第23話 若返りの代償
一
ビーッ、というブザー音と共に、手元の無線警報機が赤く点滅した。VIP病棟の出入口が、
紫乃の心を、ふと不安がよぎる。
――誰じゃろぅか?
金耀の夕方五時だ。ロイが訪れるには、早過ぎる。比嘉教授や救急科の女性スタッフは、決まって早朝に様子を見に来る。VIP病棟に入れるのは、警備員か講師以上の
――妙に遅いのぅ。まだ
訪問者の足は、ロイや比嘉などとは段違いにゆっくりだ。
ノックと共に、病室のドアが開く。紫乃は
「見舞いにぃ
低い
いきなり、右手をグッと握られた。びくっ、と手を引っ込めそうになる。行木の手が移動し、紫乃の左右の足も、グッ、グッ、と
「
独り言のように、ぽつぽつと
次の瞬間、怒声が爆発した。
「答えんかいぃ、コラァァ! とぅにぃ意識は戻ってるぅやろぉがぁ!」
顔面へピチピチと唾液が
がばっと飛び起き、怒鳴り返す。
「いきなり耳元で、うるさぁわ! ぶちまわしちゃろぅか!」
行木が
「あんたぁ……誰ね?」
目の前に居るのは、百歳を過ぎた皺くちゃの老人だ。
「もうすぐぅお前もぉ、こうなるでぇ。左半身麻痺がぁ完璧にぃ治ってるやんん……ってことはぁ、飲んでるんやろぉ? 『トキモドシ』をぉ」
行木の顔は、黒ずんだ
「トキモドシ』を知っちょるとは……あんたぁ、お父ちゃんの日誌を読んだんか?」
「解読させてぇ
「
「世界じゅうにぃ
「あんたぁ、飛び付いたんか。立派な教授サマが、
「脳出血をぉ
「お父ちゃんとお母ちゃんが殺されると分かってて、奴らに身元を知らせたんか」
「まさかぁ。
グハハと笑った唇の端から、
紫乃は、まばらになった行木の白髪を顎で指した。
「確かに、見るも無残な坊主になり掛けちょるわい。あんたぁ、英語も中国語も読めん
行木の
「英語や中国語にぃ堪能な人材はぁ、どこにでもぉ
「その注釈を奴らへ送ったんは、いつじゃ?」
「一か月ほど前やぁ。その後ぉ、
「あんたぁ、いつから『トキモドシ』を飲んじょるんなら?」
「日誌を読んでからやぁ。慌てて千光寺へ走ってぇ、『トキモドシ』をぉ採れるだけ採ったでぇ。効果は絶大やったぁ。ひと晩でぇ、手足の麻痺が
「一か月ほど前――うちが、漢方診療科で研修を始める直前からか。どんだけの量を飲んだんじゃ?」
「日誌に書いてあった通りぃ一日四gから始めてぇ、その後はぁ毎日十gやぁ。また急激にぃ老化が始まったからぁ、ここ一週間はぁ一日二十gにしてるでぇ」
両親が飲んでいたのは、二人分で一日四gだ。
「二十gじゃて⁉ 危ないとは、思わんかったんか?」
「知るかいな。
「
四gを一度服用しただけで父は十日間も便秘したと、ロイが日誌の話をしていた。
「やっぱりお前ぇ、『トキモドシ』の副作用までぇ熟知しとるなぁ。
十gや二十gを毎日飲んだら、瞬時に「陰液」が枯渇してしまう。あっという間に若返りの時期を過ぎ、老化へ転じただろう。
「漢方薬は、何を併用しちょるんなら?」
象の皮のようにカサついて
「漢方やてぇ? んなもんん、飲まへんわぁ。漢方薬なんざぁ、
紫乃の目の前で、火花が
「漢方の教授の
「あんな注釈に大金を
「あんたの腕が、悪いからじゃろ! 自分の技量の
怒気が爆発して、頭がくらくらする。
「『漢方の腕』っちゅうのがぁ、
グハハと笑うたび、粘っこい
「あんたぁ、漢方の素晴らしさを教えにゃぁいけん立場じゃろぅが。日本の漢方界のトップが、漢方を否定するんか」
「否定はぁ、せぇへんん。
行木が
紫乃は、立っているのがやっとだ。全身が石になったように固まり、息ができない。
「あんたぁ、ニュースを見たじゃろ? 『timeless』も『時騙し』も、短期間の若返りの後に、不可逆な老化を起こすんで? あんたの場合、『トキモドシ』を
