第26話 死の音

 低級魔族――リシュフェルド・K・ローダー、通称リッシュの運命は、まさに風前の灯火だった。

 

 シードの指先に揺れる業火と、ゼオラシュトの扇子から放たれる殺意が、リッシュの身体を包み込む。

 

「ひぁあああああっ!!」

 

 響き渡るのは、真水でも浴びたかのような間の抜けた悲鳴。

 いささか、業火に包まれた者が上げる声ではない。そんな違和感に、シードは眉根を寄せて炎を見つめる。

 

 セラは立ち尽くし、混乱と同情の間で揺れていた。

 

「そんな……さすがに焼き殺すのは……!」

 

 セラが慌てて割って入ると、リッシュは火の粉にまみれた顔を上げ、必死に手を振った。

 

「オ、オレを殺さないでくれ! オレ、悪い魔族じゃねえんだ! ただ、ちょっと……その、柔らかいもんが恋しくて、つい……!」

 

 その言い訳に、ゼオラシュトの扇子がピタリと止まり、シードの目が一層冷たくなる。

 

「……それで?」

 

 シードの声はまるで氷の刃。リッシュは火を掻き消すように全身を震わせ、息も絶え絶えに言葉を紡ぐ。

 

「ち、違う、誤解だ! オレはただ生き延びようとしてただけで……それに、オレの種族は人間と共存するタイプなんだ! ……セラって言ったか? アンタの魔力、ちょっと借りるだけでいい! 契約すれば、オレの力だって役に立つぜ!」

 

 セラは眉をひそめ、困惑したままリッシュを見つめる。

 

「契約って……どういうことなの?」

 

「そりゃあつまり、オレとアンタが契約すれば、アンタは今よりもっと強くなれるってことだ!」

 

 その時、シードが一歩前に出て、リッシュを冷たく見下ろす。

 

「インフェルニアの魔族は、人の魔力を糧にする寄生的な存在です。契約と称して人間に取り入り、魔力を吸い取る。だが、その代わりに魔族の力――たとえば異常な耐久力や、特定の魔術を提供することもある。この男の場合……」

 

 シードはリッシュの無駄に頑丈そうな体を一瞥し、鼻で笑うように言った。

 

「どうやら防御力だけは一級品らしい。神の拳と僕の魔術をまともに食らって、まだ喋っているのですから」

 

 ゼオラシュトが扇子をパタパタと振って笑う。

 

「ふふん、確かにしぶといわね、この子。で、どうする? こんなスケベ魔族、契約する価値あるかしら?」

 

 リッシュは慌ててセラの足元に這うようにしてすがりつく。鎮火した彼の肉体には、薄く焦げ目がついているだけで、致命傷には至っていない。

 

「頼むよ、何ならそっちの兄ちゃんでもいい! ほら、さっきの炎だって耐えたろ?  敵の攻撃からアンタを守れる!」

 

 セラは困り果てた表情でシードとゼオラシュトを見比べる。

 

「……でも、なんか怪しいし……それに、さっきのことも……!」

 

 顔を赤らめながら、胸元をぎゅっと押さえる。リッシュは即座に土下座の姿勢に。

 

「悪かった! あれは意識朦朧としてただけだ! 二度とやらねえ、魔王様に誓って!」

 

「うぅ……シード、どうしたらいいと思いますか?」

 

 セラに問われたシードは、淡々とした表情でリッシュを見下ろした。


「……契約とは、単なる口約束ではありません。魔力と存在を相互に固定する行為です。魔族側の精神と器が未熟であれば――」


 シードは言葉を選ぶように、一拍置く。


「――名の共有や、力の流入に耐えきれず、暴走や逆流といった事故が起こり得ます」

 

「アラぁ……」


 ゼオラシュトがはっとして扇子で口元を隠した。


「兄ちゃん、シードって言うのか。オレはリッシュってんだ。アンタ、かなり強いだろ。どう、オレと――」


 リッシュが何気なく口にしたその名が、空気を裂いた。


 ――ビキィッ。


 見えない稲妻がリッシュの身体を貫き、魔力が激しく逆流する。リッシュの瞳が見開かれ、身体が勝手にのけぞった。


「っ……!? な、なにこれ……!」


 セラが青ざめ、シードが振り向くより早く、リッシュの胸元から漆黒の紋が浮かび上がった。


『契約条件成立――主従紐帯、強制起動』


 リッシュの口から冷たい声が響き、周囲が一瞬だけ歪んだ。

 彼の焦点は定まっていない。ただ「無意識に契約が行われた」のだ。

 

 シードから押し寄せた膨大な魔力が、リッシュを経由し、契約先であるシードに一気に流れ込んだ。

 

