第8話 看病
翌日、大学の昼休み。
キャンパスのベンチでパンをかじっていると、ふいに視界の端に見慣れた姿が映った。
「……あれ、美桜?」
少し離れたベンチに腰を下ろしている彼女は、手にした紙パックの飲み物をほとんど減らさないまま、ぼんやりと下を向いていた。
近づいて声をかけようとしたとき、彼女がふいに額へ手を当てるのが見えた。
「大丈夫か?」
思わず声をかけると、美桜は小さく肩を揺らし、顔を上げた。
「あ……桐谷くん。うん、ちょっとね。寝不足かな」
「顔色、かなり悪いぞ」
「そう? 大丈夫だよ。午後の授業もあるし」
無理に笑おうとする表情が、逆に痛々しい。
彼女がこうして弱っている姿を見るのは、たぶん初めてだった。
「……今日は休んだほうがいい」
「でも……」
「でもじゃない。具合悪そうなのに、無理しても仕方ないだろ」
俺が真剣に言うと、美桜は観念したように息を吐いた。
「……じゃあ、帰る」
「送るよ」
「えっ、いいよ、悪いから」
「いいから」
気づけば体が勝手に動いていた。
彼女が弱っているのに、放っておけるはずがなかった。
アパートに着くと、美桜は足取りを少しふらつかせながら、自分の部屋の鍵を開けた。
「ありがと……。あとは大丈夫だから」
「いや、大丈夫そうに見えない」
強がる声を聞き流し、半ば強引に中へ入る。
段ボールが片づききっていない部屋の片隅に、美桜はランドセルを下ろすようにトートバッグを置き、そのままソファに腰を下ろした。
「熱、あるんじゃないか?」
「うーん……ちょっと頭が重いくらい」
「触っていいか?」
「えっ」
ためらう美桜に、俺は言葉を足す。
「手の甲で額に触れるだけだ。大げさなことじゃない」
彼女が小さくうなずくのを確認して、額に手を当てる。
瞬間、柔らかな熱が指先を通して伝わってきた。
「やっぱ熱ある。休んだ方がいい」
「……そっか」
観念したように笑うと、美桜はソファに体を預けた。
その顔がほんの少し赤みを帯びて見えるのは、熱のせいか、それとも。
俺は台所に向かい、冷凍庫を開けてみる。氷が少し残っていた。
冷蔵庫からタオルを取り出し、氷を包んで即席のアイス枕を作る。
「ほら、これで少しはマシになる」
「……ありがとう。なんか、優しいね」
弱った声でそう言われると、胸の奥が熱くなる。
いや、優しいんじゃない。十年前からずっと、彼女のことを放っておけないだけだ。
「水分もちゃんと摂れよ。麦茶あるか?」
「うん、冷蔵庫に……」
冷えたペットボトルをコップに注ぎ、彼女の前に置く。
美桜はそれを両手で持ち、ゆっくり口をつけた。
しばらくの沈黙。
蝉の声も届かない夏の午後、二人の呼吸だけが部屋に満ちていた。
「ねえ……桐谷くん」
「ん?」
「こうして隣に住んでるって、なんだか変な感じ」
熱に浮かされたような声でそうつぶやく美桜に、言葉を返せなかった。
ただその横顔を見つめることしかできなかった。
しばらくすると、美桜のまぶたがだんだん重くなっていくのが分かった。
氷枕を首元にあて、冷えたタオルを額に乗せると、彼女は小さく息を吐いて、ソファに体を横たえた。
「……ごめんね。せっかくのお昼休みなのに」
「気にすんな。俺のほうこそ、勝手に上がり込んでるし」
「ふふ……そうだね」
小さな笑みを残して、彼女はそのまま目を閉じた。
――すぐに、規則正しい寝息が聞こえてくる。
俺はそっと椅子を引き寄せ、彼女の傍に腰を下ろした。
寝顔をまじまじと見つめるなんて、十年前だってなかった。
頬はほんのり赤く、額にはうっすら汗が滲んでいる。
細い指先が胸の前で軽く握られていて、夢の中でも緊張しているみたいだ。
(……やっぱり、守ってやりたい)
そんな言葉が、ふいに胸の奥で浮かんだ。
幼い頃に振られて終わったはずの初恋。
それを無理に忘れようとしてきたけれど――こうして隣で眠っている彼女を見ていると、どうしても心が動いてしまう。
窓の外から吹き込む風が、カーテンを揺らした。
その音に合わせるように、美桜が小さく寝返りを打つ。
タオルがずれそうになったので、そっと手を伸ばして直した。
「……ほんと、無理ばっかするんだから」
思わず小さく声に出す。
けれど、その声が彼女の耳に届くことはなかった。
ただ穏やかな寝息が続くだけ。
時計の針を確認して、立ち上がる。
午後の講義には、そろそろ戻らないといけない。
玄関へ向かいかけて、ふと振り返る。
ソファに横たわる美桜の姿が、カーテン越しの光に包まれている。
「……早く元気になれよ」
心の中でつぶやき、音を立てないようにドアを閉めた。
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