花天月地【第68話 地を這う生き物】

七海ポルカ

第1話




 ぴく、と馬超ばちょうの馬が顔を上げた。

 

 雨や風の音に紛れても、敵かどうかの判断は馬超にもつく。

 愛馬も同じだったようだ。

 何者かが潜伏している可能性があるので、呼び声はしなかった。

 ただ向こうも人の気配が読めるらしく、敵意のない様子でこちらに真っ直ぐやって来る。

 あるところで気配が止まった。


「大丈夫だ。周囲に怪しい者はいない」


 独り言のように馬超が言うと数秒後、ガサガサと音がして徐庶じょしょが現れる。


「馬超将軍、お待たせして申し訳ありません」


 徐庶が一礼した。

 馬超は徐庶のことをあまり知らない。

 一時、劉備りゅうびの元にいたことだけは聞いたが、人となりはあまり分かっていない。

 軍師だと聞いていたから何となく、机に座って考え事をする質なのかなとは思っていたが、かなり戦場の気配も読めるようだ。


「いや、構わん。早かったな」


 そこまで普通に言って、馬超が気付いたように眉を顰める。

「もしや……間に合わなかったか?」

「あ、いえ。彼は無事です。その、今は無事というか……話せば長くなるのですが、

 ……とにかくつまり、斑紋は消えていました」

 徐庶が懐から薬の小瓶を出した。

「まだ使っていません。これは、将軍にお返しいたします」

 馬超に返そうと、差し出す。


「そうか……。いや。いい。また万が一のことがあってはいかん。

 それは貴方が持っているといい」


 徐庶は小瓶を見た。


「しかし貴重なものなのでは」

「貴重だ。誰が持っていたとしてもな。

 だから貴方が持っていても、価値はある」


「……。これが……どういう薬なのか、お尋ねしてもいいですか?」


「構わんが徐庶殿。その前に、俺から貴方に聞きたいことがある」

「分かりました。私は、貴方の話を聞きに来たのです。馬超殿。

 私は軍では新参で、貴方の望むような情報はそんなに持っていないと思いますが。

 答えられる事ならば」


「いや……魏軍のことではないのだ」


 徐庶じょしょは瞳を瞬かせる。


「あの針は……」

「はい。あります」


 徐庶が差し出すと馬超ばちょうは少しも躊躇わず、針を手に取った。

 確かに彼は、これが毒針ではないという確信があるようだった。

 手に取り、確認するようにしてから頷く。


「この針は中が空洞になっているだろう? 

 毒では無く、ここに小さな蛇を入れて相手に撃ち込む。

 撃ち込まれると傷口から体内に侵入し、瞬く間に内側の組織を破壊していくんだ。

 これは大陸ではある場所にしか生息しない蛇で、ほとんど知られていない。

 寒さに弱く、ある一定の温度以上にならないと普段は仮死状態になっていて、人間の体内の温度が適温なんだ。動き出すとたちまち人間の臓に潜り込み、内側から殺していく。【石螺せきら】という。ほんの爪ほどの小さな蛇だ。


 ある洞窟にしか生息せず、普段は岩に張り付きその養分を摂取しているらしい。

 人間の体内に入ると、皮膚の下に入り込むため螺旋状に動き潜り込む。その時の斑紋が唯一のこいつの特徴で、動き回る時に放つ毒に対して現われる斑紋らしい。

 しかし時間が経てばこれは消えるので、消えた後はもう侵入を示す痕は何も無くなる」


陸議りくぎ殿を治療する時、撃たれた当初は痛みなど何も無かったようでした。一人で馬も操れるほどだったので私も注意を怠ってしまった。治療をする際に、湯を使うと途端に急変を」


