一時欠品

大羽 翔

一時欠品

 お疲れ様でした。お先に失礼します。

 Slack に定型文を打ち込んでからも、僕はしばらくパソコンの画面を閉じなかった。

 上司がねぎらいの返信、せめてスタンプくらいはくれるんじゃないかと期待したからだが、そんなことは現実には起きない。上司はとうに退勤している。

 そのままマウスもキーボードも触れずにいると、画面が一段階暗くなり、やがて真っ暗な画面に切り替わった。まだ眠れそうにない僕をよそに、パソコンはあっさりとスリープモードに入った。

 腕を真上に伸ばすと、まるで家鳴りのような音がした。それに呼応するように、壁掛け時計がかちりと鳴る。長針がちょうど真上に到達したからだ。短針は1を示している。

 午前1時。昨日と同じ時間――いや、もっと前から毎晩この時間だったような気もする――に僕は退勤した。

 新型コロナウイルスの流行によってもたらされた、フルリモート勤務という働き方は、良いことばかりではない。

 出社勤務と違って通勤という概念が存在しないから、仕事が終わらない限り、無限に働きつづけられてしまう。

 家の中で必要になるものは、食料や日用品もすべて、玄関前に届けてもらえば、買い物に行く時間すらも仕事に充てることができるようになる。

 終わらない仕事の時間を生み出すために、配送料をかけて食事を届けてもらうのに、その仕事で配送料を稼げるわけではない。

 貯金も、筋肉も、交友関係も、音を立てるほどの派手さはなく次第に減っていく。それらがなければ、家から出るきっかけをますます失っていく。

 この状況はさすがにまずいと、僕は感じるようになった。

 ひと月ほど前のことだ。

 そこで、どんなに遅くに退勤しても、せめて近所のコンビニまでは買い物に行こう、という小さな目標を立ててルーティンにすることにした。

 徒歩5分の距離は、深夜のちょっとした運動だと思えばちょうどいい。

 始めた頃は忘れそうになることもあったが、今では習慣化した。不思議なもので、仕事をするときにパソコンを立ち上げる必要があるのと同じような自然な感覚になっている。

 筋肉は多少くらいは戻ったかもしれないが、貯金や交友関係は増えない。それでも、毎日生きた証としてスタンプカードを押すような、ちょっとした満足感がたしかに増えていた。



 同じコンビニを利用しつづけていると、コンビニ内での動きも自然と同じものになる。

 まずは自動ドアが開いてすぐに、レジ対応をしている店員さんと目が合う。

 アルバイトの大学生だろうか。僕の退勤時間が日付を回るようになった、ここ2週間ほど、毎日必ず見かける。

 深夜のコンビニに女性店員がひとりとは、シフトとして破綻していないか、とよけいな心配をしてしまう。バックヤードには他のスタッフがいるのかもしれないが、せいぜい数分の滞在時間では出くわしたことはない。

 レジの前を通り過ぎる。

 真正面に並ぶおにぎりやお弁当には見向きもせずに、そのまま店の奥まで歩いていく。

 冷蔵ケースの奥から3番目の扉を開けて、毒々しいパッケージのエナジードリンクに手を伸ばす。

 何も今から気合いを入れようというのではなく、これは明日の残業に備えるためだ。

 それなら、どうせいつも同じ物を買うのだし、まとめて買っておいたほうが効率的ではある。しかし、そんなことをしたら家から出られなくなってしまう。

 これは、いわば儀式なのだ。

 肩に軽い衝撃を受ける。

 これは、儀式にはない。

 咄嗟に振り返ると、ふらふらとした足取りの男が、トイレだろうか、店の奥へと歩いていく。男の顔は青白いような気がしたが、向こうは振り返らないから確認できない。

 急に、背中を撫でられたような、不快な寒気がする。

 いや、まさか。

 なんてことはない、冷蔵ケースが開いたままで、冷気が漏れ出しているだけだった。

 エナジードリンクを掴む。ケースの奥から次の1本があらわれることはなく、ぽっかりと空いてしまった。

 飲むようになったきっかけは憶えていないし、人気商品なのかもわからない。ただ、だいたいこういう飲み物は店の奥に在庫を段ボールで抱えているはずだから、明日来るころには補充されているだろう。

 気を取り直して、儀式を再開する。

 2つあるレジのうち、片方は「レジ休止中」のプレートが置かれている。この時間帯はいつもそうだ。

 必然的に、大学生らしき女性店員さんの立つレジへ向かい、エナジードリンクを置く。

 そして、レジ横に設置されたスペースから、睡眠の質が良くなるらしいチョコレートを掴み、これも置く。

「袋をください。支払いは電子マネーで」

 いつものように告げると、店員さんはいつもと違う返事をした。「なくなっちゃいましたね」

 どうやら、チョコレートが最後の1箱だったらしい。エナジードリンクもチョコレートもぎりぎり買えるなんて、今日はついている。

 支払いを終え、「またお越しください」の言葉を背に、コンビニを出る。

 いつもと違うところもあったが、今日の儀式もといルーティンはこれで完了した。



 翌日も同じような仕事をこなし、深夜1時過ぎに外へ出た。

 エナジードリンクとチョコレートが入荷しているだろうか、という一抹の不安こそあったが、それはルーティンを妨げる理由にはならない。無いなら無いで、もう1軒向こうのコンビニまで探しに行けばいい。

