第2話



 目を閉じていた郭嘉かくかはそっと瞳を開いた。


 警鐘の音だ。

 外が騒がしい。

 夜襲があったことは分かった。


 警鐘は聞こえたが郭嘉は外套に包まったまま、動かなかった。

 火鉢で静かに赤色を帯びる灰を、何故かそのまま眺めた。

 

 ……人が死ぬ直前に見る、景色について考えた。


 賈詡かくなどは死について考えるなど退屈だと言っていたが、郭嘉は病床にあった五年間、ずっと死について考えていた。

 死はもはや気の知れた友だ。

 急に会いに来ても今更驚いたりはしない。


 人が死の直前に見る景色は、

 美しいものなのか、

 醜いものなのか。


 陸伯言りくはくげんは瀕死の底で、知りたいと願っていた答えを夢に見たそうだが、


 それも悪い死ではないと思う。


 煙の匂いがする。

 火が放たれたらしい。

 この大雨にも関わらず、煙の匂いがした。


 まだだ。

 まだ動く気にならない。


 それが何故なのかは分からないが、郭嘉は、信じるのは自分自身だけだった。

 結局、自分自身をどれだけ信じ抜くかなのだ。


 死は。


 自分自身を信じ抜けば、

 信じて訪れた死は愛せるはずだし、

 悔いも無いだろう。


 幕舎の前に、賈詡が自分の見張りを張り付けていたはずなのに入ってこない。

 ということは、火はここから遠くにまず放たれたようだ。

 賈詡の補佐官が動いたということは、司馬懿しばいや賈詡の幕舎の近くが狙われた可能性がある。



「【北の悪魔】か……」



 呟くと、笑ってしまった。


 一体、どんな顔をしているのかな。



 郭嘉は目を閉じて深く椅子に座り、耳を澄ませた。


 警鐘。

 人間のどよめきや叫び声。

 何かが起きている。


 戦場において、何かが起きているということは、

 何者かがそれを起こしているということだ。


 だから郭嘉は戦場が好きだった。



『戦の申し子だな』



 よく曹操が目を細めて自分を見つめて笑い、そう言った。

 一番最初から、彼はそうだった。

 郭嘉の存在を全く不審がらず、側に置いてくれた。


 これは後に聞いたことだが、自分が死病に倒れている間も五年間、季節折々に曹操から参殿せよと潁川えいせんの郭家に文が届いていた。

 家族は何度も『今は危篤の状態にあります、どうかご容赦を』と返事を返していたようだが、何度止めてくれと訴えても文は来たという。


 文はまとめて隠してあり、快癒したあと郭嘉が何気なく、実家の書庫で見つけたのだ。

 見間違えもないような荀彧じゅんいくの字で書かれていて、一年に春夏秋冬と正月。五回が五年分。

 最後の方は隠せていない嫌そうな雰囲気が珍しく冷静な荀彧の字に出ていて、郭嘉はそれを見た時、声を出して思わず笑ってしまった。


 共にいた異母妹が不思議そうにやって来て、溜まった文を幾つか取り出し、読んでいた。


『恋文みたい』


 彼女は優しい声で言った。

 これを見た、全ての郭家の人間が「死の床にいる人間を幾度も宴に呼び出すなど、悪意に満ちている」と言っていたのに、

 彼女だけは違うものを感じ取ったようだった。

 彼女は文字は読めても、これが公文書だということは分からなかったらしく、


『この文を書いた方、ずっと郭嘉さまに会いたがっていて。可愛らしい』


 本当に兄上様のことがお好きで会うのが待ち遠しいのですねと言ったので、郭嘉は微笑んで「これを書いたのは曹操殿だ」と教えてやると驚いて目を丸くしていた。


『それは驚くだろうね』

『あの……愚かにもわたくし何も知らず……大いなる陛下に対して、可愛らしいなどと大変失礼を……』


妹は俯いたが郭嘉は優しく頭を撫でてやった。

曹操がここにいたとしても、そんな彼女を優しく笑っただろう。


『不思議なんだ。あの方はたくさん今まで、死を見て来たはずだ。

 身内の死も、仲間の死も。

 人間は容易く死ぬことを誰よりも知ってる。

 どんなに愛する者も。

 どんなに多くの人間に愛される者も。

 死ぬ時には容易く死ぬ。

 今日生きていた者が、明日にはいない。

 それをあの方は誰よりも知っているはずなのに、この文だ』


 恋文、確かにそうかもしれない。


 荀彧じゅんいくが嫌がりながらも書いたのは、重病人に対して参殿を催促することが非情だと分かっていても、自分に会いたがる曹操の姿に心打たれてのことだと思う。


『何故かあの方は、私だけは死なないと思い込んでる気がするんだよ』


 それは思い違いで、自分も死ぬ時は容易く死ぬのだろうということは、郭嘉も死病に掛かってからよく理解した。


 しかし、人は容易く死ぬという自覚を知って尚、これほどまでに天命を背負う者は、容易く死ぬことは無いだろうと信じ抜けるのは驚きだ。


 自分の死を本当に伝えられた時の曹操が、

 狼狽し、驚かないことを郭嘉は願っていた。

 他の誰が驚いても、曹操だけは「そうか」の一言で済ませてほしい。

 


 本当にどこまでも、自分を【戦の申し子】だと貫いて信じ抜いてくれるのであれば。



(私が戦場で死を迎えた時だけは)



 驚かずにその知らせを聞いて、

さすがは戦の申し子、と。

 いつものように笑って言って欲しいのだ。



 ……郭嘉には昔から死線を嗅ぎ分ける嗅覚があった。


 曹操そうそうは早くにそのことに気付いていたようだ。

 だから子供でも郭嘉を戦場に連れて行った。


 あの辺りは危なそうだなぁとか、あの辺りはきっと楽しい戦いが見れる、などと子供の気安さで呟くと、曹操が「よし、じゃあ行こう」と移動しようとするので、見かねた夏侯惇かこうとんに「戦場ではお前は一切口を開くな」と口を押さえつけられたことが何回もある。



 死線。



 郭嘉は、戦場ではそれを察知できたから、戦場において自ら死に会いに行くということは一度もしたことがない。

 

『貴方は防衛本能は本来、並の人間よりもずっと強い』


 そう。


 だから郭嘉にとって戦場では、

 死に、会いに行くのでは無い。




 ――――いつだって死が、会いに来るのだ。





【終】

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花天月地【第68話 地を這う生き物】 七海ポルカ @reeeeeen13

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