「恐らく傷は浅かったんだと思う。体内に入れば人間の熱で奴らは動き出す。浅いところでこの外の冷気に、仮死状態だったのだろう。本当にごく小さな蛇だからな」


「涼州に生息するものですか」


「いや。違う。涼州の気候は寒いので、奴らの生息地ではない。

 俺も、人に聞くまでこの蛇のことは知らなかった」


「しかし貴方は解毒剤というか……」


「――そのことなんだが」


 馬超が徐庶を見る。

 馬超の愛馬は話し込む主の側で、周囲に意識を向け警戒しているようだった。


「徐庶殿。その射られた者に関して、魏軍でどのような立場であるか聞いても良いか」


「陸議殿ですか? 総大将である司馬懿しばい殿の副官です」

「司馬懿の腹心か。務めて長いのか?」

「長いかは分かりませんが、彼は二十歳ほどで非常に若い青年です。長いと言っても……」


「二十歳?」


 司馬懿の副官がそんな若い人間だと思っていなかったのだろう。馬超は少し驚いたようだ。


「ずっと司馬懿の元にいた者か」

「分かりません。私も涼州に来る為のこの一月ほどで知り合ったので。ただ許都きょとでは、彼は政治にも軍事にも関わっていません。任官も正式なものはまだ受けておらず、司馬懿殿の任意で副官に抜擢されています。普段は司馬懿殿の私邸におり、そこで身の回りのことや、司馬懿殿の弟君と共に勉学などに励んでいると聞きました。

 非常に穏やかな人柄で……会った者にはほとんど慕われるような方だと思いますが」


「……。」

馬超ばちょう殿?」


「……いや、すまない。煮え切らないような男だと思っているだろう。徐庶殿。

 俺はこういう物言いを普段はしないのだが、これが涼州の問題ならば全て洗いざらい話すのだが、他の一族に関わることなので、貴方に話していいのか迷っている」


「他の一族……? 涼州の……他の豪族ですか?」


 馬超は少し考え込んだ。

 徐庶は気付く。自分が問題なのだ。

 ここにいたのが趙雲ちょううんなら、極秘のことにしてくれと馬超はすぐに話したはずだ。

 だが徐庶は魏の軍師なので、敵意のない人間でも話していいか困っている。


「馬超将軍」

 徐庶は呼びかける。


「私は……確かに今は魏の軍師です。母が曹操そうそう殿によって洛陽らくように連れて行かれたので私が仕方なく魏に仕官したと思われていますが、私が例え劉備殿の元に留まり続けても、曹操殿は老いて身体を病んだ母を処刑したりはしなかったと私は思っています。

 そんなことをすれば曹操殿の非になる。

 彼の名を汚すだけの価値は、私にはない。

 私が思うに母を洛陽に移したことで、ただ私と魏を縁で結びたかったのでしょう。

 母を見舞いに度々訪れれば、私は蜀でも疎まれるようになるでしょうし、母など捨てたと魏から遠ざかっても、私の心に自分は不孝者だという傷は与えられる。

 曹操殿は母を招けば、あとは黙って成り行きを見ているだけでいいのです。


 私はそれは分かっていた。

 だからそんなことを気にせず、私は蜀に留まろうと思えば留まれた。決して母を手には掛けないだろうと分かっていたから。

 ただ……それをしなかったのは、私自身が母に幼い頃よりの負い目があったからなのです。

 子供の頃に家を出て以来、私は文も一度も出さなかった。

 俺が人を殺めて役人に追われるようになった時、俺が捕まらなかったので母が捕まり尋問を受けたんです。行方を知っていると想われて。

 もうとっくに母子の縁は切れたと俺は思っていたのに母は、俺との縁を理由に一年近く牢に入って尋問されていた。

 これ以上母を苦しめることは許されないと思ったから、俺は自分の意志で魏に仕官をしました。

 恩ある劉備殿の元を離れた咎は、母を連れて行った曹操殿でも、人質になった母でも無く親孝行が気がかりになるほど、過去において親をないがしろに不孝を働いてきた私自身の生き方にある。紛れもなく、私の選んだことです」