 僕の部屋からコンビニまでは、直進して角を曲がりまた直進するだけ、だ。

 その角には街灯がぽつんと佇んでいる。

 昨日も立っているし、ずっと前から、そうだ。そんなただの風景に過ぎないはずの一角に、昨日までは気づかなかったはずのものがあった。

 小さな、花束。

 暗闇なのに花の色がやけに鮮明に見えると思ったら、立ち止まってしゃがみ込んでいた。

 なんでこんなところに。

 汚れたアスファルトとは不釣り合いな凛とした花たちが、車の下から這い出てくるかのように顔を覗かせている。

 誰かの落とし物にしては綺麗すぎる。

 これは、意図的に置かれたものだ。

 その瞬間、僕は昨日のコンビニでぶつかった男のことを思い出した。あの一瞬の些末な接触が、得体の知れない不安へと形を変えていく。

 向かうべきか、引き返すべきか。

 それほど重要なルーティンなのか。

 その迷いの間に、コンビニから二人組が向かってくるのが見えた。

 こんなところで立ち止まっていて、僕が不審者だと思われても困るから、仕方なく彼らのほうへ歩き出すことにした。

 すでに酒をあらかた飲み、そのうえで酒を買い足したのであろう二人組は、道の真ん中をふらふらと歩いてくる。視界も不明瞭なのか、わざわざ僕のほうへ向かってくる始末だから、立ち止まって体をよけた。

 そのとき、相手が何かを蹴飛ばした。

 から。からん……がら。

 夜道に響いた音に彼らは見向きもせず、去っていく。

 僕はというと、足元に当たった感触に――ふだんは足元に当たることなど絶対にないのに――確信めいた心当たりがあった。

 なんで、これがこんなところに――。

 街灯から少し離れているのに、毒々しいパッケージが足元から立ち上ってくるかのようだった。



 同じコンビニを利用しつづけていると、コンビニ内での動きも自然と同じものになる。

 はずだった。

 自動ドアが開いてすぐレジに目を向けるが、店員さんがいない。

 たまたまバックヤードにいるだけかもしれないが、妙な胸騒ぎがする。

 レジの前を通り過ぎずに、一度立ち止まる。

 チョコレートが置いてあったスペースは空のままだった。空間がそのまま残されていることが、よりその不在の存在感を強めている。

 仕方がないから、他のチョコレートで代替するしかない。そう思って、お菓子コーナーを眺める。

 しかし、パッケージを確認する目が滑っていく。あれもいいな、これもいいな、と目移りしているというよりは、ランダムに配置された数字を順番に追いかけていく視野のトレーニングのように、焦点が定まらない。

 もう、どれでもいい。

 棚に手を伸ばした。

 はずなのに、距離感をつかめずに虚空をひと握りして腕だけが元の位置に戻ってくる。

 二度、三度試しても、うまくいかない。

 見知らぬ誰かがクレーンゲームの要領で自分の体を操っているような感覚の中で、耳だけはずっと敏感だった。

 ただ、それは何かの音を聞きつけたとかではない。

 、大小さまざまな音や声が聞こえるはずのコンビニという空間が、完全な無音に包まれている。

 なんだ、これは。

 これは、なんだ。

 ぎょろぎょろと勝手に動きつづける目ごと、首を動かす。お菓子コーナーと正面から向かい合わないように、通路の床に視線を落とす。

 すると、目の動きはおさまってきた。

 自分でもわかっている。残業のしすぎだということは。それをエナジードリンクとチョコレートで誤魔化す生活が、決して健康的とはいえないことも。

 しかし、それらをなくして、どうやって明日を迎えようというのだろうか。

 せめてエナジードリンクだけでも買って帰ろう――。

 床だけを見る。

 棚を見ないようにする。

 床だけを見て、歩く。

 視界の端に冷蔵ケースのガラス扉が見える。

 顔を上げる。

 他の商品を見ないようにする。

 一列分、ぽっかりと穴が空いていた。

 商品名を確認するまでもない。毎日、毎日、買いつづけたものの場所くらい身体が憶えている。

「お客さま」

 びくり、と振り返る。

 耳は敏感肌だったはずなのに、店員さんがすぐそばにいることには気づけなかった。

「何かお探しでしょうか?」

「この、エナジー……」

 ああ、と店員さんは両手をぱちんと叩いた。「やっぱり、昨日が最後だったんですね」

 その合わせた手をなぜか僕に向けてから、冷蔵ケースの扉を開ける。

 やはり、感覚がおかしいらしい。

 ぜんぜん冷たくない。

「……入荷はいつですか。俺……あれがないと……仕事できなくて……」

 店員さんは空いた一列を見せつけるように、指さす。

 あれほど定まらなかった焦点が、今度は黒く深い穴の奥のみに集まって、吸い込まれていく。

「お客さまがすでに使い果たしてしまったのですから、もうありません」

「使い果たした、って何を……?」

 エナジー、すなわち、魂です。

 頭に強い衝撃を受けて、身体ごと前に傾いていく。

 視界が黒で満たされていく。

 穴の奥から伸びてきた手に掴まれているのだと認識する頃には、もう僕の意識なんてものはほとんどなく、ただ最後に聞こえてきた「またお越しください」の声だけは、いつもと変わらないような気がした。

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