第24話 尾道漢方薬局の遺産

 一

 週末の昼下がり、テーブル上の無線警報機が赤く点滅し、VIP病棟への来訪者を告げる。

 ロイは、ブツンとTVを消し、顎で紫乃を促した。

「おましやで」

 病室を出ると、廊下の向こうから白髪の警備員が二人の男を伴って歩いて来た。制服がぶかつくほどひょろりと痩せた、年配の警備員だ。

 チャンチャンチャーン。

 昭和のサスペンスドラマのテーマ音楽を口ずさみ、ロイは紫乃へ耳打ちした。

「アイツ、三週間前に研修医宿舎に来たときほどハァハァと息を切らしてへんやん! ……ひょっとして、ひそかに『トキモドシ』を飲んで若返ってるんとちゃうか?」

 紫乃が、すかさず肘で小突こづく。

「今日はエレベーターを使つこぅて来たからじゃろ! あんたぁ、人をおちょくるのも大概たいがいにせにゃぁ」

「お前、ツッコミの早さが進化してるやんけ!」

 ロイはとびきりの笑顔で「ご苦労さん」と警備員をねぎらい、後ろの男二人を病室の応接セットへ通した。男たちはギラリと鋭い目付きで周囲を確認し、ごつい顎で軽く頷いてから病室へ入る。広島県警の蓼丸と小早川だ。用意していたお茶のペットボトルを、紫乃が二人の前に並べる。

 ソファに座るや否や、小早川が膝の上でノートパソコンを開く。話の進行役は、やはり蓼丸だ。

一昨日おとといの夜にあんたらから知らせを受けてのぅ。これまで気にも留めんかった色んな捜査情報が、一気につながったんじゃ」

「外事課にも連絡したんか?」

「当然じゃ。わしらは頻繁にり取りしちょる。外事課曰く、二十年年ほど前からちょくちょく日本や欧米の研究者へ、見ず知らずの中国人からメールが届くらしいのぅ。美人女子大生が留学を希望したり、中国の大学や研究所が好条件の職をけたりして来る。もちろん、オイシイ話は全て、機密情報と引き換えじゃ」

「なかには騙されて、情報を盗まれただけで終わる奴もるやろな」

米国アメリカでは、自殺に追い込まれた大学院生もったそぅじゃ」

 紫乃が、軽蔑するような三白眼さんぱくがんでロイを見上げた。

「あんたも、中国の可愛い女子大生からメールをもろぅたんか?」

「可愛かったんかな? 知らんわ。研究論文をいくつも発表してたら、一日に数十通も英語のメールが届くようになるねん。俺の論文に名前を載せてやった行木教授も、同様のはずや」

「行木教授は、ろくに英語を読めんじゃろが」

「メールのほとんどは、英文商業誌からの『論文を投稿してくれ』っちゅう依頼やから、無視してたらええ。そこへたまーに、たどたどしい日本語の怪しげな申し出がまぎれてる。恐らく、中国人からや。俺は『件名』だけ読んで、即・ゴミ箱行きにするけど、道にまよてる奴なら熟読してしまうかもな」

 バチバチバチ、と小早川のキーボードを叩く指に、力がこもる。

「外事課の調べでは、アスタリスクが新薬の狩人ドラッグ・ハンターやとぅたのは事実じゃ。アスタリスク内部の誰が主導したんかは、分からずじまいじゃったが」

 気遣きづかうようにロイを見上げつつ、紫乃が反論した。

「アスタリスクは無関係じゃろぅが? お父ちゃんの日誌を盗んだのは、中国じゃ」

「『自家製ハーブで早発閉経を克服し、妊娠・出産へ至った五十六歳』に最初に目を付けて、『若返り薬』争奪戦の戦端せんたんを開いたんは、アスタリスクじゃ。間違い無い」

 蓼丸が、明確に言い切った。

「急成長を遂げたアスタリスクじゃが、鳴り物入りの『timeless』の臨床試験に失敗した途端、上層部があちこちへ迷走し始めた。さいたる悪手あくしゅが、新薬の狩人ドラッグ・ハンターへの依頼じゃ。愛想を尽かした一部の執行役員から、機密情報が漏れ始めた。恒蘭医薬からふところをくすぐられた者も、相当数そうとうすうるじゃろぅ」

