第23話 若返りの代償

  一

 ビーッ、というブザー音と共に、手元の無線警報機が赤く点滅した。VIP病棟の出入口が、ひらいた合図だ。訪問者が、紫乃のる一番奥の病室へ辿り着くまで、数十秒は掛かる。

 紫乃の心を、ふと不安がよぎる。

 ――誰じゃろぅか?

 金耀の夕方五時だ。ロイが訪れるには、早過ぎる。比嘉教授や救急科の女性スタッフは、決まって早朝に様子を見に来る。VIP病棟に入れるのは、警備員か講師以上の職員証IDを持つ者だけだ。出入口は、警備室からカメラで監視されている。もし不審な侵入者がれば、全館放送で警告が発せられる。

 ――妙に遅いのぅ。まだんのか。

 訪問者の足は、ロイや比嘉などとは段違いにゆっくりだ。

 ノックと共に、病室のドアが開く。紫乃は仰向あおむけのまま、目を半分ほど開き、ぼうっと視線を彷徨さまよわせる。視界のすみで、訪問者を確認した。のそり、のそり、と足を派手に引きる白衣姿。行木教授だ。紫乃の前に現れるのは、一週間ぶりになる。

「見舞いにぃたったぁでぇ……驚異的にぃ快復かいふくしてるんやてぇなぁ? 比嘉教授にぃ聞いたぁでぇ」

 低い濁声だみごえは相変わらずだが、泥酔でいすいしたように滑舌が悪い。紫乃の顔を覗き込むと、薄くなった白い頭髪が降り乱れた。歯槽しそう膿漏のうろうなのか、紫乃の顔に吹き掛かる吐息が、炎天下に放置されたなまゴミのようにクサい。

 いきなり、右手をグッと握られた。びくっ、と手を引っ込めそうになる。行木の手が移動し、紫乃の左右の足も、グッ、グッ、とつかまれる。

おもとおりぃやぁ……あったかいぃでぇ。麻痺してたらぁ、手足はつめとぅなるはずやのにぃ、なんでぇやぁ?」

 独り言のように、ぽつぽつとつぶやく。

 次の瞬間、怒声が爆発した。

「答えんかいぃ、コラァァ! とぅにぃ意識は戻ってるぅやろぉがぁ!」

 顔面へピチピチと唾液がはじけ飛び、黴菌バイキンが充満した化膿臭を放つ。紫乃の脳が、瞬時に沸騰した。

 がばっと飛び起き、怒鳴り返す。

「いきなり耳元で、うるさぁわ! ぶちまわしちゃろぅか!」

 行木がひるんだすきに、ベッドの反対側へ飛び下りる。

 にらみ付けようとして、総毛立った。

「あんたぁ……誰ね?」

 目の前に居るのは、百歳を過ぎた皺くちゃの老人だ。

「もうすぐぅお前もぉ、こうなるでぇ。左半身麻痺がぁ完璧にぃ治ってるやんん……ってことはぁ、飲んでるんやろぉ? 『トキモドシ』をぉ」

 行木の顔は、黒ずんだ肝斑シミしわだらけだ。垂れ下がったまぶたに、目が半分ほど埋もれている。髪は、ちぢれた白髪となってごっそりと抜け落ち、がっちりしていた体格は半分へしぼみ、薄っぺらい。低い濁声だみごえだけが、かろうじて行木らしさを保っている。

「トキモドシ』を知っちょるとは……あんたぁ、お父ちゃんの日誌を読んだんか?」

「解読させてぇもろたぁ……報酬付きのぉ依頼があってなぁ。ここ数か月ぅ、とある研究所にぃ頼まれてぇ、若返りにぃ関連しそうな日本語の研究報告をぉ、かたぱしからぁ送ってたんやぁ」

やみバイトっちゅうやつか。教授へ持ち掛けられるんも、珍しいのぅ」

「世界じゅうにぃ蔓延まんえんしてるぅバイトらしいでぇ。教授や研究者がぁ公表してるアドレスにぃ、突然中国の学生からメールがるぅ。最初はぁ、『無給でええから、ぜひあなたのもとで働きたい』っちゅうぅ健気けなげな申し出やぁ。り取りしてるうちにぃ、オイシイ話をぉ持ち掛けられるぅ。研究情報をぉ少し教えただけでぇ、謝礼をくれるんやぁ。そのうちぃ、金額が釣り上がるぅ。歯止めはぁ利かへんん」