 徐庶じょしょが何故突然そんな話をしたか、馬超は分かった。


 同じように、そういう理由で魏に来た自分が、自分の私欲のために馬超から聞く情報を魏や他の者には売り渡したりしないと言っているのだろう。

 それが出来るのであれば、蜀に留まったということを。


「そうか……。すまない、徐庶殿。貴方をあまり知らず、どこまで話していいものか測りかねていたが全て話す。これから話すことはどうか悪戯には他言しないで頂きたい。

 罪のない者を争いに巻き込みたくないからな」


 静かに徐庶が頷く。


「今は違うが俺はかつて、涼州連合の長であったことがあるので」


 馬超ばちょうが話し始める。

「その時に父から涼州騎馬隊のように――、大陸各地の、国に関わらない一族や勢力の話を聞かされた」


「国に関わらない一族たち……」


 徐庶が思わず呟いた。

 それは奇しくも今回の涼州の一連の出来事を追っている中で何かを徐庶が捉えきれず、それ故に言葉に出来ず、辛くもやっとの思いで表現した言葉が「国に属さないものたち」だったからだ。

 

「彼らは国に属さない代わりに、その時々の時勢に状況を左右される。

 時には生来の居場所も一時的に追われることもあり、そういう一族と協力し窮地にあれば救うことで、国を持たぬ者たちも広く絆を結ぶことが出来ると。

 彼らが元々どこにいて、どこに移動したのか。それはどういう理由でそうなったか、一族の主立った者達の名など、特徴や、彼らの掲げる信条、掟、そういうものを教えられる」


「莫大な量になるのでは?」


「数えれば数えるだけいるからな。長の判断により、つまり目ぼしい一族だけだ。

 西の荒野にいる部族、北方【匈奴きょうど】の部族、北東の【烏桓うがん】、南の【山越さんえつ】族、長江ちょうこうに潜む川賊せんぞくたち、成都せいとの南西の山中にも勇壮な弓の得意の部族がいるが……まあ、そういった主立った者たちのことを。

 彼らに会った時は時機を鋭く見抜き、協力してやるべき時、手を結ぶべきではない時を判断する力が必要だと俺は父に教わった。豪族の、かつて長だった長老達にもな」

 

 徐庶じょしょはいつの間にか話に聞き入って、強い雨の中、馬超と共に雨溜りに容赦なく座り込んでいた。


「【石螺せきら】は大陸北東にある小さな湖の、湖底洞窟にしか生息しない。

 先程言ったように急激に身体を蝕むが、内部から破壊して、その傷が見えにくいため、一族の掟に従わない者や、その刑罰に使われているのだとか。

 俺も、その時聞いて初めて存在を知った」


馬超ばちょう将軍は以前、同じ症状の者を救ったことがあると聞きましたが……」


「以前涼州を南へ向かう商隊を、涼州騎馬隊時代に護衛したことがある。

 山賊に襲われ、賊を返り討ちにしたんだがその中の一人に、賊とは思えぬ男が一人いてな。賊の一味になりきっていたが、何か目が違った。何か必死に、澄んでいるように思えてそいつを助けたことがある。その戦いでそいつに射られた仲間が、貴方の仲間と同じ症状を」


