エボリューション

オイイイイイ

第0話 プロローグ、少年と朽ちたエボ7


 イギリスはロンドン郊外。とある日曜の午後、裏庭で埃まみれの工具箱を広げ、17歳の少年は朽ちた一台の車の前に立った。荒れた塗装、錆びの浮いたボディ、割れたライト、動作不明のエンジン、その他諸々……


 まるで深海から引き上げた有様のそれは、かつてWRCのグループAでトミーマキネンが無敵の走りを見せた、三菱ランサーエボリューション、その7代目にあたるマシンだ。


 しかし、その栄光も今は昔、目の前の車は誰も乗らず時代に取り残されたような無惨な姿だった。


「まずはクランクを回すか……」


 Amazonで買ったミリ規格の真新しいレンチを使い込まれた工具箱から取り出し、クランクシャフトに噛ませると慎重に力を込める。少し硬い……が行けそうな予感がした。


 一旦レンチを置き、エンジンを覆う埃を払いプラグを外すと浸透性の潤滑剤をプラグホールから吹く……


 暫く放置した後、ゆっくりと手で回す、グッ……重い、だが反応がある。三菱の4G63エンジン、鋳鉄ブロックの頑丈さが頼もしい。手のひらに伝わる感触が、まるで「まだ走り足りない、もっと走りたい」と訴えてくる。少年はその声に応えるように、もう一度力を込める。


「よし……行ける」


 レンチに込める力と共に静かに回り始めるクランクシャフト、エンジンはまだ眠っているが目覚めの予感があった。


 少年の心も、エボ7と同じく再び熱を帯びていく。小さな成功に胸が高鳴る。これが、あの頃カートで感じたスピード感や緊張感に繋がることを、彼は直感していた。


 背後から軽やかな声がした。隣の敷地に住む整備工場のメカニックだ。普段は静かな男が、少年の作業ぶりをじっと見つめ、微かな笑みを浮かべる。


「悪く無い……なかなか手慣れてるじゃないか」


 少年は一瞬、息を呑む。誰かに自分の作業を見られることはほとんどなかった。そして、この出会いが、彼の車人生を大きく動かすとは、まだ知る由もない――。


 裏庭の静けさの中、エボ7は静かにその目覚めを待っていた。少年の手が再びクランクに触れ、物語はここから回り始めるのだった。


 メカニックの男は、手にしたマグカップの紅茶を軽く揺らしながら、錆びたエボ7を見つめた。

 彼の名はエルヴィス、街の片隅で整備工場を営む男で、地元の草レースにも顔を出すほどの車好きだ。


「クランクが回ったなら、ひとまず安心だ。だが問題は山積みだ」


 エルヴィスは片眉を上げ、フロントフェンダーに手を置いた。


「燃料系統はガムみたいに詰まってるだろうし、タービンも回るか怪しい。ECUは……まあ、通電させてみないとわからん」


 少年は黙って頷いた。胸の奥に不安と興奮が入り混じる。


「でも……走らせたいんだ。こいつを。絶対に」


 エルヴィスはその言葉に一瞬だけ目を細めた。


「そうは言ってもこの車は日本車だ、おまけにネジ一本ですらミリ規格、更に20年以上も昔のクラシックカーだぞ?」


 工具だけならAmazonが有る、しかし情熱だけでどうにかなる世界ではないことを、彼は身をもって知っている。ましてや日本製の電子制御満載のサイボーグの様な車だ、その難易度は言わずもがなだ。

 だが同時に、この車に情熱を注ぐ少年の目は、整備士として無視できないものがあった。


「分かった、手を貸そう。ただし条件がある」


「条件?」


「ああ、このガラクタを直すために、何を切って、何を残すか。全部自分の頭で考えろ。俺は答えを出さない。お前が判断するんだ」


 少年はごくりと喉を鳴らした。

 その瞬間、ただのレストアが「試練」へと変わった気がした。


「分かりました、でもなんで? 俺これ買って金も殆ど残ってないし、出せるものは何も無いのに……」


「だったら俺んとこでバイトしろ、仕事終わったら後なら道具貸してやる。それにな、俺らがお前さんくらいの時にゃ、ゴルフGT-Iやルノー5GT、プジョー205GTI、フォードフィエスタXR2なんかの所謂ボーイズレーサーを転がしてたんだ」


(まあ、アウディ Ur-クアトロは高くて買えなかっただけだが)


「はい、車好きの叔父に聞いたことあります」


「だけどコイツは腐っても、man'sおとこの carくるまだ、ガキがおとこになろうってんだ、手伝ってやるよ」


 エルヴィスはニヒルな笑みを湛えて、下手くそなウインクをした。


 数日後、燃料ポンプと配管を清掃し、油脂類と冷却水、プラグを交換、最低限の整備を済ませた。埃まみれの死んだバッテリーを外し、エルヴィスが工場から持ってきた別のバッテリーに積み替える。


 キーを回す。

 セルモーターが唸りを上げる。だが――エンジンはかからない。


「……燃料が来てねぇな」


 ジーと言う燃料ポンプの作動音がしない。そう溢すエルヴィスの声が低く響く。少年は唇を噛みしめる。


 再度キーをひねりセルを回す。カラカラと乾いた音が続く。

 焦りが指先を震わせる。胸が熱くなる。


 ――その時。かすかな爆発音が響いた。


「……ッ!」


 少年の目が見開かれる。次の瞬間、眠れる4G63は目覚めの咆哮を上げた。


 落ち着きなく不安定に揺れるアイドリング。エアフロか? インジェクターか? はたまたECUがおっ死んでるか。それでも確かに、17歳の少年とエボ7は今、呼吸を合わせていた。


「先ずは、生き返ったな」


 エボ7が吐き出す少々不安定だが、ボォォォーと響く低いエグゾーストノートにエルヴィスが腕を組み、口元を緩めた。


「だがな、こいつを“ただの中古車”にするか“戦えるマシン”にするか、生かすも殺すもお前次第だ」


 少年の胸の奥に、熱い炎が宿る。

 エボ7の震動が、その決意を後押しするように響いていた。

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