「あんたぁ、飛び付いたんか。立派な教授サマが、あさましいのぅ」

「脳出血をぉわずろぅたらぁ、いつまで元気に稼げるかぁ、急にぃ不安になるもんやぁ。日本語の研究論文をぉ調べるだけでぇ臨時収入がもらえるならぁ、そらぁオイシイでぇ。わしが送った論文の一つにぃ、奴らは食い付いたぁ。『自家製ハーブで早発閉経を克服し、妊娠・出産へ至った五十六歳』やぁ。症例の身元を教えたら百万円を出すとぉ、さそたぁ。わしにとってぇ、おのきょうのカルテを調べるんはぁ朝飯あさめし前やぁ」

「お父ちゃんとお母ちゃんが殺されると分かってて、奴らに身元を知らせたんか」

「まさかぁ。わしにとってもぉ予想外やったわぁ。……二か月前に身元を教えたらぁ、どんな手を使つこたんか知らんけどぉ、奴らはササッとぉ日誌を入手しよったぁ。解読までわしへ依頼して来よってぇ、坊主ぅ、丸儲まるもうけやったわぁ」

 グハハと笑った唇の端から、よだれが糸を引いて垂れる。開いた口から覗く歯は黄ばんでしぼみ、半ば抜け落ちている。

 紫乃は、まばらになった行木の白髪を顎で指した。

「確かに、見るも無残な坊主になり掛けちょるわい。あんたぁ、英語も中国語も読めんくせに、あの難解な日誌をよぅ解読できたのぅ」

 行木のほほにくが、ニタァと溶け崩れた。

「英語や中国語にぃ堪能な人材はぁ、どこにでもぉるやんん。奴らが理解できんかったんはぁ、漢方の専門用語でぇ書かれた部分やぁ。わしが分かりやすぅ注釈を付けてやったらぁ、大喜びしてぇ報酬をはずんでくれたでぇ」

「その注釈を奴らへ送ったんは、いつじゃ?」

「一か月ほど前やぁ。その後ぉ、音沙汰おとさたが無いとおもてたらぁ、突然あの事件やぁ。せっかく誰にも気付かれんとぉ日誌を手に入れたのにぃ、なんで三阪夫婦を殺さなぁアカンのかぁ、わしにも分からんわぁ」

「あんたぁ、いつから『トキモドシ』を飲んじょるんなら?」

「日誌を読んでからやぁ。慌てて千光寺へ走ってぇ、『トキモドシ』をぉ採れるだけ採ったでぇ。効果は絶大やったぁ。ひと晩でぇ、手足の麻痺がかるぅなったぁ。わしが見違えるようにぃ元気になってぇ、よめハンは泣いてぇ喜んどったわぁ。そっからぁ、どんどん量をぉ増やしたったでぇ」

「一か月ほど前――うちが、漢方診療科で研修を始める直前からか。どんだけの量を飲んだんじゃ?」

「日誌に書いてあった通りぃ一日四gから始めてぇ、その後はぁ毎日十gやぁ。また急激にぃ老化が始まったからぁ、ここ一週間はぁ一日二十gにしてるでぇ」

 両親が飲んでいたのは、二人分で一日四gだ。

「二十gじゃて⁉ 危ないとは、思わんかったんか?」

「知るかいな。わしはぁ人並み外れた大食いやしぃ、薬かてぇ、フツーの量ではぁまず効かへんん。お前もぉ、わしとしになったら分かるでぇ。一瞬でも若返れるならぁ、毒薬へでも手を伸ばすぅ。ちょっとでも若返ったらぁ、もっともっと若返りとぅなるぅ」