月曜の朝にCNNで流れたニュースは、日本の各種メディアにも取り上げられ、連日、繰り返し報道されている。
「
「お父ちゃんのせいじゃ
「今日はぁ、お前にそのカラクリをぉ訊きに来たんやぁ。『トキモドシ』を飲んでぇ若返ったままで
「
――
紫乃は目を閉じ、ざわざわと
目の前の老人は、かつての行木の
――いっちょ、やってみちゃれ。
間接的にであれ、両親を殺した男だ。
「うちが伊豆へ行ったんは、リハビリのためじゃ
「どんだけぇ強力なデトックスやねんん! 老人にはぁキツイでぇ。……でも助かるにはぁ、それしか無いんかぁぁ?」
「うちは、その方法しか知らんわい。両親も、必ず週一回は一日じゅうサウナに
行木が、垂れた瞼から視線を
「お前が飲んどる『トキモドシ』はぁ、ロイがぁ
「あのガイジン、物覚えが
「お前は何gぅ、飲んでるねんん」
「あんたと同じ、一日四gじゃ。多少便秘するが、のぅ」
「やっぱりぃ、そうかぁ。四gが通常量かぁ。どうやら真実をぉ
「あんたなら分かるじゃろ。手足が不自由じゃと、
「
深く頷きつつ、行木が視線を落とした。涙のように口角から透明な
「あんたぁ、デトックスできたら、これからどぎゃぁするんね?」
「とある研究所はぁ、えろぅ
「景気のええ話じゃのぅ。どこの研究所じゃ?」
恐らく、両親殺しの黒幕がそこに
「アホぉ、まだ言えるかいなぁ。永遠の若さを手に入れてぇ、まだまだ稼がなぁアカンん。前にも言うたやろぉ。
目が
――やっぱり一度、ロイ先生に
動きかける心を、ぐっと引き戻す。
「今夜はぁ緑の
その研究所は、すぐに気付くだろう。行木が研究能力の
「一日、一日ぃ、気力も体力もがっくりと落ちて
「ロイには、
「彼氏に伝えとけぇ。
ロイの診察を受けるよう
「あっちの研究所でぇ、また成り上がってぇ、今度は世界漢方医学会をぉ立ち上げるんやぁ。
ゲヘヘヘ、と笑った途端、また大量の
――同じ野心家でも、むしろアクセルのほうが実直に見えて来たわい。
経営も、自身が立ち上げた研究も、何ひとつ行木はしていない。
「あんたぁ、すごい人じゃのぅ。デトックス無しでも若さを保つ方法が分かったら、どうか教えてつかぁさい」
紫乃は両手を合わせ、行木へ頭を下げた。どうしようもなく、残酷な気分だった。
「せやなぁ。それなりのぉ報酬と引き換えにぃ、考えたるわぁ」
満足そうな笑みを浮かべ、足を引き
二
無線警報機がビーッと鳴り、赤く点滅する。時計は午後七時を指している。十数秒後、タッタッと軽い足音と共に、病室のドアがノックされた。間違いなく、ロイだ。
紫乃はベッドを下り、ドアに走り寄る。
ロイが手に封筒を握り、
「医局に、行木教授からの手紙が置いてあってん!」
返事もせず、紫乃は巨体に思い切り抱き付く。
えーん、えーん。
自分でも驚くほど子供じみた泣き声で、しゃくり上げた。悲しいのか怖いのか、
「どないしてん? なんか恐ろしい目に
ロイの白衣の胸に顔を
「何も、されちょらん。一番悪逆非道なのは、うちかも知れん」
わんわん、わんわん、しばらく紫乃は泣き続けた。
大きな手に背中を
ロイに体を支えられ、ソファへ移動する。ありのままに、二時間前の出来事を話した。嘘をつき、行木を見殺しにしたことも。
「脈診はペテン、お父ちゃんが発見したんは毒薬じゃと決め付けられて、頭ん中が真っ白になってしもぅた」
「お前は、なんも
「行木教授の命は、どう見ても
「現時点で漢方を
自身に言い聞かせるように、ロイが固く目を閉じた。
「行木教授は、置き手紙に『もうしんどい。今日で辞める。後は頼むで』とだけ書いてた。長い付き合いやのに、たった三行やで?