「なるほど……」


「俺が瀕死の自分を助けたことに驚いたようで。

 賊ではないのは分かっているから治ったら涼州から出て行けとそれだけを命じると、あの薬をくれたのだ。

 石螺せきらという希少種の蛇を、殺す劇薬なのだということを。

【石螺】は人間の血を吸い、臓器に棲みつくので一度体内に入ると殺せない上に、永続的に養分を取り続けるため、生き続ける。

 宿主が死ぬまでな。

 しかし彼らの秘伝で調合したその薬だけは、接種すると瞬く間に蛇が死ぬらしい。

 それが唯一【石螺】を殺す方法なのだとか」


 馬超は徐庶を見た。


「怪我人が薬以外で快癒したと聞いたが……何故だ?」

「それが……私もその瞬間を見たのではありませんが、話では瀉血しゃけつして汚れた血を大量に出したそうです」


「瀉血……」


 馬超は目を見開いて見せたが、徐庶が聞いた時ほど驚かなかったようだ。頷いている。


「なるほどな。合点が行った。確かに薬がない場合、瀉血が唯一の助かる道だろうな」


「何故ですか? 石螺は血を吸い内部に入るのなら、表面上の血を抜いても……」

「いや。血を出して石螺せきらごと外に出すんだ」

 馬超が腕を切る仕草をした。

 奇しくも、彼の切り方は郭嘉かくか陸議りくぎに付けた傷と非常に似ていた。

「何故縦に?」

「横に切ると確実に血管を切る。腱を傷つければ腕は二度と戻らん。

 しかし脈に沿って切れば、皮膚だけ広範囲に裂ける。腕が良ければ、脈を切らずに済む。まあそれでも余程の腕と幸運があってこそだがな」

 徐庶は息を飲んだ。

「馬超殿……それなのですが、瀉血を咄嗟にした者が同じように陸議殿の腕をこう……縦に広く裂いていた。大量に出血し、軍医は命が危ないので、血を抜いて毒素を薄めてもこれでは意味がないと、信じがたい処置だと言っていました」


「まあ、軍医であればな。彼らは薬学の知識がある。

 大抵の毒は処置が出来るから瀉血などという危険は冒さない。

 しかし今回は毒では無いし、効く薬もない。時間を掛ければ石螺がもっと奥に入り、それこそ命は助からなかっただろう。切った者は医者か?」


「いえ」

「そうか。医者ではなかったから出来た判断かもしれんな」


 徐庶じょしょは数秒間、押し黙った。

 郭嘉かくかは咄嗟の瀉血においては、最高の判断を尽くしたということなのか。

 しかし陸議が目覚めるかは分からない。

 死んでしまえば最善の策を取っても意味は無い。


 陸議はただの若い兵ではない。

 司馬懿しばいが未来の自分の副官にと期待する青年だ。

 任官を受けておらずとも、

 いかに郭嘉の立場でも、容易く傷つけて済む相手ではなかった。

 賈文和かぶんかのあの頭を抱えた様子では、幕舎に下がった司馬懿の心境は簡単に察することが出来る。


 形式上は今回の従軍では郭嘉かくかは賈詡の副官として来ている。

 自分の副官が総大将司馬懿の副官の命を奪ったとすれば、郭嘉は長安に帰還させられる可能性が高い。

 郭嘉は曹操に重んじられた軍師なので曹操はその処置にに不満を抱くだろうし、曹丕からしてみると、たかが副官のことで郭奉孝かくほうこうを長安に帰還させれば、賈詡の不手際と捉える。 曹丕そうひは身内に甘い顔はしないため司馬懿の責任すら、問うかもしれない。

 だとしたら陸伯言りくはくげんが死んでも、司馬懿が黙ることが最も曹魏として動揺が無い。

 

 郭嘉はそこまで読んで、陸議を切ったのだろうか。


 それであの落ち着きだとしたら、一瞬の判断でそこまで読んで行動に踏み切った郭嘉はさすがに曹操が神童と称して側に置いてきた軍師と言うべきだが、

 徐庶の直感は納得していない。

 郭嘉は本来、あの時動かなくても良かった存在だ。

 軍医に全てを任せて、何が起こっても彼は関わりなく許された。

 それでも敢えて自ら動いて来たのは動きたいと望んでのこと。

 彼は無駄なことは決してしない。


 あの時何か、郭嘉が欲することが起きたのだ。

 そのために全ての危険を冒して、それを手に取りに来た。

 郭嘉が動いた理由はそれしか無い。

 

「馬超将軍。その腕を切った人物ですが……実は狙撃を受ける前、彼から黄巌こうがん……馬岱ばたい殿の素性を調べるように頼まれました」

「なに……?」

「彼はこの五年ほど死に至るほどの病を得て、全く起き上がれない状態にあったといいます。実家で療養していた時、館のある魏の、潁川えいせんで馬岱殿を見たことがあるのに、涼州で再会したことを怪訝に思ったのだとか。つまりは、彼が魏に送り込まれた間者ではないかと」