 ――目先の個人的な利益を優先する者が増えた。嘆かわしい時代だ――

 あのとき、アクセルは誰を思い浮かべて唇を噛んだのか。

 ロイと紫乃の前に、飲み掛けのコーヒーが入ったマグが、二つ仲良く並んでいる。独立戦争を闘った兵士の横顔がかたどられた、NFLのヘルメット型マグだ。

「トップの二人は、元々は研究者や。経営の手腕も、急拡大した会社の情報管理も、イマイチやろな。伊豫は、新薬の狩人ドラッグ・ハンターが日本へったとつかんでたで」

 うんうんと蓼丸が頷く。

「伊豫のような最先端の研究者は、情報が死活を握るけぇ、あちこちに必死でアンテナを張り巡らせちょるらしいのぅ。中国へも、『アスタリスクは臨床試験に失敗して、新たに日本の薬へ目を付けた』っちゅう情報が流れた。大急ぎで、中国は日本の『若返り薬』を探し始めたそぅな」

「中国がいた高額の餌にポンコツ漢方教授が食い付いて、予想外に貴重な情報をもたらしたわけか」

「うちにとって、行木教授はとにかく薄気味悪い人じゃった。行動も喜怒哀楽も、まるで予測が付かんけぇ。中国にとっては、たなボタじゃのぅ。人間、どこで意外な才能を発揮するか、分からんもんじゃ」

「元々行木教授には、科学的に信頼性の高い症例報告かどうかを見極める能力があったんやろな。これまで、地位と名誉にしか興味を持てんかっただけや。ろくに研究も臨床もせぇへんくせに教授の称号を欲しがる奴は、星の数ほどるねん」

 キーボードを打つ手を止め、小早川が吐き捨てた。

「同じような人種は、警察にもるわい! ずるさと世渡りだけで、出世してゆくんじゃ!」

 なだめるように、ぽん、と小早川の肩を叩き、蓼丸が話を続けた。

「行木のおかげで、中国は一気にさきんじた。新薬の狩人ドラッグ・ハンターが来日して『五十六歳女性』の素性を突き止めるはるか前に、電子ファイル化された日誌をネット経由で盗んだんじゃ。挙げ句、日誌に価値があると判断するや否や、ご両親を殺害した。『若返り薬』の情報が、新薬の狩人ドラッグ・ハンター微塵みじんも渡らんようにのぅ」

「中国は、焦ってたわけや。大学病院内で二回も紫乃ちゃんを殺そうとするなんざ、形振なりふり構わずやもんな。救急患者を装ってVIP病棟に侵入したり、研修医フロアで待ち伏せしたり」

「一回目、羽立先生が殴られた事件との関連は未だ捜査中じゃが、三阪先生の殺害未遂事件は明らかに行木が手引きしちょった。三阪先生が襲われる直前、行木が電話で『今、医局を出たで』と話す声を、廊下で聞いたもんる。事件直後、念のため調べたけんが、行木の通話先は中華料理の《金耀華》じゃったけぇ、気にも留めんかった」

「そのひと言で、なんで行木教授の関与が疑われるんなら? あのとき行木教授は『《金耀華》の主人と積もる話がある』っちゅうて、うちと別れたんじゃ」

「外事課との合同捜査で、《金耀華》は中国の『海外警察署』の一つじゃと判明した。反体制派の中国人の取り締まりや、スパイ活動をにのぅちょる。羽立先生をおそぅた四人組が食事しちょった府中市の《銀耀華》は、《金耀華》の支部組織じゃ」

