しばらく放置してた、小説(タイトルのやつ)をまた書いています。
これは、昔の中学受験の思い出を描いた作品です。(フィクションです)
あの中学受験という巨大なシステムは、一体何だったんだろうか、と。
小学四年生から六年生までの三年間。
人生で最も無邪気でいられるはずのあの時間を、俺は、塾の蛍光灯の下で過ごした。
大好きだったサッカーボールは「あなたのため」という、あまりにも強固で、反論の余地のない大人の論理によって取り上げられた。
「いい学校に行けば、いい会社に入れる」
その先にあるはずの幸福の具体的な中身までは、誰も教えてくれなかったけれど。
誤解しないでほしいのは、別に中学受験そのものを否定したいわけじゃない。
ただ、あの競争のレールからドロップアウトした人間には、独特の、なんというか、雨の日にうずく古傷のようなものが残るという話です。
例えるなら、運動神経が壊滅的な少年を、地元の和気あいあいとしたスポーツ少年団ではなく、いきなりプロ養成レベルのガチガチのクラブチームに放り込むようなものだ。
こっちはただ、健康維持程度に楽しくボールを蹴って、終わった後に冷えたスポーツドリンクが飲めればそれで十分だったのに。
身の丈に合わないフィールドに放り込まれる事への苦痛。
あれは明らかな「カテゴリーエラー」だったと、今なら言葉にできる。
その答え合わせは、高校の授業中に唐突に訪れた。
数学の時間、たしか数列か何かをやっていた時だ。
黒板に書かれた数式をぼんやり眺めていたら、奇妙な既視感に襲われた。
「あれ、これ、どこかで見たことがあるぞ」と。
記憶の糸を手繰り寄せると、それは小学六年生の夏期講習の記憶と繋がった。
高校生になった時、ようやく理屈で理解できるような概念を、ランドセルを背負った十二歳の子供が感覚で理解できるわけがない。
その時、妙に腑に落ちたのだ。
「ああ、俺は無理な戦場に立たされていたんだな」と。
自分のスペックと、求められていたOSのバージョンが、決定的にズレていただけなんだ、と。
だから今でも、テレビなんかで「出身中学:〇〇(超難関校)」なんていうテロップを見ると、嫉妬なんて感情は一ミリも湧かない。
ただただ、「こいつ、エグいな」と、畏怖に近い尊敬を抱いてしまう。
あんな理不尽で高度なジャングルを、あの年齢でサバイブしてきた人間たち。
彼らは俺とは違う種類の生物なのだ。
そうやって他人を尊敬しつつ、同時に当時の胸の苦しさを少しだけ思い出してしまうあたり、やっぱり俺も、あの日々の呪縛から完全には逃れられていないのかもしれない。
この小説は、中学受験という古傷の答え合わせをしてるのかもしれないです。
はい。