揺らぐ顔(ショートショート)

雨光

定まらない世界

私は、物事の輪郭が、はっきりと定まっている世界を好んだ。


しかし、近頃の世の中は、あらゆる境界線を、まるでそれが悪であるかのように、喜び勇んで溶かそうとしている。


多様性。


その言葉が、美しい呪文のように、街の隅々にまで響き渡っていた。


その変化に、私が最初に気づいたのは、朝の通勤電車の中であった。


ふと顔を上げた私の目に、向かいの席に座る女の顔が映る。


その、化粧に彩られた目や鼻や口の配置が、僅かに、しかし、絶えず、揺らいでいるのだ。


まるで、水面に映った月のように、その輪郭は、一瞬たりとも、定まることがない。


初めは、疲労が見せる幻覚だと思った。


だが、その現象は、インクの染みのように、日を追うごとに、世界へと広がっていった。会社の同僚の顔も、行きつけの喫茶店の主人の顔も、もはや、昨日と同じ形を保ってはいない。


ある瞬間には男のようであり、次の瞬間には女のようであり、またある時には、見知らぬ老人の深い皺が、そこに現れては消える。


異常なのは、この世界か、私か。


恐ろしいことに、その変化に気づいているのは、どうやら、私一人だけのようであった。


人々は、互いの、常に変容し続ける顔を、ごく自然に受け入れているのだ。彼らは、にこやかに、混じり合った声で語り合う。


「素晴らしいですね。誰もが、何者にもなれる」

「固定観念こそが、不自由の始まりだったのですね」


その声もまた、男とも女とも、老若いずれともつかぬ、奇妙なハーモニーを奏でていた。


私は、自室に閉じこもった。


鏡を見るのが、怖い。


私の顔もまた、あの、不定形の、甘い腐敗に侵されているのではないか。


唯一の救いは、古いアルバムに収められた、今は亡き両親の、はっきりと定まった顔であった。


幾度となく見返した、確固とした写真。これこそが、私が信じる「美」の形だった。


しかし、その夜。


私が、アルバムの中の母の頬に、そっと指で触れた、その瞬間。


印画紙の上の、あの優しい微笑みが、水に滲むように、ゆっくりと、溶け始めた。


輪郭が、揺らぎ始めた。


「違う、やめろ……」


私の口から、呻き声が漏れた。

その時、背後で、静かな声がした。


「何が、違うのですか?」


振り返ると、恋人が立っていた。


彼女の顔もまた、私が愛したはずの美しい女の顔と、見知らぬ男の冷たい顔と、無垢な子供の無表情との間を、ゆらり、ゆらりと、行き来している。


その、無数の顔を明滅させる「それ」は、私に向かって、にこりと、微笑んだ。


「あなたも、私たちのようになるのですよ。それが、自然なことなのですから」


「それ」は、そっと、私の頬に手を伸ばしてきた。


その指先が、私の皮膚に触れた瞬間、自分の顔の肉が、まるで柔らかな粘土のように、ぐにゃり、と歪む、官能的な感覚がした。


私は、悲鳴を上げようとした。


しかし、私の喉から漏れ出たのは、男とも女ともつかない、私のものではない、複数の声が混じり合ったような、奇妙に、そして、うっとりとするほどに、美しいハーモニーであった。

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揺らぐ顔(ショートショート) 雨光 @yuko718

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