「馬岱が間者だと? 絶対にそんなことはない!」


 馬超は怒ると言うより、少し笑ってしまっていた。

「あいつはそんな隠密に行動するようなのが得意な質ではないよ。

 言動が子供のような所があって、よくウロウロするし誰にでも人懐っこい。

 間者のように闇に潜んでただ一つの命令のために動くなど、到底無理だ」


「私もそう思います。ただ彼は軍師で非常に聡明な男。

 人の顔を安易に見間違える者ではありません。

 私は、ですが……。私は馬岱殿が潁川えいせんの実家に現れ、その人が見たというのは本当なのではないかと思っています。

 だが間者ではない。

 彼は商隊と共にいたというから、その護衛など――なにか普通に説明出来る公の理由があってそこにいたのではないかと思います」


「……徐庶殿。

 馬岱は確かに戦を嫌って北に去った。だが曹魏への憎しみや、潼関とうかんの戦いで皆殺しにされた一族の無念は、俺と同じように背負っている。決して忘れたりはしない男だ。

 理由も無く、曹魏の都に行くなど絶対に有り得ない」


「では何か余程の理由があったのでしょう」


「……。いつのことか、正確な時期は分かるか?」

「彼は涼州で見かけた黄巌こうがんの顔が、記憶の中のものとさして変わらないと言っていました。ですからこの一年、少なくとも二年のうちです」

「……。」


 馬超の表情が少し曇ったのが分かった。


「……俺も馬岱ばたいがこの辺りに来ていると聞いて、驚いた。

 俺が馬岱と離れたのも、五年ほど前のことだ。

 それから北に向かうあいつを見送り……所帯を持ちたいと言っていたから」


「黄巌は私と別れる時、このまま何も無かったら北の臨羌りんきょうを訪ねて来てくれと言ってくれました。私がもし……、長安に戻るようなことがあれば、文をくれと。

 彼が会いに行くとも言ってくれました」


 馬超が俯く。

 

 馬岱ばたい


 確かに涼州にいると、誰もが涼州のことで頭がいっぱいになるのに、

 馬岱だけは時折、誰も見ていない方を眺めていることがあった。

 険しい山の向こう、

 草原の果ての地平線、

 大河の先を。


 時折ボーッとしていることがあり、

 仲間内ではよくそういう時に隙だらけだと背中や頭を叩かれてからかわれていたが、

 馬超ばちょうは何故か、ふと見た時に馬岱がこちらに無防備な背を向けて、のんびり空の先を見ている姿が好きだった。


「……。確かにな。

 俺も、潼関とうかんの戦いでの苦しみを忘れたわけではないが、今は蜀にいる……。

 馬岱にだけ、涼州から出るな曹魏には行くななどと要求するのは、筋が通っていない」


「馬超将軍。風雅ふうがは、こうも言っていました。

『人間は行きたいところに自由に行っていいのだと。

 その土地がそこにあるというだけで、侵略を受けるのは間違ってると。

 誰しも幸せに、望む場所で望む人と暮らしていくべきだ』と」


 小さく馬超が笑んだ。


「徐庶殿。今の貴方の言葉を聞いて確信した。

 貴方が会った黄風雅こうふうがという男は、間違いなく俺の従弟の馬岱ばたいだ。

 その者が潁川えいせんで馬岱を見たと言うのならば、そうなのかもしれん。

 しかし断言する。

 あいつは決して間者などではない。

 何か商隊の護衛だとか、友人を訪ねたとか、そんな普通の人間と変わらん理由のはずだ。

 馬岱は涼州騎馬隊とも、五年前に一線を引いた。

 そうは言ってなかったか?」


「それは聞きました。この辺りで自警団を募り、それに関わっていると……」

「どうした?」


 黄巌こうがんが『馬岱』なら、彼は馬超の話もしていた。

 従兄とは一言も言わなかったが。

 

