第9話 引っ越す少し前
その日、美桜はいつになく静かだった。
授業中もノートを取る手が止まりがちで、休み時間になっても友達の輪に加わらず、窓の外ばかりを眺めていた。
「美桜、どうしたんだ?」
放課後、帰り道で声をかけると、彼女は少し驚いたようにこちらを見た。
「……なんでもないよ」
「なんでもなくないだろ。朝からずっと元気ないじゃん」
川沿いの道を歩きながら問い詰めると、美桜はランドセルの肩紐をぎゅっと握りしめ、やがて小さく吐き出した。
「……たぶんね、もうすぐ引っ越すと思う」
心臓が一瞬止まったような気がした。
その言葉は、三日前にも聞かされたものだ。けれど、今日の彼女の声は、あの時よりもずっと現実味を帯びていた。
「決まったのか?」
「うん……。お父さんの会社、東京に転勤なんだって。昨日、正式に聞いたの」
美桜の声は淡々としていた。けれど、その目はほんの少し揺れている。
「じゃあ……もう戻ってこれないのか」
「わからない。お父さんは『数年だけ』って言ってたけど……」
言葉の先は続かなかった。
彼女は視線を川面に落とし、小さな石を足元で蹴った。水切りの石みたいに、ひょいと飛んで水面に落ちる。
「私ね、この町けっこう好きだったんだ」
「けっこうって……そんな言い方」
「だって本当だよ。ここで友達もできたし、金魚すくいもしたし……」
ぽつりぽつりと、美桜は思い出を並べていく。
それは、子どもらしい取り留めのない記憶ばかりだけど、そのどれもが彼女にとって大切なんだと分かった。
「……やっぱり、さびしいな」
ようやく本音が漏れた瞬間、俺は何も言えなくなった。
頭の中では「行かないで」と叫んでいるのに、声に出す勇気がない。
握りしめた拳だけが、彼女に気づかれないよう震えていた。
「……ねえ、桐谷くん」
歩きながら、美桜がふいに声を落とした。
「もし東京に行ったら、私、友達できるかな」
不安そうな横顔に、胸が詰まる。
これまでいつも明るくて、周りに友達が絶えなかった美桜が、こんなふうに弱気になるのを初めて見た。
「できるだろ。美桜ならすぐに」
「そう思う?」
「絶対。だって、うちのクラスでも人気者だし」
そう言うと、美桜は少し笑った。けれど、その笑みはすぐに消えて、ため息に変わる。
「でも……もう、ここで遊んだりできなくなるんだね」
「……」
返す言葉が見つからない。
俺だって同じ気持ちだから。
「夏祭りも、来年は行けないのかな」
「来年って……」
「ううん、なんでもない」
ごまかすように足を速めた美桜の背中を、俺は黙って追いかける。
少し歩いたところで、彼女がランドセルのポケットから何かを取り出した。折りたたんだ便せんの束だった。
「これね……」
小さな声でつぶやく。
「もし引っ越したら、手紙書こうと思って」
「手紙?」
「うん。住所教えるから。……書いてくれる?」
差し出された便せんの紙の端を見つめながら、胸が熱くなる。
美桜は引っ越しが嫌じゃないわけじゃない。きっと俺と離れるのが一番不安なんだ。
「もちろん書くよ。何通でも」
気づけば、即答していた。
美桜はぱっと顔を明るくして、少し照れくさそうに笑った。
その笑顔を見た瞬間、心の奥に灯りがともる。
――大丈夫だ。離れても、繋がっていられる。
そう思おうとしたけれど、本当はそんな保証どこにもない。
ただ必死に、今の彼女を安心させたかった。
家に帰り、ランドセルを机の上に置くと、さっき美桜から受け取った便せんを取り出した。
白地に小さな花の模様が入った、少し甘い香りのする紙。
「……手紙、か」
改めて見つめると、胸の奥がざわついた。
もし本当に引っ越してしまったら、この紙の上にしか美桜との繋がりは残らないのかもしれない。
机に頬杖をつきながら、窓の外を見上げる。
空はもう夕焼けに染まっていて、オレンジ色の光が部屋の中に差し込んでいた。
(本当に行っちゃうんだな……)
頭では分かっていたはずなのに、こうして便せんを目の前にすると、途端に現実感が押し寄せてきた。
遊びに誘えば、いつも笑ってついてきてくれた。
夏休みには川で遊んだり、駄菓子屋に寄り道したり、金魚すくいで競ったり――。
全部、当たり前に続くと思っていた。
「……っ」
息を詰める。喉の奥が熱い。
「嫌だ」と言えなかった自分が、情けなくて仕方なかった。
机の引き出しを開けて、筆箱から鉛筆を取り出す。
便せんの一枚目をそっと広げて、震える手で文字を書き始めた。
『美桜へ』
たった四文字を書くのに、こんなに時間がかかるなんて思わなかった。
言いたいことは山ほどあるのに、言葉にすると途端に心が固まってしまう。
しばらく鉛筆を握ったまま、じっと文字を見つめる。
――たとえ引っ越しても、俺はちゃんと伝えなきゃいけない。
その想いだけが、胸の奥に強く残った。
夕焼けが少しずつ夜の色に変わっていく。
机の上の便せんが、オレンジから薄暗い影に包まれるころ、ようやく鉛筆を置いた。
書きかけのままの便せんを胸の前に抱えて、ベッドに倒れ込む。
目を閉じると、浮かんでくるのはやっぱり美桜の笑顔だった。
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