失せ物商店幻影堂

葉牡丹

導かれた路地裏

雨音が窓を叩く。

母の枕元に座るまだ幼い私の手を、冷たくなりかけた指がそっと包む。


「…お母さんは……あなたの幸せをずっと願っているわ」


吐息のような声。 

母は微笑み首から下げていた鮮やかなピンクのバラのネックレスを外し、私の手のひらに滑り込ませた。

 

その温もりを確かに感じたはずなのに――。 


その数時間後、母は静かに息を引き取った。


蝋燭ろうそくの小さな炎だけが頼りなく揺れ、油の匂いが部屋を満たす。

白いシーツに沈む母はまるで薄いもやに包まれて遠ざかっていくようで、伸ばした指先はもう届くことはなかった。


その夜、私はただ、握りしめたネックレスの冷たさだけを確かめていた。

 

今、そのネックレスはもう手元にない。

失くしたのはいつだったのか、もう思い出したくもない。

ただ、胸の奥にぽっかりと空いた穴だけが、確かにまだ残っていた。


 ――


「……雨かあ」


放課後、駅へ向かう帰り道。

肩のスクバを持ち直し、私は力なくため息をついて空を見上げる。

どんよりとした雲の下、ポツポツと降り始めた雨粒は、すぐに傘を叩きつけるほどの勢いになった。


「今日は土砂降りかなあ」


ぽつりと呟くと、それに答えるようにポケットの中のスマホが短く震えた。

開くと、お父さんからメッセージが届いている。

 


今日の夕飯はカレーです!

帰りにルーを買ってきてくれると嬉しいな〜!!


 

思わず頬が緩む。


「ふふ……帰りにスーパー寄らなくちゃだね」


そうつぶやくと、道端の黒猫がにゃあと短く鳴いた。

雨に濡れた毛並みを震わせるその姿に、私はしゃがみ込みそっと手を差し出す。


「こんなところにいたら風邪ひいちゃうよ?」


指先が触れそうになった瞬間、スクバに付けていたくまのキーホルダーが地面に落ちる。


拾おうと手を伸ばした瞬間、黒猫が素早くそれをくわえ、すっと立ち上がり、濡れた石畳を軽やかに駆けていく。


「あ、ちょっと待って!」


慌てて後を追いかけたが路地裏の角を曲がったところで、猫の姿は忽然こつぜんと消えていた。


「……キーホルダー、取られちゃったな」


肩で息をつく。

諦めて引き返そうとしたとき、一軒の店が目に入った。


「あれ、こんな所にお店なんかあったかな?」


古びた木の看板には「幻影堂げんえいどう」と記されている。

どこかレトロな匂いを残し、雨の中にぼんやりと浮かぶように佇む、不思議な雰囲気を持っていた。


「入ってみちゃおうかな……」


どうせ雨もしばらく止みそうにない。

私は雨宿りがてら、その店の扉に手をかける。


――触れた瞬間、冷たい木の感触の奥に、どこか懐かしい温もりが滲む。


カラン、とベルが鳴ったとき、古い木と紙の甘い匂いが鼻をかすめ、雨音が遠のいたような気がした。



扉を開けた先には、店の外見のレトロな雰囲気を裏切らない、落ち着いた空間が広がっていた。

アンティークの商品が整然と並べられ、店内はランプの暖かい光に包まれている。


「おや? お客さんかい?」


後ろから優しい声がして、私は思わずびくんと肩を上げる。


「おっと、ごめんね。驚かせるつもりはなかったんだ」


振り返ると、長い銀髪を低い位置で横に一つにまとめた中性的な顔立ちの男性が立っていた。


「あ、いや……全然大丈夫ですっ」



日常生活ではなかなか見かけない雰囲気の彼に見つめられて視線を逸らす私に彼は微笑みをかける。


「おやまあ、大丈夫かい? 顔が真っ赤だけど」


心配そうに顔を覗き込むその視線に、私は手を横に振って答える。


「いや……!、大丈夫です」


「そうかい?」

 

にこりと笑った彼は、胸に手を当てて言った。


「初めまして……僕の名前は葵月あおつき、よろしくね」


「わ、私の名前は水瀬璃子みなせりこです」

 