「……彼は貴方のことも言っていました」


「え?」




『小さい頃は、一緒に騎馬兵になる修行も受けたからよく知ってる。

 涼州において馬一族は特別な存在だったから。父親の馬騰ばとう殿は当時から涼州連合の長だったし。

 三人兄弟だったけど、長男の馬超殿はやっぱり、普通の少年とは違っていたな……。

 武芸は何をやらせても際立っていたし……なんて言うか、いるだろ? そこにいるだけで自然とその場にいる人たちの視線を奪うような、そういう存在感のある人』


『馬超殿は武勇に秀でて身体も大きかったし、見るからに立派な人だったけどね。

 彼もどちらかというと龐徳ほうとく将軍のように、生粋の武官だったけど……。

 ただ……馬超殿は同年代の俺達にとっては、兄貴みたいな存在だった。

 誰とでも分け隔てなく接してくれたし、困ってる人がいたら、自分の一族だとか一族じゃないとか関係なく来てくれて、助けてくれた。

 彼は政が得意な質じゃないけど、けど、頼りになる兄や、父親は、一族をとりまとめられるだろう? 馬超殿は、そういうところがあった』


『……そうだね。信じられないくらい強かったけど。

 ……確かにとても、優しい兄貴みたいな人だった』




 徐庶じょしょから、黄巌こうがんの言葉を聞いた馬超は驚いた顔をした。


 少年時代から馬岱ばたいとは一緒にいた。

 馬超達は三兄弟だったが、馬岱はもう一人の弟だと馬超は思っていた。


 実際誰が見ても四兄弟のように仲がいいと言われたし、馬超が若くして涼州連合の長に抜擢されたとはいえ、彼ら兄弟はもっと気安い関係だった。

 馬岱から、馬超は共に生きている中で、自分に対して同じような言葉を掛けられたことは一度も無い。


 馬岱から感じるのは、両親を失ってこの地にやって来て自分達の家族になれて、それがただひたすら嬉しくて楽しいといつも目を輝かせてるあの表情だけだった。


 自分は馬岱からすると、融通の利かない取っ付き難い兄だったのではないかとすら、馬超は思っている。


 

『もっと幸せになっていいのに』



 馬岱が言い残した言葉が心に残っている。


 あれはそういう言い方ではあったが、馬超には「もっと幸せになりたい」と、馬岱が打ち明けたように聞こえたのだ。


 自分はあの言葉に、何と返したであろうか……。



『これが俺の幸せなんだ』



 確か、そう答えた。思い出す。

 涼州騎馬隊を背負って、最後の最後まで涼州を守るために曹魏や侵略者たちと戦う。

 戦って敵を殺す、そうしていることで涼州の者達を守れる。

 命や、暮らしを。

 例え自分が血みどろになっていても、涼州の者達が涼州騎馬隊に感謝し、そのためで自分達は安心して暮らせるのだと笑ってくれるなら、


 これが俺の幸せなんだと。


 父と弟二人を失ったあと、

 一族を失った後、

 同じようにただ一人の生き残りとなった馬岱と共に戦場を駆けながら、そんな風に言った。


 あの時、顔は見なかったが。


 馬岱ばたいはどんな表情で後ろから自分を見ていたのだろう。

 いつも楽しそうに目を輝かせていた子供だったのに、

 自分に失望したのではないだろうか。


 実際、馬岱が北に帰りたい。

 自分の家庭を持ってみたいと言ったのは、それから間もなくことだったと思う。


 

(俺と離れて北へ戻り、愛する女と家庭を持ち、幸せになるんじゃなかったのか、馬岱)



