第16話

 目を覚ました。頭が重い。


 俺は、教室の机に突っ伏して眠り込んでいたらしい。窓からは明るい日差しが差し込んでいて、直射日光が俺に差し込んでいた。

 どうやら、午前中の授業は、いつの間にか終わっていたようだ。


 周囲からは、昼休みの喧騒が耳に飛び込んでくる。机をガタガタと寄せ合う音、弁当の蓋を開ける音、友人同士で談笑する声。それらが教室という空間を埋め尽くしていた。


 俺は無造作に教科書とノートを閉じて、机の中へと押し込んだ。

 そして、朝、学校へ来る時にコンビニで買っておいた白いビニール袋を手にする。中身は変わらない。いつものように透明なペットボトルのお茶と、チョココーティングされた菓子パンが一個。これが俺の定番の昼食だった。


 教室では、あちこちで友人同士が弁当を囲む輪を作り始めていた。

 その中で、俺はそっと席を立つ。誰も振り向きもしない。俺のことなど気にも留めない。そのまま、自然な流れで教室を出た。


 廊下に出る。そこには移動をしている生徒たちが行き交っている。互いに会話を交わし、昼食の場所へと向かう生徒たち。

 しかし、俺はそれらとは別の世界にいるかのように、ただ黙々と廊下を進む。


 ふと思った。

 もし俺が透明人間なら、このような感じなのだろうか?

 誰にも見えず、誰からも気にも留められず、まるで存在しないかのように。


 いや、実際のところ、今の俺は周囲の人間からすれば、そんな存在なのかもしれない。

 あながち、その表現は間違っていない気がした。


 そんなことを考えながら、俺は目的地へと足を向ける。長い廊下を進み、階段へ。もちろん、向かうのは最上階だ。

 一段一段、階段を上っていく。


 最上階へと進むにつれて、だんだんと周囲の生徒の姿が消えていく。喧騒は遠ざかり、代わりに静けさへと置き換わっていく。


 そうやって上がっていくと、やがて屋上へのドアへたどり着いた。無骨な鉄製のドア。その向こうには、俺だけの特別な場所がある。

 手慣れた動作で、屋上へと続くドアに手をかけた。


 この屋上へのドアには、カギがかかっていた。

 しかし、その建付けが悪いおかげで、とある手順でカギがなくとも、ドアが開いてしまう。


 ドアノブを上に押し上げながら回すと、カチリと小気味の良い音を立ててドアが開く。

 それはまるで、秘密の場所への合言葉のようなものだった。


 俺が、このドアをこじ開ける方法を見つけたのは、完全な偶然だった。

 階段最上階の踊り場。


 そこには誰一人して人が来ない。

 誰もこない空間で暇つぶしをしていた俺が、ガチャガチャとドアを弄っていたときだった。


 ドアが開いたのだ。

 

 それ以来、俺はこの屋上に入り浸る日々を送っていた。友人などという存在を持たない俺にとって、ここは最高の拠点となっていた。

 本当に、ここはいいところだ。俺は心底そう思っていた。


 ドアを開ける。

 目の前には、いつもの風景が広がっていた。


 抜けるような青空の下に、無骨な給水室が立っている。その向こうには体育館の赤茶けた屋根が見え、隣の校舎からは生徒たちの賑やかな声が風に乗って聞こえてくる。


 屋上は殺風景な空間だった。周囲を高さ二メートルほどの落下防止用フェンスに囲まれ、床は剥き出しのコンクリート。中央には無骨な給水室があり、北側には階段室の上部が突き出ている。どちらもコンクリートの打ちっぱなしで、長年の風雨で色褪せていた。


 俺は、さっさと給水室の壁際へと向かう。

 というのは、この屋上は、そのままだと周囲からいることが分かってしまう。

 だからこそ、そこは校庭や廊下からの視線が完全に遮られる、最強の場所だった。


 給水塔の壁に、背中をコンクリートの壁に預けると、微かな冷たさが伝わってくる。いつもの場所の、いつもの感触。


 校庭からはサッカーボールを追いかける足音や、友達同士の笑い声が聞こえてくる。しかし、ここにいると、それらの音は別世界の出来事のように感じられた。自分とは無縁の、遠い場所の音。それが俺の好む距離感だった。


 ああ、今日も平和だな──。


 ここはいい場所だ。俺は心底そう思っている。この開放的な空間は、俺だけの特別な領域だった。


 手には昼食の定番、白いビニール袋の中には、菓子パンと透明なペットボトルのお茶がある。

 これらは、俺の日課となった昼食だった。コンビニで買える最小限の組み合わせ。


 魅力はコスパだ。そして、タイパだ。

 さっさと口にして、食べられる。

 さらに安い。


 この食事こそ、最強だった。

 

 と、まあ…。正直、腹が膨れればなんでもいいのだ。


 給水塔の壁に寄り掛かりながら、俺は白いビニール袋から菓子パンを取り出した。包装を開くと、甘い香りが漂う。チョコレートでコーティングされた表面が、日差しを反射して艶めいていた。

 一口かじる。甘い。でも、それだけだ。特別なものでもない。普通の菓子パンだ。それでも、この場所で食べると不思議と美味しく感じる。


 と、その時。

 屋上へ近づく足音がしてきた。

 誰だろう?


 ドアにカギがかかっていることに安心しきっている俺は、その安心を持ちながら、その音を聞いていた。

 そのとき、チョコパンを食べ終えた。


 やっぱり、菓子パンはうまいな…。

 どこか、別の世界から眺めるかのごとく。

 俺は一人で、そんな感想を心の中で述べていた。


 その時だった。

 ガチャ、っという音。


 あっ、ヤバい!