ひどい便秘になったじゃろ? 愛しいよめハンに、摘便てきべんでもしてもろぅたんか」

 四gを一度服用しただけで父は十日間も便秘したと、ロイが日誌の話をしていた。

「やっぱりお前ぇ、『トキモドシ』の副作用までぇ熟知しとるなぁ。フンまりなんざぁ、いくらでも下剤でぇ爆破したるぅ。若返れるならぁ、手段は選ばへんでぇ。向こう一年分の『トキモドシ』はぁ、たっぷり採っといたんやぁ」

 十gや二十gを毎日飲んだら、瞬時に「陰液」が枯渇してしまう。あっという間に若返りの時期を過ぎ、老化へ転じただろう。

「漢方薬は、何を併用しちょるんなら?」

 象の皮のようにカサついてしわだらけのまぶたを引き上げ、不思議そうに行木が紫乃を見詰みつめた。

「漢方やてぇ? んなもんん、飲まへんわぁ。漢方薬なんざぁ、偽薬プラセボやぁ。『血のめぐりをぅする』とかぁ『ダイエット効果がある』とか吹き込んでぇ、患者に催眠術を懸けてるだけやろぉ?」

 紫乃の目の前で、火花がはじけ飛んだ。

「漢方の教授のくせに、漢方の効果を信じちょらんのか! お父ちゃんの日誌を読んで、漢方の記述に注釈まで付けたんじゃろぅが!」

「あんな注釈に大金をはろてぇ、奴らもアホやでぇ。漢方なんかぁ、効かへんのになぁ。患者にもわし自身にもぉ、目に見えて効いたためしがあらへんでぇ」

「あんたの腕が、悪いからじゃろ! 自分の技量のつたなさを棚に上げて道具のせいにして、恥ずかしゅうぁんか!」

 怒気が爆発して、頭がくらくらする。

「『漢方の腕』っちゅうのがぁ、さいたるまやかしやぁ。ロイのペテンの『腕』はぁ、天才的やろぉ? わしも最近ん、ロイを見習みなろぅてるねんん。小難こむずかしい顔で脈を診てぇ、『こらアカン、疲れが脈に出とるで!』っちゅうたらぁ、大概の患者は驚いて『さすがは漢方医や!』ってぇ尊敬してくれるぅ。漢方を飲みたがる患者なんてぇ、疲れてる奴ばっかりやからなぁ!」

 グハハと笑うたび、粘っこいよだれが口の端からダラダラと垂れ落ちて糸を引く。

「あんたぁ、漢方の素晴らしさを教えにゃぁいけん立場じゃろぅが。日本の漢方界のトップが、漢方を否定するんか」

「否定はぁ、せぇへんん。偽薬プラセボも使いようやでぇ。漢方はぁ、不定愁訴だらけの患者をぉ『効くまで時間が掛かるから』って丸め込めるぅ、魔法のアイテムやぁ。それにぃ、大学のあちこちでぇ、それらしく漢方を語り続けてたらぁ、奇跡まで起こせたぁ。循環器内科の万年講師やったわしがぁ、トントン拍子に漢方の教授になってぇ、今や日本漢方医学会の会長サマやでぇ」

 行木が可笑おかしそうにブーッと吹き出し、生臭なまぐさい唾液が霧のように飛散する。

 紫乃は、立っているのがやっとだ。全身が石になったように固まり、息ができない。

「あんたぁ、ニュースを見たじゃろ? 『timeless』も『時騙し』も、短期間の若返りの後に、不可逆な老化を起こすんで? あんたの場合、『トキモドシ』を際限さいげん無く増やしたんが、命取りじゃ」

 月曜の朝にCNNで流れたニュースは、日本の各種メディアにも取り上げられ、連日、繰り返し報道されている。

たまぁ飛び出たわぁ! 突然TVでぇ余命宣告されたんやでぇ? 『トキモドシ』の有害事象はぁ『時騙し』よりも軽いようにぃねごたけどなぁ。結果はぁ見ての通りやぁ。……お前のオトンが発見した『トキモドシ』はぁ、ただの毒草やんけぇ。どないしてくれるねんん」