 徐庶の聞いた話が本当ならば、馬岱は馬超と離れた後も一人で涼州を行き来していたことになる。

 馬超が一人になって涼州騎馬隊の幾つかを率いて、天水てんすい潼関とうかん、南の山岳地帯で転戦している頃だ。

 やがて涼州の北方の内紛が収まると、一族の領地も牧場も財産も、正式に他の豪族の元に組み込まれ、涼州に居場所がなくなった馬超は内紛の終わりを見届けて、蜀に去った。


 馬岱はすでに北に去り、武器を置いて幸せになっていると思ってのことで、共に来いとは言わなかった。


一人でこの辺りにいたのなら、会えたはずだ。

 それでも来なかったということは、余程自分とはもう関わりを持ちたくなかったからではないのか。



「馬超殿?」



「……いや。何でもない。

 それで話の続きだ。徐庶殿。

 つまりだな、俺が気にしているのは」


「【石螺せきら】を武器として使う者が涼州に来ているということですね」


「そうだ。だが、北東に拠点を持つ、烏桓うがん族ではない。

 彼らは【官渡かんとの戦い】の後、えん家の残党が逃げ込んだ北東に追撃に出て来た曹操に攻められ、四つの大きな一族が悉く滅ぼされ、全滅したと聞いた」


「では……その生き残りが?」


「いや。奴らが金城きんじょうを落としたのが本当ならば、そんな手勢は残っていないはずだ。

 しかし……。

 烏桓うがん族にまつわる、こういう言葉がある。


『烏桓の母を一人殺せば、百人の烏桓の子が殺しに来る。

 烏桓の子を一人殺せば、一族全員で殺しに来る』と」


 その詩を聞いた途端何故か徐庶の脳裏に、過去に見た、凄惨な殺しの場が浮かんだ。



 ――復讐。



 確かに自分もその二文字を感じた。

 あの時も。

 この涼州でも。


「それほど彼らの結束は固いということだ。

烏桓うがん】の四つの一族が滅ぼされたというが、大きな部族は六つあり、五つ目は遊牧民で、西の匈奴きょうどに逃げたと聞いた。彼らは普段から戦いには関わらない一族で、曹魏が攻め来る前に逃げた為、裏切りを許さない烏桓族の掟で、涼州に立ち入った時は決して保護しないようにと、文も受け取ったことがある。

 結局彼らの姿を涼州で見ることは無かったが。

 平地に住む一族だと聞いていたから、もしかしたら更に涼州の西へ逃げたのかもな」


「では六つ目の一族は」


 馬超が一つ、頷く。


「烏桓には、【六道りくどう】という戦闘に特化した一族がいて、彼らは縦横無尽に山や平地を駆り、魚のように泳ぐことが出来るという。勇猛な烏桓うがんの中でも、特に最強とされる一族だ。

 涼州の、涼州騎馬隊のように、基本的に一族の結束で全てを行う烏桓の中でも、戦いの能力を買われて各地に派遣されていたとか。

 先程の、復讐に対しての鉄の掟を掲げてる一族の一つだ。

 烏桓は通常、北東の地を出ない。

 ――しかし【六道りくどう】だけは別だ。

 彼らは復讐のためならば越境し、どこまでも目的の人間を狙い続けるという。

 大陸を容易く縦貫出来る、六つの道を彼らは知っているらしい。

 鳥のような早さで大陸中を移動出来る。それが【烏桓六道うがんりくどう】という一族だ」


「彼らは今どこに」


「分からん。だが、俺が聞いた話では曹魏の進軍が凄まじく、瞬く間に焼き払われた場所に、【六道りくどう】の本拠である村があったと。【六道】は戦闘集団だから、一族の規模としては大きいわけではないと聞いた。だからその時に烏桓の【六道】は全滅したと。

 長の一族が絶えたと聞いた。

 えん家に加勢をしていた部隊だけは難を逃れたが、結局袁家と共に【白狼山はくろうざん】の戦いで死んだ。

石螺せきら】は六道の一族しか使わない武器だと、助けた烏桓が言っていたのだ。

 彼は六道の人間で、復讐の任務を遂行している最中だったらしい」


「……彼はそれから?」


「一度命を失うほどの状態になり、偶然会った俺に助けられ、一族が滅んだ後も命じられた復讐を人生の求めにすることに、疑問を持っていた。

 武器を捨て、名を変え、新しい人生を送りたいと言って南へ逃げた。

 復讐を果たさなかった者には、一族からまた刺客が送られるらしい。

 六道りくどうは死に絶えたのならお前を追う者はもういないはずだと言ったのだが……。

 北の空気は不安が過ると、南へ逃れていった。しかし」


 そうだ。


「仮に【六道りくどう】の生き残りがいたとして、

 どの程度の規模か分からないが、涼州に侵入して来たとして、何故涼州の村を焼くんだ?