 ロイは、紫乃と顔を見合わせた。左頬のケロイドは、痛くも痒くも無い。感情は、怒りでたかぶるよりもむしろ重く、どこまでも沈んでゆく。

「あの晩、行木教授がご馳走してくれたんは、うちを遅い時間までつなぎ止めるためじゃったんか……。病院から人気ひとけぅなったほうが、殺しやすぅなるけぇのぅ」

 紫乃の声も沈み、張りが無い。

「あのポンコツ……アホにもほどがあるな。カネに目がくらんで、ついに殺人の手助けまでしよったんか。当然、罪に問われるやろ?」

「行木は、死んだわい」

 えっ、と短い息を、ロイと紫乃が同時に漏らした。

「昨日の早朝、重要参考人として自宅を訪問したら、もう虫の息じゃった。前の晩、帰宅後に気分が悪いと訴えて、そのまま寝室へこもっちょったらしい。わしらが救急車を呼んでやったが、奥さんが中国人で日本語をあまり喋れんせいか、医大病院じゃぅて市内の当番病院へ搬送された。数時間後に、息を引き取った」

「うちとぅた翌朝に亡くなったっちゅうんか!」

「自殺するとは思えんキャラや。中国に、毒でも盛られたんか? 用済みやもんな」

「当番病院での診断は、老衰による多臓器不全じゃった。老衰するほどの年齢じゃぁけぇ、どのみち検死を経て司法解剖に廻されるじゃろぅが、今のところ医学的に不審な点はぁらしい。短期間で外見が一変しちょって、わしらも度肝どぎもを抜かれたわい。しわくちゃに痩せ細って、まるでミイラじゃった」

「うちがついた嘘を信じて、ホンマにサウナへ長時間入ったんじゃろぅか?」

「いや、それだけではミイラにならへん。漢方を併用せぇへんまま、大量の『トキモドシ』を連用し過ぎたツケが急激に回ったんやろ。『陰液』の異常な枯渇や」

「奥さんの許可を得て、パソコンを調べさせてもろぅた。行木は、頻繁に上海薬物研究所と連絡を取っちょる。『若返り薬』の開発日誌のPDFファイルも、パソコンに保存されちょった。おまけに、上海薬物研究所は行木を雇う予定じゃったそぅな。年俸は、福山医大の五倍じゃ」

「中国ではカネをドブに捨てる風習でもあるんかいな! 上海薬物研究所かて恒蘭医薬かて、大した資金力やんか」

「高額の年俸は、馬の鼻面はなづらにぶら下げた人参に過ぎん。行木は、上海薬物研究所にとって『情報源』の一人じゃけぇ。中国へさせて、現地で始末するつもりじゃったんじゃろ。日本国内で現役の教授を殺すとなると、色々と厄介じゃけぇのぅ」

「なるほどやな……資金力に加えて、悪知恵と実行力が卓抜しとる。ここぞというときに大金をぎ込んで勝負を決めて、漏れそうな情報源は片っ端から闇へ葬るわけや。日本は、永遠に勝てへんな」

「行木教授の家族は、どうなるんかのぅ? まだ小学生の娘さんがるんに」

「十歳の娘は、奥さんのじゃ。母子で四年前に日本へ来て、中華料理屋で住み込みで働いちょるところを、行木が見初みそめたらしい」

母子ぼしまとめて面倒を見たるで、っちゅう親分肌は、いかにも行木教授らしいわ。……犯罪を手助けした行木教授は『被疑者死亡のまま書類送検』やろうけど、紫乃ちゃんの両親と俺らをおそぅた実行犯たちは、どないなるねん?」

「完璧なプロの仕業しわざじゃった。広島県警全体が、頭を掻きむしっておらび上げとぅなるくらい、なんの手掛かりも残しちょらん。もう国外へ逃げたじゃろ。あとは外事課に任せるしかぁが……正直、中国がどこまで捜査に協力してくれるか、分からん。上海薬物研究所は中国科学院傘下、つまり中国の国家機関じゃ」