「お父ちゃんのせいじゃぁわい! うちの親は何十年も『トキモドシ』を飲み続けて、わきゃぁままじゃった」

「今日はぁ、お前にそのカラクリをぉ訊きに来たんやぁ。『トキモドシ』を飲んでぇ若返ったままでるにはぁ、どぅしたらええねんん?」

 まぶたをこじ開けてにらみ付け、行木がド迫力の重低音を発した。ベッドをへだてても、臭い息が紫乃の鼻粘膜まで届く。

わしには分かっとるでぇ。……ロイとの温泉病院行きが無駄むだぼねやったなんてぇ、大嘘やろぉ? あの小賢こざかしいド金髪がぁ、不毛な行動をぉ取るわけが無いねんん」

 ――行木教授こんなは、どこまで気付いちょるんなら? 米国アメリカ行きもバレたんか?

 紫乃は目を閉じ、ざわざわとき出す不安に耐える。ロイの計画は、完璧だった。比嘉も、入念に偽装を後押ししてくれた。

 目の前の老人は、かつての行木の面影おもかげのこしつつも、以前ほど頭のキレは無さそうだ。

 ――いっちょ、やってみちゃれ。

 間接的にであれ、両親を殺した男だ。

「うちが伊豆へ行ったんは、リハビリのためじゃぁよ。『トキモドシ』の毒素を、一気に強力にデトックスするためじゃ。十リットルの水を飲んで、辛いもんをいっぱい食べて、熱い温泉とサウナに十時間以上入って、大量の汗と一緒に毒素を排出するんよ」

「どんだけぇ強力なデトックスやねんん! 老人にはぁキツイでぇ。……でも助かるにはぁ、それしか無いんかぁぁ?」

「うちは、その方法しか知らんわい。両親も、必ず週一回は一日じゅうサウナにったわ」

 行木が、垂れた瞼から視線をななめに吊り上げ、何やら思案している。

「お前が飲んどる『トキモドシ』はぁ、ロイがぁんで来たんかぁ?」

「あのガイジン、物覚えがわるぅてのぅ。お父ちゃんの日誌はパソコンと一緒に盗られてしもうたけぇ、一生懸命に『トキモドシ』の絵を描いて、採ってさせたんじゃ」

「お前は何gぅ、飲んでるねんん」

「あんたと同じ、一日四gじゃ。多少便秘するが、のぅ」

「やっぱりぃ、そうかぁ。四gが通常量かぁ。どうやら真実をぉしゃべっとるなぁ。お前ぇ、そこらに生えとる得体えたいの知れん草をぉ、よぅ飲めたなぁ」

「あんたなら分かるじゃろ。手足が不自由じゃと、毎日まいにちにとぉなるくらいかなしゅうなる。たった数か月でも元の体に戻れるなら、うちじゃって、毒でも皿でもぅちゃるわい。もしデトックスが効かんかったら、ババァになって死ぬ覚悟じゃ」

わしもお前もぉ、運命共同体っちゅうわけかぁ」

 深く頷きつつ、行木が視線を落とした。涙のように口角から透明なよだれがぽたぽた流れ、次々と糸を引く。

「あんたぁ、デトックスできたら、これからどぎゃぁするんね?」

「とある研究所はぁ、えろぅわしを気に入ったらしいぃ。二週間前ぇ、日本とは段違いの高給でぇ現地採用したいっちゅうぅ連絡が来たぁ。出来るだけはよぅ、わしの手をぉ借りたいんやてぇ。この際ぃ、退職金をもろてぇ、さっさと福山医大なんかぁ辞めたるでぇ」

「景気のええ話じゃのぅ。どこの研究所じゃ?」

 恐らく、両親殺しの黒幕がそこにる。

「アホぉ、まだ言えるかいなぁ。永遠の若さを手に入れてぇ、まだまだ稼がなぁアカンん。前にも言うたやろぉ。わしにはぁ、小学生の娘がるねんん」

 目がしばたたくと同時に、だらんと垂れた唇からボタボタとよだれが落ちた。抜け落ちた歯の隙間から、ヒーッ、ヒーッ、とかすれた金属音が漏れる。顎が、がくがくと震え出した。泣いているようだ。