 涼州騎馬隊も襲われたと趙雲ちょううん殿が言っている。

 何故、涼州騎馬隊と曹魏をぶつける?」


 徐庶は独り言として呟いた。


「それなんだが【六道】の復讐は残虐だが、掟もある。

 六道の者を殺した相手の縁者は皆殺しにされても許されるが、血の無関係な人間を殺すのは掟にそれも反する重罪だと聞いた。

 だから【石螺せきら】は六道しか使わないと、俺は確かに言ったが……徐庶殿」


 徐庶は頷いた。

「六道の流儀であって、彼らの流儀ではない。何かがおかしいと貴方は思っている」

「……そういうことだ」


「よく分かりました。

 まだ霧が晴れたわけではないが、貴方のおかげで少しだけ何かが見えて来た気がする。

 私も実を言うと、何か国とは関わりの無い者の、予期出来ない動きを感じていたのです」


「事実だけに目を向ければ【石螺せきら】の矢を撃ち込まれた部分だけは【烏桓六道うがんりくどう】の存在を感じられる。彼らの復讐には明確な意味がある。つまり、射られた人間に理由があるんだ」


射られた人間。


「いや、陸議りくぎ殿は……どう考えても……」


 血腥いことに関わっているとは思えない。そう擁護しようとして、徐庶は陸議の身体に残る、数多くの剣傷を思い出した。

 特に深い、肩から脇腹への一閃。

 彼は剣の腕は立つのに、あれは中でも新しい傷だった。


『私の養父は戦で死にました。自分自身より、生きてほしいと思ってた人です』


 陸議が真っ直ぐこっちを見上げる瞳を思い出した。

 同時に許都で会った【陸佳珠りくかじゅ】という彼の姉が、徐庶を見ると何か怯えるように瞳を伏せる姿も。


 あの姉弟には確かに何かがある。


 しかし得体の知れない闇に手を染めているという点では、自分の方が恐らくずっと濃いはずだ。

 徐庶は剣客として過ごした若い頃、縁の無い、素性もよく知らない人間を、復讐の代行を買って出る形で殺していた。


 ――恨みは十分買っている。


 だが自分が狙いなら長安ちょうあんでも許都きょとでも狙えたはずだ。

 烏桓六道うがんりくどうの本拠としては、向こうの方が遙かに近い。

 大した任官も受けておらず、徐庶は街をふらふらと歩き回っていたのだから。

 命を狙うなら、十分だったはずだ。


 陸議か、自分か。


「他に、その場には誰もいなかったのだろう?」


 馬超ばちょうに問われその時、徐庶は突然気付いた。


「そうか……」


 額から雨を滴らせたまま、徐庶は呟いた。


「徐庶殿?」


 あの場には郭嘉かくかがいた。

 陸議は、元々郭嘉を庇って代わりに射たれたのだ。

 

 郭嘉は――、


白狼山はくろうざん】の戦いに関わっている。


 烏桓うがんが全滅した、あの戦いに。

 

 神童と呼ばれ、幼い頃から曹操の側で寵愛を受けた彼が初めて公に軍師として名を刻み出陣した戦いなのだと聞いた。


 その時、稲光より早く直感が走った。

 その後に光。

 轟音が山間に響く。


 徐庶は水を跳ね上げて立ち上がった。


「しまった……」

「どうした?」



「『彼』の狙いが分かった! 本陣が危ない!」



 突然徐庶が駆け出す。


 馬超は一瞬置いて行かれたが徐庶の口走った言葉を思い出すと、冷静な徐庶があそこまで動揺する程に、尋常ではないことが起こったことは分かった。

 するに愛馬を呼び寄せ跨がり、合図を出した。


 何か得体の知れないことが、この地で起こっているのだ。


馬岱ばたい


 あの争い嫌いな従弟がどうかそれに巻き込まれていないようにと、彼は祈った。



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