ぺこりと頭を下げると、葵月あおつきさんは優しく口元をゆるめた。


「ああ、よろしくね」


ふと私は視線を店内に巡らせる。すると――


「あっ、さっきの猫……?」


視線の先には、私のキーホルダーをくわえて逃げた黒猫が、カウンターの上でお腹をゴロゴロ鳴らしていた。


「おや、君はクロロともう知り合いだったんだね」


少し驚いたように顎に手を置く葵月あおつきさん。

私はクロロの元へ行き、手を差し出す。


「猫ちゃん、さっきのキーホルダー返してくれないかな?」


視線を合わせてそう言うと、クロロはあくびをし、ぷいっとお尻を向ける。

少しイラッとして頬を膨らませる私に、葵月あおつきさんはにこりと笑った。


「あはは、ごめんね。クロロが今日はお土産を持って帰ってくるなんて珍しいなぁと思っていたんだ。でも、これ、君のだったんだね」


そう言うと、カウンターの裏手に回り、ゴソゴソと何かを探す。


「これで合ってるかな?」

 

目の前にくまのキーホルダーを差し出され、私は思わず手を伸ばす。


「あ、これです! ありがとうございます……!」


「ごめんね、クロロも悪気はなかったと思うよ」


クロロと目を合わせると、べっと舌を出して再び丸くなる。

 

(……ほんとに悪気なかったのかな?)

 

じとーっと見ている私に、葵月あおつきさんはにこりと微笑む。


「せっかく来たんだし、何か買っていくかい?」


「はい……でも、高価そうなアンティークばかりですね」

 

頬をかきながら呟くと、葵月あおつきさんはふわりと笑う。


「大丈夫だよ。ここでの商品の代価は金銭じゃないから」


「え? そうなんですか?」


「うん、ここの商品は少し特殊なんだ」


「特殊……?」


きょとんと首を傾げる私に、葵月あおつきさんは目を細め、朗らかに言った。


「僕が取り扱うのは――過去に君が失くした、失せものさ」


「私の過去に失くした物……?」


わけがわからず口を開けたまま固まる私に、葵月あおつきさんはにこりと笑った。


「君だけの物じゃないよ。ここに来るお客さんが過去に失くしたものを、僕は扱っているんだ」


「……そんなの、信じられません」


葵月あおつきさんは、動揺する私を制するように「まあまあ」と穏やかに笑い、カウンターの奥をごそごそと漁り始めた。


「百聞は一見にしかず……実際に見てもらった方がいいね」


そう言って、彼は大きなショーケースをカウンターに置いた。


「これ……」


思わず身を乗り出す。

ケースの中には、どれもこれも見覚えのある品々が並んでいた。


(……小学生のときに使っていたシュシュ……中学の時になくしたシャーペン……え、これって――)


懐かしさと驚きで目が泳ぐ。

そして、ある一枚の紙に視線が止まった瞬間、顔が一気に熱くなる。


「ん? おやこれは……」


私の目線に気づいた葵月あおつきさんが、ひょいとそれを摘み上げた。


「あ、ちょっとっ!」


私は慌ててそれを奪い取り、胸に抱きしめる。

赤ペンで無惨に点数が書かれた数学のテスト用紙――。


「君は数学が苦手なんだね」


ふふっと笑う声に、さらに顔を赤らめて俯く。


(絶対捨てたと思ってたのに……こんなのまで残ってるなんて……)


居たたまれない気持ちで視線を上げたその時、ショーケースの中でひときわ光を放つものに目を奪われた。


「これは……」


手を伸ばし、そっと掴み上げる。


「……綺麗なネックレスだね」

 