 ――やっぱり一度、ロイ先生にもろぅたほうが……。

 動きかける心を、ぐっと引き戻す。

「今夜はぁ緑の麻婆マーボーぅてぇ、サウナへ直行するわぁ。新しい勤務先ではぁ巨額の研究費を使つこてぇ、最近は重点的にぃ『トキモドシ』の研究をしとるんやぁ。きっついデトックスなんかせんでもぉ、若返り効果をぉ永続させる方法をぉ既に見付けたかも知れんでぇ」

 その研究所は、すぐに気付くだろう。行木が研究能力の欠片かけらも持ち合わせておらず、急激に老化していると。たとえ雇用契約の時点で見抜けずとも、放置しておけば、給与の支払いは数か月で終わる。

「一日、一日ぃ、気力も体力もがっくりと落ちてよるぅ。今日限りでぇ、おやく御免ごめんにさせてもらうわぁ。しばらく骨休めしてぇ、有休を使い切る頃にはぁ、就労ビザがぁ下りるやろぉ」

「ロイには、ぅて行かんのか? なんだかんだ言うても、ロイはあんたをしとぅちょる」

「彼氏に伝えとけぇ。わしゃぁ、あのガイジンづらを見るとぉ反吐へどが出るねんん」

 ロイの診察を受けるようすすめても、無駄か。

「あっちの研究所でぇ、また成り上がってぇ、今度は世界漢方医学会をぉ立ち上げるんやぁ。わしがぁ初代会長になってぇ、世界の歴史にぃ名を刻むでぇ」

 ゲヘヘヘ、と笑った途端、また大量のよだれが唇から溢れた。体じゅうの水分をよだれで失い、サウナへ行く前に干乾ひからびてしまいそうだ。

 ――同じ野心家でも、むしろアクセルのほうが実直に見えて来たわい。

 経営も、自身が立ち上げた研究も、何ひとつ行木はしていない。

「あんたぁ、すごい人じゃのぅ。デトックス無しでも若さを保つ方法が分かったら、どうか教えてつかぁさい」

 紫乃は両手を合わせ、行木へ頭を下げた。どうしようもなく、残酷な気分だった。

「せやなぁ。それなりのぉ報酬と引き換えにぃ、考えたるわぁ」

 満足そうな笑みを浮かべ、足を引きり、引きり、ゆっくりと行木が出て行った。


  二

 無線警報機がビーッと鳴り、赤く点滅する。時計は午後七時を指している。十数秒後、タッタッと軽い足音と共に、病室のドアがノックされた。間違いなく、ロイだ。

 紫乃はベッドを下り、ドアに走り寄る。

 ロイが手に封筒を握り、ほうけた顔で入って来た。

「医局に、行木教授からの手紙が置いてあってん!」

 返事もせず、紫乃は巨体に思い切り抱き付く。

 えーん、えーん。

 自分でも驚くほど子供じみた泣き声で、しゃくり上げた。悲しいのか怖いのか、わけの分からないごちゃ混ぜの感情が、体の内側で暴発している。

「どないしてん? なんか恐ろしい目にぅたんか?」

 ロイの白衣の胸に顔をうずめたまま、紫乃はかぶりを振った。

「何も、されちょらん。一番悪逆非道なのは、うちかも知れん」

 わんわん、わんわん、しばらく紫乃は泣き続けた。

 大きな手に背中をさすられ、心の暴風雨に少しずつ晴れ間が差す。

 ロイに体を支えられ、ソファへ移動する。ありのままに、二時間前の出来事を話した。嘘をつき、行木を見殺しにしたことも。

「脈診はペテン、お父ちゃんが発見したんは毒薬じゃと決め付けられて、頭ん中が真っ白になってしもぅた」

「お前は、なんもわるぅない。『五十六歳で妊娠・出産した』症例がお前のオカンやと他人へ教えた時点で、行木教授は医者としても人間としてもアウトや。そのせいで若返り薬の秘密が漏れて、両親を殺されたんやろが」

