第二話 義と謀

虎牢関の戦い前夜。

 洛陽の東に築かれた董卓軍の陣営には、焚き火の煙と、戦馬の吐息が漂っていた。


 高順は巡察の足を止め、天幕越しに夜空を見上げた。

 星は冴え、月は細く欠けている。

 「晴れれば弓が利く。だが、風が強ければ槍の間合いが生きる」

 そう呟くと、彼は再び歩を進めた。


 巡察の途中、酒と笑い声が耳に届く。

 覗けば、胡軫の兵たちが酒瓶を回し飲みし、金を賭けて賽を振っている。

 高順は眉をひそめたが、何も言わずに通り過ぎた。

 彼がここで口を挟めば、翌日には「清廉ぶった小隊長が出しゃばった」と悪評が董卓の耳に届くだろう。

 ――軍律を守る者が、必ずしも出世するとは限らぬ。

 それは、この董卓軍での常識だった。


 自らの陣に戻ると、陥陣営の兵たちは既に休息の態勢に入っていた。

 槍の穂先は油を拭われ、鎧は傷が無いか点検済み。馬も水を与えられ、静かに蹄を地に休めている。

 高順は安堵しつつも、胸の奥で微かな緊張が広がっていくのを感じた。

 明日は必ず血を見る。

 勝っても負けても、血と土と鉄の匂いに包まれるだろう。



 その頃、本陣では軍議が開かれていた。

 董卓は広い天幕の奥、象牙の椅子に深く腰掛け、酒を口にしている。

 左右に呂布と李儒、そして胡軫や徐栄らが並ぶ。


 李儒が口火を切った。

 「連合軍は袁紹を盟主とし、各地から諸侯が集結。兵数では我らの倍、いや三倍かと」

 呂布が笑った。

 「倍だろうが三倍だろうが、私が前に出れば敵は崩れる」

 胡軫が鼻で笑い、盃を置く。

 「呂将軍、虎牢関は関中の喉元。正面突破は無謀ではないか?」

 呂布の眉が動いたが、高順がいない場ゆえ黙って酒を飲む。


 李儒は淡々と地図を指し示す。

 「先鋒は呂布殿、その後方に高順の陥陣営を配す。敵中に道を拓き、連合軍の中軍を分断するのが狙いです」

 董卓が重々しく頷く。

 「よい。呂布と高順ならば、虎牢関を守り切れる」

 胡軫は不満げに唇を噛んだが、逆らうことはしなかった。



 一方、連合軍の陣。

 陳宮は灯りの落ちた天幕の中、蝋燭の灯で地図を睨んでいた。

 彼はもともと地方官であり、戦場経験は限られていたが、地形と兵の運用には自信があった。


 「董卓は虎牢関に全力を注ぐだろう。だが、問題はその先鋒だ」

 斥候の報告によれば、先頭には赤い戦袍の武将が立ち、方天画戟を構えているという。

 呂布――名は聞いていた。人中の呂布、馬中の赤兎。

 だが、陳宮の目を引いたのは別の報告だった。


 「その後ろに、少数ながら異様に統制の取れた部隊がある」

 七百ばかりの兵。槍を持ち、整然と動く。略奪も狼藉もせず、静かに陣を守るという。

 ――名はまだわからぬが、厄介な存在になる。

 陳宮はそう確信した。



 夜は更け、双方の陣営に静けさが訪れた。

 だが、その静けさは嵐の前の凪にすぎない。


 高順は天幕に戻り、槍を膝の上に置いて目を閉じた。

 戦場では、眠れる時に眠らねばならない。

 だが、心はいつでも開戦の刻を待っていた。


 東の空がわずかに白み始めたとき、陣太鼓が鳴り響いた。

 兵が起き上がり、武具を手に取り、馬がいななく。


 「行くぞ」

 高順の短い号令に、陥陣営は一斉に動き出す。


 その先には、呂布の背があった。

 そして、そのさらに向こうに、陳宮が見据える戦場が広がっていた。


 義を胸に、謀を手に。

 乱世の火蓋が、いま切られようとしていた。

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鉄壁なる者 〜高順伝〜 @3183

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