葵月あおつきさんが柔らかく笑う。


「……母の形見なんです」


自分でも驚くほどか細い声だった。


「おやまあ、お母様の形見だったのか」


「普通、大切な形見なんて……失くしたりしませんよね」


苦笑を浮かべると、葵月あおつきさんの瞳が少しだけ揺れた。


「どうして失くしてしまったんだい? 君は……大事なものを雑に扱う人には見えないな」


「……そんなこと、ありませんよ。買い被りです」


私は視線を床に落とす。

胸の奥がぎゅっと痛んだ。


「これを失くしたのは……母が亡くなってすぐの頃でした」


言葉にした途端、あの日の記憶が鮮明によみがえる。


―――『おかあさぁん!』


川辺で泣き叫ぶ幼い私。

母が亡くなり、父は母の面影を振り払うように引っ越した。

帰っても誰もいない家。暗い部屋。寂しさが喉に詰まり、息ができなかった。


「……それで、すごく馬鹿なことをしたんです」


葵月あおつきさんは黙って私を見つめていた。

その瞳は、なぜだか叱るでも慰めるでもなく、ただ受け止めてくれるように温かい。


―――『私を置いていっちゃうお母さんなんて、大嫌い!!』


幼い私が叫びながら、ネックレスを川に投げ込んだ瞬間がよみがえる。


「投げたあと、すぐに後悔しました。川に入って探したけど……流れが強くて、すぐ下流に流れていってしまって……」


声が震え、視界が滲む。必死に堪えても、涙は溢れそうになる。


すると、すっとハンカチが差し出された。


「……っ」


耐えきれず、大粒の涙が頬を伝う。

その温もりに、張りつめていた心が少しずつほどけていく。


「……お願いします。このネックレス、買わせてください。代価は……代価は何を払えばいいんですか?」


懇願こんがんするように見上げると、葵月さんは少し困ったように眉を下げ、言った。


「君のこの商品の代価は――“君の今の幸せ”だよ」


静寂が降りる。 その言葉だけが、胸の奥でじん、と鈍く響いた。


「……代価が、私の今の幸せってどういうことですか?」


涙をこらえながら問いかけると、葵月あおつきさんは少し首を傾げ、長い銀髪をさらりと揺らした。


「僕にも詳しい仕組みは分からないんだ。……ただ、代価は人によって違う。ある人は“友人との縁”を失い、ある人は“寿命”を削られた」


「……そう、なんですね」


胸の奥がずしりと重くなり、私はその場にしゃがみ込む。

“今の幸せ”――それは何だろう。


頭に浮かんだのはお父さんの顔だった。

朝、一緒に食べるトースト。

「いってらっしゃい」と笑い合い、お母さんの遺影に小さく手を振る。

そんな日々がなくなってしまうのだろうか。


 でも……


母の形見をまたもう一度抱きしめたい気持ちが心の奥顔を出す。


「その……代価って、どれくらい重いんですか?」


すがるように見上げると、葵月あおつきさんは申し訳なさそうに目を伏せる。


「それも決まってはいない。ただひとつ言えるのは……」

 

彼は私に真っ直ぐな眼差しを向ける。

 

「持ち主が“欲しい”と強く願うほど、代価も重くなる。それだけは確かなんだ」


私ははっとして、ポケットからスマホを取り出す。

画面には父からのメッセージ。


――


> 今日の夕飯はカレーです!

帰りにルーを買ってきてくれると嬉しいな〜!!

 

――


(……もし、これが最後のカレーになったら?)


胸が締めつけられる。

でも、同時にわかっていた。

今ここでネックレスを手に入れなければ、二度と戻らない。

 

きっとこれは神様が私に与えてくれたラストチャンス……

 

私は……どうしたらいいのだろう。


静かに顔をうずくめて考えている私を、葵月あおつきさんはじっと見つめていた。

少しの沈黙の後、彼が静かに口を開く。


「……これは、僕の考えなんだけどいいかな」


私がこくんと頷くと葵月あおつきさんはにこりと微笑むと、カウンターから出てきてしゃがみ込み、目線を私と合わせた。


「物は戻せても、時間は戻らない。大切な人との今を守れるのは君だけだと、僕は思うよ」


その言葉に、母が最期に言った声が鮮明に蘇る。


『……あなたの幸せをずっと願っているわ』


頬に伝う涙はもう拭うことなくただ静かに落ちていった。


――きっと、お母さんは、今を生きる私を見ていてくれる。


涙を拭い、私は立ち上がる。


「……私、帰らなきゃ。今日の夕飯は父の作ったカレーなんです」


驚いたように目を瞬かせた葵月あおつきさんへ、私は笑顔を向ける。


「早くルーを買いに行かないと、お父さん困っちゃいますよね」


「……そうだね。行っておいで」


葵月あおつきさんは穏やかに微笑んだ。


 ――その瞬間


気づけば私は幻影堂の外に立っていた。

振り返ると、そこにはもう建物の影さえなかった。


驚きと戸惑いの中で、ふっと笑いがこぼれる。

 

あれは夢だったのだろうか。


空を見上げると、虹が架かっていた。

絵の具の筆跡のように鮮やかで、雨上がりの空に広がっている。


その虹を背に、いつの間に居たのかクロロがこちらを振り返った。

にゃあと短く鳴いて――気づけばもう、その姿は風に解けるように消えた。


夢……じゃないみたい。


ただ不思議な出来事の余韻だけが、心の奥に静かに残る。


「カレーのルー、買わなくちゃ」

 

そうつぶやいて歩き出す。

虹を仰ぎながら、私は胸の奥の温もりを確かめていた。

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失せ物商店幻影堂 葉牡丹 @mkwarbimochi

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