第11話 またまた看病

 その日の午後の講義は、まるで針のむしろだった。

 スライドに映る教授の声が、どうにも頭に入ってこない。俺の意識は隣に座る美桜のほうへ吸い寄せられていた。


 最初はノートを取っていた彼女のペン先が、次第に止まっていく。

 姿勢も少しずつ前のめりになって、頬杖をついたまま瞬きを繰り返している。


「……おい」

 小声で呼びかけると、美桜はわずかに首をもたげてこちらを見た。

「ん……大丈夫。ちょっと眠いだけ」

 そう答える声はかすれていて、笑みもどこか力がなかった。


 やっぱり、具合が悪い。


 俺の中で警鐘が鳴りっぱなしだったが、授業中にどうこうできるはずもない。とにかく終了のチャイムを待つしかなかった。


 そして、ようやく解放された頃には、美桜の顔色はさらに青白くなっていた。


「なあ、美桜。本当に平気か?」

「……ちょっと頭が痛いだけ。すぐ治るよ」


 そう言いながら立ち上がろうとした彼女の足取りは、目に見えてふらついていた。

 反射的に腕を伸ばして支える。肩越しに伝わる体温が熱い。


「熱あるだろ。もう帰ったほうがいい」

「でも――」

「でもじゃないって。送る」


 強引に言うと、美桜は観念したように視線を伏せた。

 抵抗の言葉を探しているようだったが、口にする前に俺の手に力がこもったのを感じ取ったのか、結局小さくうなずいた。


 校舎を出ると、春の風が熱を帯びた頬を撫でた。

 夕方に近づくキャンパスは人通りがまばらになっていて、二人並んで歩く音だけが静かに響く。


「……ごめんね。迷惑かけて」

「迷惑とかじゃない。隣なんだし」

「でも、いつも助けてもらってばかりだよ」

「そんなことない」


 言いながら、ふと思う。

 十年前の美桜も、無理して笑って「平気だよ」なんて言っていた。

 引っ越す前も、きっと同じように、俺の前で強がっていたのかもしれない。


「なあ、美桜」

「ん?」

「調子悪いときくらい、俺に頼ってくれ」


 不意に口をついた言葉に、自分でも驚いた。

 けれど美桜は一瞬だけ目を丸くしたあと、ふわりと小さく笑った。


「……ありがと。じゃあ、ちょっと甘える」


 その返事に、胸の奥で何かが温かくなる。


 アパートに戻ると、美桜は「大丈夫だって」と言いながらも鍵を開ける手つきがぎこちなかった。

 部屋に入った途端、彼女はベッドに腰を下ろし、深く息を吐く。


「やっぱり熱あるな。体温計ある?」

「……洗面台の引き出し」


 言われた通りに探して体温計を渡すと、美桜はそれを脇に挟んだ。数十秒後、ピピッという電子音が狭い部屋に響く。


「……三十八度二分」

「完全にアウトじゃん」

「はは……風邪かな」


 無理に笑うその声が弱々しい。

 俺はため息をつきながら立ち上がった。


「ちょっと待ってろ。スポドリと冷えピタ、買ってくる」

「え、そんな……いいよ、自分で――」

「だめ。隣なんだから遠慮すんな」


 そう言い残し、俺はドアを開けて外に出た。

 胸の奥に広がる不安と同時に、妙な高揚感もあった。


 ――十年前にはできなかったことを、今度はちゃんとしたい。

 そんな思いが、足を自然と速めさせていた。


 コンビニのビニール袋を下げて戻ってくると、隣室のドアは静かに閉じていた。

 ノックすると、しばらくの間を置いて小さな返事が返ってくる。


「……桐谷くん?」

「俺。戻った」

「……どうぞ」


 ドアを開けると、薄暗い部屋の中で美桜が布団に横たわっていた。

 カーテンが半分ほど引かれていて、夕方の光が弱々しく差し込んでいる。


「ほら、スポドリとゼリー。あと冷えピタ」

「ありがと……ほんとに買ってきちゃったんだ」

「そりゃ買うだろ。放っとけないし」


 ベッド脇に腰を下ろすと、美桜は少し困ったように笑う。

 いつもの明るさよりもずっと小さな笑みで、見ているだけで胸が締めつけられた。


「ほら、起きられる?」

「ん……うん」


 上体を起こそうとした美桜の肩を、思わず支える。

 思った以上に熱がこもっていて、彼女の体温がじかに伝わってきた。

 いつもなら意識してしまう距離感も、このときばかりは「しっかり支えなきゃ」という思いのほうが強かった。


「ほら、少しずつ飲め」

「……うん」


 ペットボトルのキャップを開けて手渡すと、美桜は両手で抱えるようにして口をつけた。

 喉を通るごくりという音がやけに鮮明に聞こえて、妙に意識してしまう。


「……ちょっと楽になった」

「よかった」


 安心したのも束の間、美桜は小さく頭を揺らした。

「ほんとに……優しいんだね」

「なにが」

「十年前から、ずっと。変わってない」


 その言葉に、不意を突かれた。

 小学生の頃のことを、彼女が自分から持ち出すなんて。


「そんなこと……覚えてない」

「嘘。覚えてるくせに」


 熱のせいか、彼女の声音は普段よりもずっと柔らかかった。

 その調子に、これ以上踏み込んだらだめだと直感する。けれど同時に、聞きたい思いも募っていく。


「美桜――」

 口を開きかけた瞬間、彼女はふっと目を閉じた。


「……ごめん。少し眠りたい」

「ああ……わかった」


 寝息がすぐに規則正しくなっていく。

 小さくかすれた呼吸音を聞きながら、俺は黙ってその場に座り込んだ。


 カーテンの隙間から差し込む光が、彼女の額を照らす。

 そこにそっと冷えピタを貼りながら、心の奥で誓う。


 もう二度と、守れなかったなんて言いたくない。


 ------


 部屋には、時計の針の音と美桜の寝息だけが満ちていた。

 さっきまであれほど顔を赤らめていたのに、今はすやすやと眠っている。布団の端からのぞく横顔は、十年前とまるで変わらない――いや、変わってしまったはずなのに、俺の目にはあの頃のままに映っていた。


 机の上に置かれた段ボール箱。まだ開けきれていない荷物が残っている。引っ越してきたばかりの部屋は、生活感よりも空虚さのほうが勝っていて、その空気が胸に重くのしかかった。


(十年前も、こうやって――)


 思い出す。

 荷物に囲まれた彼女の部屋。引っ越し前日の、あの夕暮れ。

 結局、何もできずに別れを迎えてしまった。


 同じように無力感に押し潰されそうになる。だが、今度は違う。

 彼女は隣の部屋にいる。距離は壁一枚だ。逃げる理由なんて、もうどこにもない。


 眠る美桜を起こさないよう、そっと立ち上がる。

 テーブルの上に買ってきたゼリーと水を並べて置き、メモ帳に短い一言を書き残した。


『熱が下がるまで無理するな。何かあったら呼べ』


 ペンを置いた瞬間、背中に視線を感じた気がして振り返る。

 だが、美桜は変わらず静かに眠っている。胸の上下だけが規則的に繰り返され、安心させてくれた。


「……おやすみ」


 小さく呟いて、ドアを閉める。

 自分の部屋に戻ると、急に現実感が押し寄せてきて、膝から力が抜けるようにベッドに腰を下ろした。


 ――十年前の自分にできなかったことを、今度こそやり遂げる。


 その誓いを胸に刻みながら、俺は深く息を吐いた。

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10年前にフラれた初恋相手が、隣の部屋に引っ越してきた miーma @misama

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