ロイがうなだれてソファに沈むと、大きな体がひと回り小さく見えた。その
「あんたも、自分が
日本の伝統医学――漢方を、ロイに広めて欲しい。父の想いを支えた母のように、自分もロイの信念に、ロイの漢方に寄り添いたい。
虚を
「お前、熱でもあるんか? 何でも途中で放り出して泣き
ロイがTVを
「中国の
「さすが中国やろ? 資金力があるうえに、動きが早い。ドジでノロマな日本とは、えらい違いやで」
「アクセルは、どうなるんじゃ? 子会社になっても、目指す研究ができるんじゃろぅか」
「高給取りの年寄りは、全員クビやろ。恒蘭医薬は、ホクホク顔やで。アスタリスクの遺伝子組換えワクチンの開発技術は、業界ではズバ抜けとる。それに、なんと言っても、『timeless』を飲んだ被験者たちの血液データは、宝の山や。特許権と一緒に、親父の研究成果も全部没収されるやろな」
「アクセルは壮大な夢を描いて頑張っちょったんに、
紫乃自身が、今、研究の恩恵を受けている。父が創った「若返り薬」のお
「俺の親父よりも遙かに危険な発想をする奴が、中国には無数に
無念そうに、ロイがTVのリモコンを握り締めた。
突然、CNNの女性キャスターの表情が、緊張を帯びた。
「たった今、入ったニュースです。現地時間の午後五時、上海薬物研究所が記者会見を開きました。『時騙し』は、中国の伝統医学を併用すれば、有害事象を
はっ、と紫乃はロイと顔を見合わせた。
「うちのお父ちゃんが『トキモドシ』に日本の漢方を併用したんと同じじゃ! 犯人が、分かったわい。行木教授が情報を送ったんは、上海薬物研究所じゃ!」
ロイの左頬のケロイドが、真っ赤に膨れ上がっている。
「上海薬物研究所と恒蘭医薬は、最初からグルやな。株価が下がり切って、恒蘭医薬がアスタリスクを買い叩くまで、上海薬物研究所は発表を遅らせてたんや。中国の産官連携も、欧米以上にエグいわ」
TV画面が、上海薬物研究所の記者会見場を映す。カメラの視点が、会見テーブルの中央から右端へ流れる。
「上海薬物研究所は、『timeless』で生じたとされる認知症類似の脳細胞の変化についても、積極的かつ完璧な対策を講じると強調しています。対策チームのリーダーとして、認知症の新薬開発の第一人者を
テーブルの右端がズームアップされ、
「世界で初めてタウ蛋白分解酵素を発見した、前・
ロイが、咆哮した。
「伊豫ォ! やっぱり、自分から研究データを売ったんやな! 行木教授よりも最低や!」
TV画面の中で、伊豫が立ち上がる。頬だけを軽く吊り上げ、会釈した。細い目は、笑っていない。既に所作は、中国人よりも中国人らしい。
「
紫乃の
「なんちゅう変わり身の早さや! どこかの時点で、伊豫は気付いたんや。オトンの日誌が、
父親譲りの巨躯から、炎が立ち昇らんばかりだ。
紫乃が思うに、環境を変えたがる人間に対し、ロイは手厳しい。グリニッチのレストランの前で、ロイが怒鳴り上げた言葉を思い返す。
――現状が苦しくて、他の環境が良さそうに見えても、逃げるな! 今、この場所で勝負せんかい!――
中二のときに異国へ移住せざるを得なかった、ロイらしい信条だ。
「キレ
「ホンマやな。研究も語学も漢方も、なぁーんもできへんのに。ある意味、中国勢の唯一の失態やな。……行木教授の件と中国勢のニュースは、広島県警に連絡しとこぅや」
「そうじゃった! 教授の身辺を洗えば、奴らと接触した記録が残っちょるじゃろ!」
ロイが訪れるまで、それほど冷静さを失っていたのか。心の中でロイの存在が大きくなるにつれ、寄り掛かって体重を預け過ぎてしまう。
不意にロイが紫乃へ振り向き、
「お前、今日から自由の身になったで」
「何を言うちょるんなら? あんたぁ、惚れた女を束縛したいタイプか」
「『若返り薬』の秘密が、白日の
言葉の意味が全身へ、少しずつ重く、染み渡る。
――お父ちゃん、スマンのぅ。全部、盗られてしもぅたわい。
「終わったんじゃのぅ。日本から世界へ、『若返り薬』を売り出す夢も」
「お前も俺も、『世界に名を
おどけて片眉を上げた金髪ガイジンを見たら、体じゅうの力が抜けた。どんなときもユーモアを忘れない男だ。
くつくつくつ。
ぱしーん!
不良ガイジン講師の巨大な膝を、思い切り叩く。
「あんたぁ、最初から、
すっかり自由を取り戻した、右手だった。
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