「行木教授の命は、どう見てもなごさそぅじゃった。歯も髪も抜けて、だらだらよだれを垂れ流して、一週間前とは別人じゃった」

「現時点で漢方を使つこても、もうおそ過ぎる。それに、漢方の併用が必須やと教えても、納得せんやろ。ある意味、自業自得や」

 自身に言い聞かせるように、ロイが固く目を閉じた。

「行木教授は、置き手紙に『もうしんどい。今日で辞める。後は頼むで』とだけ書いてた。長い付き合いやのに、たった三行やで? わけが分からんかったけど、お前のおかげで納得したわ。内心では、俺を毛嫌いしてたんやな……」

 ロイがうなだれてソファに沈むと、大きな体がひと回り小さく見えた。その金髪キンパツアタマを、紫乃は思い切り叩きたくなった。

「あんたも、自分がおもぅ通りの人生を生きたらええじゃろ! まずは、教授になったらどうじゃ? うちが手伝てつどぅちゃるけぇ」

 日本の伝統医学――漢方を、ロイに広めて欲しい。父の想いを支えた母のように、自分もロイの信念に、ロイの漢方に寄り添いたい。

 虚をかれたように、ロイがまじまじと紫乃を見詰めた。灰青色スカイグレーの瞳の奥へ、吸い込まれそうになる。

「お前、熱でもあるんか? 何でも途中で放り出して泣きわめく、根性無しの研修医やったくせに。……実は、もう一つ、ビッグ・ニュースやで」

 ロイがTVをけた。CNNでは、月曜朝と同じラテン系女性キャスターが、歯切れ良く英語を喋っている。

「中国のこうらん医薬が、アスタリスク製薬の買収と子会社化を発表しました。アスタリスクは、臨床試験の失敗と有害事象の隠蔽が相次いで発覚し、株価の急落が続いています。主力商品のワクチンの不買運動が起きて資金繰りに行き詰まり、ここ数日は大量のリストラを断行していました。恒蘭医薬は、『timeless』の特許権を獲得し、『夢の若返り薬』の研究を継続すると明言しています」

「さすが中国やろ? 資金力があるうえに、動きが早い。ドジでノロマな日本とは、えらい違いやで」

「アクセルは、どうなるんじゃ? 子会社になっても、目指す研究ができるんじゃろぅか」

「高給取りの年寄りは、全員クビやろ。恒蘭医薬は、ホクホク顔やで。アスタリスクの遺伝子組換えワクチンの開発技術は、業界ではズバ抜けとる。それに、なんと言っても、『timeless』を飲んだ被験者たちの血液データは、宝の山や。特許権と一緒に、親父の研究成果も全部没収されるやろな」

「アクセルは壮大な夢を描いて頑張っちょったんに、むくわれんのぅ。軍事転用とか物騒な目的を持たんなら、人類の未来を一変させる素晴らしい研究じゃったが」

 紫乃自身が、今、研究の恩恵を受けている。父が創った「若返り薬」のおかげで、手足の麻痺は完治した。

「俺の親父よりも遙かに危険な発想をする奴が、中国には無数にるやろな。もう、どうにもならへん」

 無念そうに、ロイがTVのリモコンを握り締めた。

 突然、CNNの女性キャスターの表情が、緊張を帯びた。

「たった今、入ったニュースです。現地時間の午後五時、上海薬物研究所が記者会見を開きました。『時騙し』は、中国の伝統医学を併用すれば、有害事象をきたさないとの研究成果を得たそうです。つまり、『時騙し』の若返り効果は永続すると主張しています。上海薬物研究所は、『時騙し』の有効成分『timeless』の特許権を獲得した恒蘭医薬と歩調を合わせ、今後更なる研究を進める計画です」

 はっ、と紫乃はロイと顔を見合わせた。

「うちのお父ちゃんが『トキモドシ』に日本の漢方を併用したんと同じじゃ! 犯人が、分かったわい。行木教授が情報を送ったんは、上海薬物研究所じゃ!」

 ロイの左頬のケロイドが、真っ赤に膨れ上がっている。

「上海薬物研究所と恒蘭医薬は、最初からグルやな。株価が下がり切って、恒蘭医薬がアスタリスクを買い叩くまで、上海薬物研究所は発表を遅らせてたんや。中国の産官連携も、欧米以上にエグいわ」