 犯人たちの素性が判明した時点で、ロイが予測した答えではあった。

「お父ちゃんとお母ちゃんの命も、お父ちゃんが創った『若返り薬』の秘密も、られっぱなしか! うちは、泣き寝入りするしかぁんか!」

 紫乃の金切り声に、蓼丸と小早川のがっちりした顎が、ぐっと強張こわばった。

「最後の最後まで、わしらはへなちょこじゃった。申しわけぁよ」

 蓼丸と小早川が、深々と頭を下げた。

「伊豫は、どぅやねん? なんか、罪に問われるんか?」

「伊豫は何ひとつ、日本の法に触れる行為をしちょらん。表向きは、上海薬物研究所へ引き抜かれただけじゃけん。ただし米国アメリカでは、背任罪に問われる可能性があるがのぅ。自分の研究データであれ、営利目的で国立衛生研究所NIHの外へ持ち出したんじゃ」

 外事課の入れ知恵なのか、蓼丸は研究者について相当に勉強したようだ。

 ひょえっ、と紫乃が頓狂とんきょうな声を上げた。

「自分がやった実験のデータじゃのに、自分で自由に使つこぅたら罰せられるんか!」

くまで、可能性としては、じゃ。雇用時に、研究所と契約を交わしちょるけぇのぅ。じゃが、証拠はがらんじゃろ。『知らんにデータを盗まれた』って主張すりゃぁ、ええんじゃけ」

 ロイの脳裏に、伊豫の痩せこけた頬の陰翳が浮かぶ。ロイからアクセルの研究計画を聞き出すと、伊豫は吹っ切れたように天井を見上げ、笑った。

 ――俺ごときの根無ねなぐさは、血反吐ちへどを吐いてようやく見付けた居場所ですら、いつも薄氷の上だ――

 長い下積みの末、ようやく米国アメリカの土へ伸ばした根っこを、あのとき伊豫は断ち切った。

 ――俺は、生まれ変わってやる――

 永遠の「根無ねなぐさ」となる覚悟で。

 左頬が、チリチリと痛む。「トキモドシ」を飲んでも、結局ケロイドには効かなかった。

「伊豫は俺と話してて、『若返り薬』の日誌が米国アメリカぅて中国へ渡ったと確信したんやろ。中国は、『timeless』の特許権を巡って米国アメリカあらそぅてた」

「伊豫さんにも、前々から中国の勧誘メールが届いちょったんじゃろぅか。あんたとは月とスッポンの、超有名研究者じゃけぇ」

「当然、大量に来てたやろ。ただし伊豫は、つい道にまよて怪しげなメールを開いてしまうようなヤワな奴やい。自分を騙そぅとした相手を返り討ちにして騙すくらい、知恵が回る奴や。選択肢の一つとして、以前から頭に入れてたんやろ。研究者としての自分の株が今、さい高値たかねを更新したと踏んで、一気に売りに出たんや」

 ――医者は目の前の一人を救うだけだが、壮大な研究は人類を救う――

 二十年前から、細い目を無理にこじ開け、何度も、何度も、ロイに見得みえを切ったのは誰だ? 青臭あおくさい夢が、としを重ねて赤黒く成熟したのを、たたえるべきなのか。

「伊豫さんは、満足なんじゃろぅか。これから、もっと素晴らしい研究をするんじゃろぅか」

「知るか、ボケ!」

 いきなり声を荒げたロイを、蓼丸と小早川がぽかんと口を開けて眺めた。

 ロイが伊豫と一緒に広島焼をつつく機会は、二度と訪れないだろう。

「広島焼をお好み焼きとは、認めへんからな!」

 吐き捨てたロイを、他の三人がじっとりとにらんだ。


  二

 蓼丸と小早川が帰ると、病室が急にがらんとして、静かになった。

 ぽっかりと空いた時間と空間を埋めるべく、ロイは威勢良く声を放った。

「さ、週が明けるで! お前、どうするねん?」

「VIP病棟は、ひろぅて快適じゃったが。危険がぅなったんなら、せまぁ研修医宿舎へ戻ろうかのぅ」

 魂を抜かれたようにぼんやりと、紫乃がソファに座ったまま動かない。

 横っつらを引っぱたくように、ロイは声を荒げた。

ちゃうねん! お前には、これからやるべきことが山ほどあるねん! まず、オトンとオカンを引き取るために、葬儀屋の手配や。次に、お通夜の読経どきょうをしてもらうぼうさんへ連絡や。火葬場も予約せなぁアカン」

