界は、あなたが必死に自分を守ってきた、あなただけの物語なんだと思う。それを、私が否定することはできない。でも……」
彼女は、慎重に言葉を選ぶように続けた。
「今だけは、その物語の中から出てきてほしい。あなたの本当の言葉を聞かせてほしい。ガラスの向こうにいるのは、物語の王様じゃない。あなたの、たった一人の……お父さんなんだから」
彼女の言葉には、何の装飾もなかった。けれど、そのありのままの言葉が、私の心の最も深い場所に、静かに、けれど確かに届いた。何重にも張り巡らせてきた物語の城壁をすり抜けて、凍りついた私の心に、直接触れたのだ。
その時だった。看護師が慌ただしくやって来て、私たちに告げた。
「桜井さん、お父様の意識が戻りました」
葉隠さんに背中を押され、私は吸い寄せられるようにICUの病室に入った。ガラス越しではない、父との再会。酸素マスクの下で、父の唇がわずかに動いた。
「……みお、か……」
掠れて、ほとんど音にならない声。それでも、私にははっきりと聞こえた。
父の目から、一筋の涙が静かにこぼれ落ちた。
「……すま、なかったな…」
嗚咽が混じる。
「あの時……お前の涙を見るのが…母さんを思い出して……辛かった、だけなんだ…」
その言葉は、古の呪いを解く、最後の鍵だった。
脳の奥で、何かが焼き切れるような激しい衝撃。視界が真っ白に染まり、私の世界を構築していた全ての装飾、全ての比喩、全ての物語が、けたたましい音を立てて砕け散った。
忘却の川の霧は、ただツンと鼻をつく消毒液の匂いに変わった。
眠れる王様は、たくさんの痛々しい管に繋がれた、痩せて老いた、私の父親の姿になった。
そして、自分の頬を止めどなく伝う、この生温かい液体。
それは、サファイアになどならなかった。しょっぱくて、熱い、ただの水滴。
ああ、これが、「涙」なのだ。
「う……あ……あああああ……っ!」
私は、その場に崩れ落ちた。生まれて初めて、本当の声を上げて泣いた。子供のようにしゃくりあげ、嗚咽を漏らし、惨めに顔を歪めて、ただ、ただ涙を流し続けた。
それはもう、誰にも迷惑をかけない美しい宝石なんかじゃなかった。
悲しくて、苦しくて、悔しくて、そしてほんの少しだけ、救われた気がした。不格好で、みっともない、人間らしい、本物の涙だった。
病室のドアの向こうで、葉隠さんが静かにその声を聞いている。そんな気配だけを感じながら、私は長い長い物語の終わりと、現実の始まりを告げる涙に、身を任せていた。
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