 TV画面が、上海薬物研究所の記者会見場を映す。カメラの視点が、会見テーブルの中央から右端へ流れる。

「上海薬物研究所は、『timeless』で生じたとされる認知症類似の脳細胞の変化についても、積極的かつ完璧な対策を講じると強調しています。対策チームのリーダーとして、認知症の新薬開発の第一人者を招聘しょうへいしました」

 テーブルの右端がズームアップされ、うつむいていたワイシャツ姿の男が、顔を上げた。居並いならぶ中国人たちよりもふたまわり小さい、貧相なアジア人だ。カメラのフラッシュを無数に浴び、まぶしそうに目を細める。

「世界で初めてタウ蛋白分解酵素を発見した、前・米国アメリカ国立衛生研究所NIH室長、伊豫いよすばる博士です」

 ロイが、咆哮した。

「伊豫ォ! やっぱり、自分から研究データを売ったんやな! 行木教授よりも最低や!」

 TV画面の中で、伊豫が立ち上がる。頬だけを軽く吊り上げ、会釈した。細い目は、笑っていない。既に所作は、中国人よりも中国人らしい。

国立衛生研究所NIHに居続けても、研究資金をれんのじゃろ? 中国へ移るんも、しょうがぁわい」

 紫乃のしなど耳に入らぬように、ロイの顔全体が憤怒ふんぬで紅潮している。

「なんちゅう変わり身の早さや! どこかの時点で、伊豫は気付いたんや。オトンの日誌が、米国アメリカぅて、中国へ渡ったと。せやから、さっさとアスタリスクを見限った。研究者としての技能に加えて、自前の爆弾まで中国に売り込んで、さぞかし大金をせしめたやろ」

 父親譲りの巨躯から、炎が立ち昇らんばかりだ。

 紫乃が思うに、環境を変えたがる人間に対し、ロイは手厳しい。グリニッチのレストランの前で、ロイが怒鳴り上げた言葉を思い返す。

 ――現状が苦しくて、他の環境が良さそうに見えても、逃げるな! 今、この場所で勝負せんかい!――

 中二のときに異国へ移住せざるを得なかった、ロイらしい信条だ。

「キレモノの伊豫さんを引き抜くんは、分かる。じゃが、行木教授なんかをやとぅて、どうするんかのぅ?」

「ホンマやな。研究も語学も漢方も、なぁーんもできへんのに。ある意味、中国勢の唯一の失態やな。……行木教授の件と中国勢のニュースは、広島県警に連絡しとこぅや」

「そうじゃった! 教授の身辺を洗えば、奴らと接触した記録が残っちょるじゃろ!」

 ロイが訪れるまで、それほど冷静さを失っていたのか。心の中でロイの存在が大きくなるにつれ、寄り掛かって体重を預け過ぎてしまう。

 不意にロイが紫乃へ振り向き、灰青色スカイグレーの瞳でじっと見詰みつめた。顔の赤みは、消えている。

「お前、今日から自由の身になったで」

「何を言うちょるんなら? あんたぁ、惚れた女を束縛したいタイプか」

「『若返り薬』の秘密が、白日のもとさらされたんや。お前の命が狙われる可能性は、もう無い。残念やけど、オトンの日誌も、日誌の内容を知る人間も、価値をうしのぅた」

 言葉の意味が全身へ、少しずつ重く、染み渡る。

 ――お父ちゃん、スマンのぅ。全部、盗られてしもぅたわい。

「終わったんじゃのぅ。日本から世界へ、『若返り薬』を売り出す夢も」

「お前も俺も、『世界に名をとどろかせるセレブ』には、なれへんかったな」

 おどけて片眉を上げた金髪ガイジンを見たら、体じゅうの力が抜けた。どんなときもユーモアを忘れない男だ。

 くつくつくつ。

 へその辺りから、笑いが込み上げて来た。四週間前、突然の家宝の出現に舞い上がっていた自分。今となっては、滑稽だ。

 ぱしーん!

 不良ガイジン講師の巨大な膝を、思い切り叩く。

「あんたぁ、最初から、もうけ話に乗らんかったくせに!」

 すっかり自由を取り戻した、右手だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る