 紫乃の背筋が、ピンと伸びる。

 危機的な状況が紫乃に続いたため、両親の遺体は今も尾道署に安置されたままだ。

「うるさぁわ! 次から次へ、よぅ口も頭も回るのぅ。せっかちな男は、女に嫌われるけぇの!」

「オトンとオカンへ、お前の無事な顔を見せて、事件の報告をしたれや」

 うっ、と紫乃が黙り込んだ。神妙な顔付きで、目を閉じる。

 ――はよぅ行動せんかい!

 っ付きたいのを我慢して、ロイはスマホを操作する。近隣の葬儀屋をリストアップし、連絡先をLINEで紫乃へ送る。

 キンコン! キンコン! 

 ロイからのLINEを次々に受け取り、紫乃のスマホが鳴り響く。

 ちらり、と紫乃を見遣みやる。紫乃は目を閉じ、同じ姿勢のままだ。

 ロイは、紫乃の父の故郷・岩子いわしじまの、唯一の寺――阿弥陀寺あみだじの連絡先も調べ、LINEで送った。

 キンコン! 

 念を送っても、睨み付けても、紫乃が微動だにしない。

 耐え兼ねて、ロイは声を上げた。

「お前、座ったままうしのぅてるんか! 考え事をするなら、行動しながら考えんかい!」

 紫乃が、目をバチッと開いた。同時に、涙が溢れ出す。

「両親へ事件をどう報告すりゃぁええか、分からんのじゃ! 結局、なぁんも解決せんかったんよ? 殺人犯は、見付からん。『若返り薬』の秘密は、盗まれたまんま。お父ちゃんにもお母ちゃんにも、申し訳が立たんわい!」

「アホンダラ! お前、分かってへんな!」

 ロイは、怒声を紫乃の顔へ叩き付けた。

「お前の今の姿を見て、オトンは嘆くんか? 正反対や! 自分が創った薬のせいで可愛い娘を危険な目にわせてしもたけど、薬のおかげで見事に全快した。薬が、完璧やったからや。薬を開発した甲斐があったと、今こそオトンは嬉し泣きしてるで。今後も薬を適宜使えば、お前は若いまんま、長く健康な人生を約束されてるんや」

「お父ちゃんとあんたが、頑張ってくれたからじゃ。うちは、なぁーんもしちょらんのよ。比嘉教授や、普段は頼りぁ桧垣までが、必死に命を助けてくれたんに。役立たずの自分が、情けぁわい」

「悔しかったら、医者としての腕を上げんかい。中国は、必ずコケるで。『時騙し』と『トキモドシ』は、近縁種とは言え、微妙に性質が違うはずや。単に中医学を併用すれば有害事象が抑えられるとたかくくってたら、いずれ手痛い目にう。患者の脈を診ながら『いんきょ』を補う日本の漢方の技術があってこそ、『若返り薬』は完成するねん」

 中国の伝統医学――中医学と、日本の伝統医学――漢方は、ルーツは同じでも、日本語と中国語くらい概念も用語もはなれている。

 ようやく納得したのか、紫乃がウンウンと頷いた。

「お父ちゃんも、言うちょったんよ。『よぅよぅ漢方を勉強してからトキモドシを使わんと、恐ろしい目にう』って、のぅ」

「それこそ、オトンがお前に一番渡したかった、最後のプレゼントや。医者にとって、一番大切なもんやがな」

「……グッチのバッグか?」

 ロイの手が、思わずNFLのヘルメット型マグへ伸びた。

「コーヒーぶっ掛けたろか! ちゃぅわ! 一生、意欲的に学び続けるための、モチベーションや!」

 はっ、と虚をかれたように、紫乃が息を止める。

「いつか体が年老いるのは、しゃあい。それでも心は少年少女のまんま、ドキドキ・ワクワクして興味を持てるもんを、いつまでも追い掛けるんや。オトンは、生涯を懸けて漢方をきわめたいっちゅう情熱をお前へ受け継げたんなら、それが本望やったはずや」

