第10話 影

大学の講義室。

前方のスクリーンに映し出されたスライドをぼんやりと眺めながら、ノートの端に無意識で鉛筆を走らせていた。


『美桜へ』


気がつけば、あの日と同じ言葉を書いている。

慌てて線で消すが、頭の中に広がった記憶は簡単には消せなかった。


(……まだ引きずってるのか、俺)


十年前にフラれた初恋。

そして、突然隣に戻ってきた彼女。


今も同じ大学に通って、同じキャンパスで顔を合わせる。

けれどその笑顔の奥に、子どもの頃にはなかった影が見え隠れする。


講義が終わり、学生たちが一斉に席を立つ。

鞄を肩にかけて廊下に出ると、ちょうど反対側から美桜が歩いてきた。


「……桐谷くん」


気づいた彼女が小さく手を振る。

周囲の友人たちに囲まれながらも、視線をこちらに向けてくれるのが、なんだかくすぐったい。


「次の授業? 一緒に行こう」

「……ああ」


並んで歩き出すと、キャンパスの中庭を吹き抜ける春の風が心地よかった。

美桜は友達と話していたときの明るさを少し隠すように、ふっと息をつく。


「最近、疲れてない?」

気づけば口をついて出ていた。


美桜は一瞬だけ驚いたように目を見開き、すぐに笑顔を作った。

「ううん、大丈夫だよ。ちょっと寝不足なだけ」


そう言いながらも、その笑顔はどこかぎこちない。


俺の胸の奥で、十年前と同じざわめきが小さく鳴り始めていた。


昼休み。

次の講義まで少し時間が空いていたので、美桜と一緒に大学のカフェテリアへ向かった。

春先のキャンパスは混み合っていて、空いている席を探すのに少し苦労する。


「ここ、空いてる」

美桜が見つけた二人掛けのテーブルに腰を下ろす。

窓から差し込む光が、彼女の横顔をやわらかく照らしていた。


「アイスティーでいい?」

「うん、ありがとう」


自販機で買った紙コップを手渡すと、美桜はストローをくるくる回しながら微笑んだ。

その仕草は、十年前とどこか変わっていない。


「ねえ、桐谷くんって、昔からこういうの気がきいたっけ?」

「は? どういう意味だよ」

「だって、小学生のときは、いつも私がジュース奢らされてたじゃん」


「……あー」

思わず苦笑いする。

確かに、駄菓子屋でのおごりあいは、いつも美桜の勝ちだった気がする。


「懐かしいな」

「うん。なんか、こうして一緒に座ってると……戻ったみたいだね」


その言葉に、胸が少しざわつく。

俺だけじゃなくて、美桜も“あの頃”を意識している。


「……覚えてる? 夏祭りのこと」


ふいに、美桜がぽつりと言った。

手元のストローを指でいじりながら、視線はテーブルの上に落ちている。


一瞬、息が詰まった。

十年前の夏祭り――あの夜、俺が告白して、そしてフラれた。

記憶の中で止まったままの花火の音が、耳の奥で蘇る。


「……まあ、なんとなく」

平静を装いながら答えると、美桜は小さく笑った。

「そうだよね。私も……なんとなくだけど、忘れられないな」


笑っているのに、その瞳の奥に一瞬だけ影が走った。


「そろそろ行こっか」

カフェを出ると、昼下がりの光が中庭に差し込んでいた。

新学期のせいか、学生の流れは途切れることなく続いている。


「次は体育館のほうでしょ? 一緒に行こう」

「おう」


並んで歩きながら、ふと横を見ると、美桜が小さく咳をした。

「……大丈夫か?」

「ん、大丈夫。乾燥してただけ」


そう言って笑うけれど、顔色は少し白い。

講義中に見せた疲れた表情も、やっぱり気のせいじゃなかったのかもしれない。


「無理すんなよ」

「うん。ありがと」


美桜は軽く首を振り、笑顔を取り戻す。

その笑顔に安心しながらも、胸の奥に小さな不安が残った。


(あのときも――)


十年前の、夏祭りの夜。

浴衣姿の彼女が見せた笑顔と、その後の寂しそうな横顔。

重なるように浮かんで、心をざわつかせる。


「桐谷くん?」

「……あ、いや、なんでもない」


取り繕うように答えると、美桜は小首をかしげ、すぐに前を向いた。

風に揺れる髪が、夕方の光を受けてきらめいている。


――この隣にいられる時間が、当たり前じゃないのかもしれない。


胸の奥で、そんな予感が静かに形を取り始めていた。

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