第7話 日常
目を覚ますと、隣の部屋から物音がした。
食器が当たる軽い音と、水道をひねる水音。
壁一枚の向こうに、美桜がいる。
ただそれだけのことなのに、胸がざわついて眠気が吹き飛んでしまった。
――10年前、あの夏の手紙を読んで泣いた夜から、もう二度と会えないと思っていたのに。
こうしてまた隣で生活しているなんて、不思議すぎる。
大学の講義が終わり、夕方。
アパートの廊下で偶然ばったり出くわした。
買い物袋を下げた美桜は、少し息を切らしていて、肩にかかる髪が揺れていた。
「おかえり、桐谷くん」
「……お、おう。ただいま?」
言ってから変な返事だと気づき、気恥ずかしさで耳が熱くなる。
けれど美桜は小さく笑った。
「スーパー、結構混んでてさ。荷物、重いから……」
「持つよ」
思わず言ってしまい、袋を受け取る。
中身は野菜と冷凍食品、ペットボトルの麦茶。
「……一人暮らしって、案外大変だよな」
「うん。でも慣れると楽しいよ」
他愛ない会話なのに、なぜか鼓動が早まっていく。
隣を歩きながら、ふと十年前のことが胸をよぎった。
引っ越しの前日に見た涙。
手紙に残された「友だち」という言葉。
でも今は、またこうして隣にいる。
その事実が、どうしようもなく信じられなかった。
部屋の前に着くと、美桜がこちらを見て少しだけ笑った。
「……ありがと。助かった」
「いや、たいしたことしてないし」
互いの部屋のドアノブに手をかけた瞬間、妙な間ができる。
沈黙を破ったのは美桜だった。
「ねえ、今度……時間あるとき、一緒にご飯食べない?」
不意に差し出された誘いに、喉の奥がひりつく。
翌日の夕方。
授業を終えてアパートに戻ると、隣の部屋のドアが少し開いていた。
そこから顔をのぞかせた美桜が、まるで待ち構えていたかのように言った。
「ちょうどよかった。今日、時間ある?」
「え? まあ……特に用事はないけど」
「じゃあ、一緒にご飯食べよ。カレー作りすぎちゃったから」
差し出された笑顔に抗う理由なんてなかった。
美桜の部屋に入るのはこれが初めてだ。
きちんと片づいていて、女の子らしい柔らかい香りが漂っている。
テーブルには鍋と皿、炊きたてのご飯。
「はい、どうぞ」
「……おお、うまそう」
一口食べると、思わず顔がほころぶ。
スパイスの香りが効いているけど、どこか家庭的で懐かしい味がした。
「どう? 辛すぎない?」
「うまい。ていうか……なんか懐かしい味」
「ふふ。よかった」
彼女は少し照れたように笑う。
カレーを食べながら、自然と昔話になった。
「小学生のとき、桐谷くんのお母さんが作ってくれたカレー、よく一緒に食べたよね」
「そういえば……あったな。夏休みとか、うちで遊んだあとによく」
「うん。あの味が、今でも覚えてる」
懐かしさが胸を温める。
気づけば、食器の音よりも会話のほうが弾んでいた。
そして、ふとした間に、美桜が少し真剣な顔になった。
「ねえ……十年前のこと、覚えてる?」
その言葉に、スプーンが止まった。
あまりにも唐突で、息が詰まる。
「……どのこと?」
「夏祭りの夜。金魚すくいしたあと……」
彼女はそこまで言って、言葉を切った。
けれど、続きを聞かなくても、俺にはわかってしまった。
十年前の、あの夜の告白。
返事を聞く間もなく、終わってしまった初恋。
胸の奥がざわつく。
それでも笑ってごまかすしかなかった。
「……まあ、色々あったな」
「うん。色々、ね」
美桜は微笑んだけれど、その瞳の奥に一瞬だけ影が差したように見えた。
「ごちそうさま。ほんとに美味しかった」
「よかった。余っても困るから、手伝ってもらえて助かったよ」
食器を一緒に洗って片づけると、時計の針はもう九時を回っていた。
窓の外からは夜風が入り込み、カレーの香りをやわらげていく。
「そろそろ帰るわ」
「うん。……送るってほどの距離じゃないけど」
美桜は軽く笑いながら玄関まで見送ってくれた。
ドアノブに手をかけたところで、ふと振り返る。
「なんか……不思議だな」
「なにが?」
「こうしてまた隣同士で、ご飯食べて、他愛ない話して。十年前は想像もしなかった」
言葉を選びながら口にすると、美桜は少しだけ黙り込んだ。
そして、ゆっくり視線を合わせてくる。
「……私も。あのときは、もう二度と会えないと思ってたから」
その瞳に浮かぶわずかな切なさが、胸を締めつけた。
聞きたいことは山ほどあるのに、声にならない。
沈黙を破るように、美桜が小さく笑った。
「でも、またこうして会えたんだもんね」
「……ああ」
それ以上、言葉を交わすことはなかった。
けれど、ドアを閉めたあとも、胸の鼓動はしばらくおさまらなかった。
壁一枚の向こうに、美桜がいる。
その距離の近さと、十年前の遠さが、頭の中で交錯していく。
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