 強大な「魔力の逆流」に、生身の人間が耐えられるはずもなかった。


「っ……!」


 魔力が暴走する。

 身体の輪郭が乱れ、光が漏れ始める。


「シード!!」


 セラが駆け寄ったが、手を伸ばすより早く、彼の身体が限界を迎えた。

 シードの膝が折れ、胸を押さえて苦しげに息を詰まらせる。


「ちょ、ちょっと待て! なんで兄ちゃんの方に……!」


 リッシュが叫んだが、もう止められなかった。


 シードの口元から赤い滴が落ち、鮮やかな血が溢れる。


「どうして……シード!!」


 セラが駆け寄るより早く、シードの身体が前のめりに崩れた。

 地面に倒れた拍子に、さらに深く咳き込み、鮮血が砂漠の砂に染み込んでいく。


「はっ……はぁ……っ……く……」


 彼の呼吸は浅く、意識が遠のいていく。

 リッシュは蒼白になり、震える声で呟いた。


「お、オレが……やっちまったのか……?」


 セラは泣きそうな声でシードの肩を抱き起こした。


「シード! ……お父様……! お願い、返事して……!」


 だが、シードの瞳は虚ろに揺れ、焦点が合わない。


「……オレ……殺した……?」

 

 リッシュは力無くへたり込み、セラの手は震えていた。


「そんな……なんで……!」


 呆然と立ち尽くしていると――


 パチ、パチ、とゼオラシュトが扇子を鳴らした。


「はい、残念でした〜。失敗☆」


 いつもより三割ほど楽しそうな声。


「危険よねぇ……この子、何者かによって強制契約の術を施されていたのね。ほら、魔族の名前ルールって、常識じゃない? シードちゃんの名前を言っちゃったセラちゃん、うっかりだったわねェ♡」


 セラが怒りで顔を歪める。


「ゼオラシュト! 笑ってる場合じゃ――!」

 

 セラが泣きそうな声でシードの名を呼び続ける横で、ゼオラシュトは静かに近づいてきた。


 先程までの軽さも、茶化すような声音もなかった。


 彼はしゃがみ込み、倒れ伏したシードの身体へそっと手を伸ばす。

 まるで、壊れやすい宝物に触れるかのような慎重さだった。


「……シードちゃん」


 小さく囁くと、ゼオラシュトは彼を腕の中へゆっくり抱き起こした。


 その動作は信じられないほど優しかった。

 普段の毒舌や軽薄さが嘘のように、指先が震えていた。


 シードの唇の端からこぼれた血が、ゼオラシュトの手の甲に落ちる。


 彼は黙って、自分の指でその血を拭った。

 愛おしく、まるで寝ている幼子の頬を拭うように。


「……相変わらず。人間のアナタは、本当に……脆いわねぇ」


 その声は、笑いとも泣きともつかない、どこかひび割れた音で。


 ゼオラシュトはシードの前髪をそっと払って、顔を確かめる。

 閉じた瞳は静かで、微かに温もりだけが残っていた。


 彼は眉を寄せ、呼吸を整えるように深く息を吸った。


「ねえ、アナタは誰よりも強くて……壊れやすいの。だからね、守ってあげる誰かが必要なのよ」


 ぽつりと零れたその言葉は、怒りでも呆れでもなく――ただただ哀しみに満ちていた。


 セラが震える声で言った。


「ゼオラシュト……?」

 

 ――知らなかった、このひとがこんな顔をするなんて。


 ゼオラシュトは返事をしない。

 ただ、シードの血を拭い続けながら、抱きしめる腕に少しだけ力を込めた。


 その仕草は、誰よりも深く「彼を悼んでいるようだった」。


「は〜い、辛気臭いのは終わり。じゃあ巻き戻すわよォン。今の時間軸、バッドエンドなのでェ〜」

 

 立ち上がった長身から、唐突に愉しげな声が漏れる。


「時間軸……?」


 リッシュが聞き返す間もなく、ゼオラシュトは扇子を鳴らした。


 ――ぱちん。


 世界が白く反転する。

 その瞬間、大地が解けた。音が逆流し、景色が巻き戻っていく。



 炎、声、風、光――

 全てが渦を巻き、ひとつの点へと吸い込まれる。


 最後にゼオラシュトの明るい声だけが残った。


『セーブポイントまで戻りま〜す♡セラちゃん、今度は気をつけてねぇ?』


 光が消え、再び場面が開いた時――

 

 セラの前には、まだ生きているシードと、リッシュの姿があった。


 まるで何も起こらなかったかのように。ただのゲームのように。

 

(……)

 

 けれど、セラの耳には確かに先ほどの音が残っていた。

 

 地面に滴る、濡れた音も。

 浅くなった呼吸音も。

 抱き起こせなかった思いも――。

 

 世界は何事もなかったように続いているのに、セラの心臓は痛いほど強く脈打っていた。


 ゼオラシュトは扇子をひらひらさせて、くすくすと笑っているだけだった。

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【時を紡ぐ軌跡】〜女神の子と死霊術師とオネエ神、奇跡の珍道中〜 えびふぉねら(鬱) @ebifuneral

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