その靴は濡れたまま
かたなかひろしげ
風評被害
そう、靴だよ靴。雨振らないと思ったからさ、夜に出しといたわけ。で、そしたらさっきの急な雨だよ?
もうどうするのこれ、昼には待ち合わせの約束しているのに、今日これしか履いていく靴がないんだけど───
そう思った俺は、このぐずぐずに濡れた靴を、あと一時間でなんとかして乾かそうと必死に2秒ほど考えた。
そこで日々の台所で天才的な料理を作っている私に、鮮烈な神の啓示が降りた。
例えば食材から水分を取る時になにをしているか。そう、サラダスピナーである。あれはぶんぶんと回すことで、中に入ってるレタスの水分とかをあっという間に取り除いていたではないか。
あれと同じことがきっと、この靴でも出来るはず。出来るに違いない。
しかし我が家のサラダスピナーに靴を入れるわけにはいかない。あれは我が家のサラダには欠かせない調理器具である。我が家のレタスサラダから俺の足の匂いがするような事態は、全力で回避しなければならない。
そこで俺は無い頭を振り絞って考えた。なんのために必死に勉強して大卒までして勉学に勤しんだのか。恐らくはこういう時のためである。ちなみに俺は国文科卒であり、物理は微塵もわからない点を強弁しておく。
サラダスピナーがレタスの水分を奪う仕組みは簡単である。要は遠心力を使って水を飛ばしているのだ。靴にも同じことをすれば良い。 俺の論理的思考は速やかに代替案を頭の中で組み立てた。
やおらベランダに立った私は、靴紐のはしを両手でしっかり掴み、まるでファイヤーダンスのように回すことにした。
これであれば遠心力によって、靴の水分は外に弾き飛ばされるはずである。ああ重力万歳。地球様々である。
ただ、何も考えずに運動するというのは、俺的にはあり得ない。
そんなわけでふと我に返れば、俺は今朝の雨上がりの良い陽気に当てられて、いつもの朝のラジオ体操のBGMを頭で再生させながら、気分よくベランダでくるくると靴を振り回していた。
「腕を回します」のフレーズのあたりから、頭の中で鳴り響くピアノのリズムに乗って靴を振り回し、そのフレーズが終わるところで小休止。そしてそのまますぐにまた「腕を回します」のフレーズに合わせて靴を振り回す、そんな一連の行動を延々と繰り返すこと10数回。
俺の心の中では、宵闇の中、腰蓑姿の本場の人が松明を振り回すあの姿のつもりであったが、惜しむらく、俺の今の姿はただの上下ジャージ姿で、靴をのりのりで振り回すただのおっさんである。
すっかり周囲の索敵を怠った報いだろうか、気持ち良い汗をかいた開放感のまま、なにげにベランダの下を通る道路をみやると、いつぞやどこかでお見かけしたような近所の御婦人が、まるでアイドルグループの中に旧知のおっさんが女装して混ざっているのを見つけてしまったかの眼で、こちらをじっと見つめていることに気がついた。
目と目が合う瞬間、普通の話であれば恋にでも落ちるところだが、俺はおっさんでありベランダの下に見える相手はどこぞの御婦人である。俺の手は驚きの余り一瞬動きが止まってしまった。蛙だってヘビに睨まれたら固まる、要はそういう感じのやつだ。俺の前世は蛙に違いない。
しかし俺はその瞬間まで靴をファイヤーダンスのように回していた事をお覚えだろうか?
