書棚の影

根寿満

書棚の影

 私は被害者だ。

 少なくとも、私の世界地図の上では。そう言わなければ、誰も信じてくれない。 

 私は、家族にも、友人にも、ずっとバカにされてきた。彼らにとって私は箱庭の天使らしい。かよわくて役に立たない、非力な女の子。そんな扱いをされるたび、他人の上っ面の愛が透けて見えてくるようになっていった。

 私は本当に愛されたかったから、真実の愛を求めて、私を傷つけてくる偽物の愛から逃げ隠れし続けた。そうして気がつけば、愛着に回避性のある障害を患ってしまった。


 だから、彼の言葉に出会ったとき、私は泣いた。やっと神様が見てくれたのだと思った。いや、正確にはソーシャルネットワークサービスのアルゴリズムが私を見つけただけなのかもしれないが。

 彼は天使のごとく、私の前に現れた。彼は小説や詩を書いていて、ほぼ全てが私の理想的な内容だった。彼の綴る文章は、まるで私の為にだけ作られた線路。天国行きの切符は、きっと羽の生えた車掌の彼から買うのかな。


『僕の気持ちはここにある』


 その一文で、私は救われた気がした。あれは世界にばら撒かれたポエムじゃない。私にだけ向けられた暗号。そう確信した。思い込み力こそ、私の特技だから。

 だから毎日欠かさず読んだ。どんなに疲れていても、歯を磨くのをサボっても、風呂に三日くらい入らなくても、彼の言葉だけは欠かさなかった。胸に突き刺さるその痛みを“愛”と名付ける。なんでも名前をつければ愛っぽくなる。ペットの金魚と同じ。


 ある日、彼は“砂上の乙女”という純文学小説を挙げた。「好きだ」と言っていた。私が彼に言われたくて夢見ていた、その言葉。

 私は泣きながら本屋に走った。世界を共有しなくては、と使命感に駆られて。

 だがページをめくるたび、気持ち悪くて吐きそうになった。頭の中に御器噛が走り回り、全身粟立つような読書体験。


「これ……性行為しかしてないじゃない」


 私はそう断じた。ページを開けば、またそれ。いや実際には“暗喩”とか“象徴表現”とか呼ばれる、まわりくどい言葉遊びばかりだった。けれど私の頭に残ったのは、そこだけ。言葉の森を前にして唯一拾えるのが、男女のボディラインの影が絡み合い蠢く様子しかない。

 なによこれ、ただのエロ小説じゃない。それに全然萌えなくて気持ち悪い。私は男女の性的なシーンが苦手なのに。ボーイズラブのラブシーンの方がまだマシだ。


(どうして……どうして私にこんな仕打ちを……?)


 世界でいちばん哀れな私が、また犠牲になったのだ。文学の犠牲者。いや、正確には比喩表現に殺された読者、とでも言おうか。


「純文学って皆こうなの?」

「気持ち悪過ぎる……!」


 そう声に出さなければ、私自身が崩れてしまいそうだった。彼のせいで、また私が犠牲になった。犠牲のプロ、もはや職業欄に書けるレベル。

 でも私は彼を手放せなかった。嫌いだと罵る言葉さえ、彼を繋ぎ止める鎖になった。いや、正確にはワイファイのパスワードみたいなものだ。繋がっている間は文句を言える。切れたら一気に孤独だ。


「気持ち悪い」

「トラウマになった」


 そう叫ぶときほど、私は彼を近くに感じる。愛の言葉より呪詛のほうが強い。これは科学だ。きっと心理学の論文にも載っている、と思う。

 結局、私が世界で一番、彼を理解している。理解というより、粘着に近いけれど。

 だから仕方ない。私は彼の被害者であり、唯一の理解者。加害者と被害者、愛と呪い、どれも紙一重。いや、コピー用紙一枚くらいペラッペラな境界線だ。

 彼がどこへ逃げても、私の声は追いかける。ジーピーエスも不要。可哀想な私の泣き声を無視できる人なんていない。たぶん。

 ねえ、私がこんなに泣いているのに、あなたはまた私を捨てるの?


(……まあいいわ、私は被害者だから)


 仕方なく、あなたを愛し続けてあげる。慈悲深い被害者として。

 あなたが私の為のだけに敷いた線路がある限り、私はあなたの故郷であろう天国行きの切符を手放さない。私とあなたはきっと似た者同士。だから、あなたの綴る言葉も、あなたが纏う雰囲気も、きっと私に相応しいはずよ。

 私が生きている限り。あなたはもう二度と、逃げられない。きっとこれが“愛”なのね。

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書棚の影 根寿満 @nezumichan

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