 膝の上で握り締めた紫乃の両手へ、ボタボタッと大粒の涙が落ちた。左右均等に、拳を作った手だ。服薬を開始して一週間。右の手足の麻痺は、跡形あとかたも無く完治した。

「『トキモドシ』の服用は、今日で終わりにするで。有害事象を防止するために、当面は補陰湯ほいんとうだけを続けようや」

「主治医にお任せじゃ。うちは、あんたの腕を信用しちょるけん」

 頬の涙をぬぐいつつ、紫乃が素直に頷いた。

「お前、性格がまるぅなったな。『トキモドシ』のおかげで更年期のイライラが治ったんかいな」

「あんたには、心の底から感謝しちょる。……じゃが、のぅ。あんたは、ずぅっと約束を忘れちょるんよ」

「なんやねん? これ以上セクハラやモラハラを求められても、ネタ切れやで」

「アホか! 何度言うたら分かるんじゃ! うちは、中屋なかやくじら羊羹ようかんを食べたぁんじゃ!」


  三

 一時間後、ロイは紫乃を車に乗せ、中屋なかやへ向かっていた。

 福山から尾道へ近付くにつれ、国道二号線の左手に尾道水道の海原が広がる。エメラルド・ブルーの波間に、きらきらと陽光が飛び跳ねる。

 ロイは、SUVのサンルーフを全開にした。車内へ吹き込む風に、いそが濃く香る。

「相も変わらず、尾道の海は最高じゃわい」

 助手席で紫乃がサイド・ウィンドウに額を押し当てたまま、くつくつと笑った。

「海を見て、何が可笑おかしいねん? 海辺でお笑い芸人のライブでもってるんか」

「見てて飽きんのは、海だけじゃぁのぅ。人生そのものが、コントみたぁなもんじゃ」

「思い通りの結末オチに、俺らは辿たどけんかったな?」

「ネタ合わせが足りんかっただけじゃ」

「これからも、まだまだ人生ライブは続くで。次こそ、ドッカンドッカン笑い合える、最高の結末オチにしようや。……お前、舞台メークだけはバッチリやな」

「ほぅか! ひさりのお出掛けじゃけぇ、気合いを入れたんよ!」

 紫乃が、ロイへ振り向く。黒い扇子せんすのごとくバチバチとまたたくマスカラ厚盛りの睫毛から、緑色のカラー・コンタクトがきらりんと覗く。

「勘違いすんな! ホメてへんねん!」

 口ではけなしつつ、女らしい花のような香りがロイの鼻粘膜をくすぐる。

 ――厚化粧も、見慣れれば、まァわるぅ無いか。

 ふと思う自分に、愕然とする。ダメだ。日本のギャル文化に、順応し始めている。

「海辺をドライブしながらっちゅうのは、完璧なお膳立てじゃのぅ。乙女は、このシチュエーションを待ちがれちょるんよ」

 しなを作り、睫毛オバケが艶然と微笑む。

「あんたぁ、胸に秘めた想いを告白するなら、今じゃ」

 見透かされている。この研修医と初めて会った瞬間から、沸々ふつふつと込み上げる感情を。

「……せやな。この際、はっきりしといたほうが、ええやろ」

 ベタ塗り睫毛が、したり顔でうんうんと頷く。

 どす黒いマスカラを吹き飛ばし、ロイは想いを叩き付けた。

「お前、化粧がぎるねん!」

「なんじゃと! このモラハラ不良ガイジン講師が!」

「明日もそのギャル顔で出勤しやがったら、水、ぶっ掛けたるからな!」

 二人の声が、サンルーフを抜けて潮風に乗り、エメラルド・ブルーの尾道水道へ広がってゆく。

 遠い昔に置き忘れたような、平和な日曜の午後だった。

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ほうれい線に愛をこめて ~時を遡る薬~ 漢方太郎 @bohemianism40

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