そう、回している最中に手を止めたとしても、重力は靴に対して正直であるし、靴も遠心力に対して正直である。ああ地球万歳。
既に停止してしまった俺の腕をよそに、靴はその周回軌道を変えて斜めに周りだし、俺の身体に巻き付いた。
いつぞやも言ったかもしれないが、俺は近所付き合いをちゃんとする男でもある。どんな状況でも挨拶は欠かさない。たしか礼節は大事だとオカンも言っていた。
宇宙刑事が変身するのと同じくらいの速度で、近所の御婦人に反応した俺の社交性スキルは、すみやかに反応し、挨拶をしようとした。
「おはごふっ」
その最中、俺の腕の制御から解き放たれ、散々荒ぶって自由に回り始めた靴紐は、朝の挨拶を決めようとしたその絶妙なタイミングで何故か鼻にかかり、俺の流麗な挨拶を謎の呪文へと変化させた。
「ごぶっ?」
すると、下にいる御婦人が何故か、俺の厨二病っぽい呪文めいた挨拶に、まるで雑魚ゴブリンの挨拶のような返答をしてくれるではないか。これはひょっとして心が通じ会えたのかもしれない。心なしか驚いて目を見開いているようにも見えるが、あれは元々ああいうお顔だったに違いない。
返事は礼節として大事である。俺は相手のスタイルを尊重して、よりゴブリンらしく挨拶を返すことを試みた。
「おひさしぶすっ」
鼻に靴紐がひっかかったままであることを秒で忘れた俺は、御婦人に「お久しぶりです」と返事をしようとした。だが、我が世の春を謳歌するが如く、慣性のままに宙を舞う靴には、そんな優しさなど皆無であった。あと少しで言えそうだったエレガントな挨拶は、またしても呪文どころか今度は罵倒の言葉になって、俺の口から発せられた。
下にいらっしゃるゴブリ……じゃなかった御婦人は、そんな俺の一人緊迫プレイに思うところがあったのか、下を向いて産まれたての子鹿のようにぷるぷると震えを隠せないでいた。
このままでは俺は、近所の御婦人に挨拶されたのにも関わらず、それを罵倒して返しただけという、近所でも評判のヴィランとして名を馳せてしまうかもしれない。しかもこんな紐で自分を縛っている状態であれば、そこにド変態の称号も追加されてしまう可能性すらあった。
───この汚名を挽回、ではなく払拭するためには、まずこの俺を縛っている靴紐をどうにかする必要に、俺もようやく思い至った。
散々自由に回転したあげく、俺を縛り付けることに成功したこのいけない紐を、動かない手を使って器用に解きほどこうとも考えたが、どうにも効率が悪い。だがもしこのままモタモタしていれば、御婦人は呆れてまた立ち去ってしまうだろう。そして俺の変態っぷりは、世間様の知るところとなってしまうに違いない。
そのため、どうしても素早くこの紐を時解く必要を感じた俺は、この紐が絡んだ方向と逆に靴を振り回せば、自然にほどけるに違いない、という至極簡単な事実に気がついた。
俺は身体をくねらせて、腰の反動を使い、最早肩から垂れ下がっていた靴を跳ね上げた。俺の精緻な予想は功を奏し、靴は俺を巻き付けたのと逆回りに回っていく。よし、このまま回していけば、靴紐はすぐにでもほどけるに違いない。
よし。今の俺を見てくれ。見事に紐から自由になって変態を卒業するその様を目に焼き付けて帰ってくれ、と懇願するようにベランダ下の御婦人を見れば、まだ下を向いて震えたままである。さては寒くて震えているゴブか? そんなことはないか。
ともあれ御婦人には、俺をもう一度見てもらわないといけない。
逆回転を経て、鼻が紐から解き放たれたタイミングで俺はまた御婦人に声をかけることにした。同じミスをしない程度の知恵は、国文科卒にも備わっているのだ。
「ごきげんよぶっ」
逆回転をして鼻から紐を外してくれた靴は、その回転の勢いのまま、俺の顔に直撃し、またしても俺の小粋なトークの末尾に華を添えた。
「おだいじに……」
御婦人は、まるで猫に繰り返しパンチされて永遠に起き上がれない路上の蝉をみるような眼でこちらをみやると、震えながら小走りで去っていった。無事、人間の言葉を取り戻したようである。
尚、待ち合わせには遅刻した。
その靴は濡れたまま かたなかひろしげ @yabuisya
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