 これは、この屋上のドアが開く音だ。


 カギを持っている!

 もしかして、先公か!


 俺は身構える。そして、次の展開を考える。


 どうすればいいのだ?


 他の先生に言われて点検してました?

 俺は周囲にあるものを見た。このビニール…。明らかに食い散らかしている様子でしかない。

 昼休みにそんなことをいう先生なんているはずもない。


 ああ、終わった。生活指導室行きか。


 俺が、そう思ったのもつかの間。

 紺のセーラー服姿の女子生徒だった。


 良かった、少なくともこれで生活指導室にはいかなくてもいい!

 ちょっと、安堵した。


 …しかし、誰だろう?


 見たことがない女子生徒だった。黒いショートカット、切れ長の瞳。見たことのない生徒だった。

 じっと、見ていたためか、彼女がこちらを振り返ってきた。


 その子と目が合う。

 その澄んだ目が、俺をじっと見ていた。


「あのー。」


 その子は困ったように、俺に話しかけてきた。


「おい、ここは立ち入り禁止だぞ?」


 反射的に俺が彼女へそう告げると、彼女は小首を傾げた。


「でも!」

「でも?」


 俺は彼女に反復して問いかける。


「いや、いや!私以外にも、ここへ入っているじゃないですか!」

「そうか?一体それは誰かな?」


 俺はすっとボケる。


「あの、先輩ですよね?」

「ああ?そうだが?」

「先輩は、ここに入る許可とか貰っているのですか?」


 返す言葉に困った。


「…いいや。」

「やっぱり、ダメじゃないですかぁ!」


 確かにその通りだ。


「まあ、入れたし。」

「全く。先輩は意地悪さんですね。」

「そうかな?」

「もー。」


 彼女はとても親しい仲かのように俺に話しかけてくる。

 しかし、彼女と俺は全くの初対面だ。


 俺はまったく、彼女を知らない。彼女も俺を全く知らないはずだ。


「すまないが、君は?」

「私は、一年生のナズナと言います。」


 彼女の発言。

 なるほど、と思った。

 自己紹介か。


「ああ、俺は──。」


 俺はそのまま名前を告げようとして、口が止まった。

 というのも、強烈な違和感を感じた。


「どうかしましたか?」


 彼女がじっと俺を見てきた。


「いいや、なんでもない。」


 いつもの調子で自己紹介を済ませた。

 まあ、普段慣れていない自己紹介なんてやるものじゃない、と俺は思った。


 ナズナはくすっと笑った。そこは、どこか小悪魔的な可愛らしさが見てとれる。


「基本的に、この屋上には人が来ないんだけどな。」

「そうなんですか?ここに、先輩がいますけど。」


 そんなことを言いながら、彼女は、俺が座り込んでいる給水室の壁へと近づいてきた。

 そして、自然な動作で俺の隣へ、すとんと座り込んだ。


 距離が近い!


 異様に距離が近い気がした。それは間違いない。

 彼女はそういったことを気にしない感じなのか?


 いや、でもとにかく俺からすれば、彼女はパーソナルゾーンが狭すぎる。それだけは間違いない。


「先輩?実は最近、私はここへの入り方を見つけちゃったんです。」


 異様に近い距離にいる彼女からの話が続く。

 

「ここのドアの建付けが悪いことを、偶然、見つけて…。時々、立ち入っていました。でも、まさか私以外の人が知っているとは思いませんでした。」


 彼女は嬉しそうに続ける。まるで秘密の場所を共有できる相手を見つけたかのようだった。

 …もしかして、彼女の距離感は、それから来ているのか?


「そうか。」


 それ以上、俺は何も言わなかった。

 何か言うこともない。


 思うことは距離が近いということ。そして、ここがもはや俺一人だけの領域ではなくなったこと。


 …まあ、このような場所には、必ず侵入してくる生徒がいるものだ。

 だとすれば、俺がここで一人でいられる時間も、初めから限られていたのかもしれない。


 俺の中では、まるで反省会かのような内証が行われていた。


 俺は、彼女の隣で、一人で思考を進める。


 校庭や校舎からの活気が聞こえてきてくる。

 静かな流れが続く。俺は黙っていた。そして、それに合わせてくれているのか、隣に座った彼女も俺に対して何も話しかけてくることはない。

 

 だから、そのまま静かな時間が流れつづけた。

 青空の下、二人で過ごす昼休みと沈黙。


 それは今まで経験したことのない、ちょっと変わった時間だった。


 やがて、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。


「また明日、来ますね!」


 隣で座っていた彼女は立ち上がるなり、そう言った。まるでそれが最初から決まっていたかのような宣言だった。


 そのまま、彼女は屋上にあるドアへと向かっていく。


 俺は給水室の壁に寄りかかったまま、そんな彼女の様子を遠目に眺めた。

 やがて、彼女は屋上から出ていった。


 彼女が隣にいたときよりも、さらに静かになった気がした。


 その中で、俺の頭の中には、彼女との出会いが何度も繰り返されていた。

 それはおそらく、女子生徒とこれほどまでに話したことが、これまでの人生で初めてだったから、かもしれない。

 俺はそう思うことにした。


 まあ、一つだけ気になったことがあるとすれば。

 それは、最後に見た彼女の笑顔。その顔の表情の口角が僅かに上がっていたような。

 たぶん、それは俺の見間違いだと思ったけれど。


 それだけがちょっと気になった。

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あなたという幸福の独白 速水静香 @fdtwete45

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