第6話


(おかしいわ……)


 張春華ちょうしゅんかは【月天宮げってんきゅう】にやって来た。


 司馬懿しばいの私邸が留守だった。

 彼は遠征に発ったのだからそれは当然なのだが、残ると思っていた弟の司馬孚しばふもいない。

 

 司馬懿が出発した頃合いを見計らい、陸佳珠りくかじゅを迎えに来たというのに。


 張春華が放った刺客は勿論、正体を暴かれるのを見越した程度の力量だ。

 彼女は陸佳珠ではなく、司馬懿に物を言ったのである。

 力量は見極めたが、もしあの女を攫えるならば攫えとは命じた。

 

 そういう意味では、本気である。


 自分を怒らせたら本気でお前の側室を殺してやると、示した。

 ついでに陸佳珠の力量も確かめられたら一石二鳥だとは思ったのだが、それは横槍が入ったようだ。

 

 司馬懿がいかに悠然と構えていようと女の方は、暴漢に狙われたらすっかり怯えているだろうと思い、これでちょう家に呼び出してせいぜい不気味なほど大切に扱ってやり、自分を敬わなければ恐ろしいことになるのだとこの一冬のうちに、しっかりと教え込んでやろうと思っていたのに。


 司馬懿は本当に【月天宮】に陸佳珠を預けたらしい。


(まったく……本当に、どこまでも忌々しい男だわ)


 確かにいとも簡単に自分の手のひらの上に乗って踊るような男は興醒めだけれど、何もこんなに何もかも反抗的になれとは思っていない。



春華しゅんか殿?」



曹娟そうけん殿」


 笑顔で振り返ると、曹娟がやって来た。

 陸佳珠りくかじゅと一緒かと思ったが、見慣れない娘を連れている。


「丁度良かったです。貴方に文を預かっていたのです」

「まあ。奥方さまですか?」

「いえ。司馬懿殿からです」

仲達ちゅうたつ殿から? まあ……曹娟殿に預けるなんて、失礼な……申し訳ありません。あの方、そういう気遣いが本当になくて……。

 佳珠殿に会いに来たのですけれど……いらっしゃいますか? 仲達殿からこちらだと」


「佳珠様はしばらくこちらにはお越しになられません。とっくに司馬懿殿からお話があったかと……もしかしたらその文に書かれているのかもしれませんわ。申し訳ありません。すぐにお渡しせず。こちらに貴方がいらっしゃった時に渡してほしいと頼まれたものですから」


「そうですか……いえ、構わないのです。あの……そちらの方は……新しい……?」


「こちらは瑠璃るり殿と言われます。

 郭嘉かくか様の妹君です」


「まあ。あの郭嘉様の。なるほど。道理で美しいこと。

 これは大変失礼致しました。私は張春華と申します」


「瑠璃と申します」


「兄君がお留守の間、こちらで宮廷などの経験を積むことに」

「それは素晴らしい経験になりますわね」

 春華は微笑んだ。


 郭嘉の妹なら、司馬懿とは無関係だ。

 郭嘉の妹を娶るほど、あの男は迂闊でも脳天気でも可愛くもない。

 こういう女は放っておけばいい。


 文を開き、読んだ。


 そこには自分の留守中佳珠に何もないように、安全な場所へ行かせた為、以前からお前が言っていた気遣いは不要だということが書かれていた。

 

 無論、張春華ちょうしゅんかの企ては分かっているという空気も明らかに滲ませてあった。

 曹娟の前でなかったら、その文をこの場でズタズタに裂いてやりたい所である。

 それくらい腹の立つ文だった。


 司馬懿が女のためにそんな気を回すなど、初めてのことだ。

 女同士の諍いなど、全く興味を示さない男のはずなのに。


(そう……本気なのね。仲達ちゅうたつ殿)


 本気で陸佳珠を正妻にしようとしているのだ。あの男は。

 嫉妬深い側室から、自分の正妻になるべき女を隠して守ろうというわけだ。


 ……昔からあの男はいい度胸をしていた。


 大概の男など、張春華の女ながらの知性と冷静さと豪胆さに、自分の方が早々に分が悪くなるというのに、司馬懿だけは昔から張春華を他の女と同じ扱いしかしない。


 つまり女のくせに男に混ざって勉学をし、知恵をつければ男などどうとでも出来る、そういう生意気な顔をするなという扱いだ。


 張春華の周囲では、

 司馬懿しばいだけが昔からそうだった。


 あまりに女を毛嫌いし淡泊なので、女を恋い慕い大切にするという感覚が欠落してるのだと思い込んでいた。

 だが――これで、そうではないことが判明したわけだ。


(気に入った女には、あの男でも情を向けるのだ。

 危険があるならば遠ざけてやりたいなどとも考えるらしい)


 ……なんて忌々しい。 


「ありがとうございます。長く留守にしそうなので佳珠殿が何か困っていたら力になってやってくれと図々しくも書いてありましたわ。

 急に押しかけて、失礼と存じますので私、今日はこれで」


 二人に会釈をし、背を向けて去って行った張春華を見て瑠璃が口を開いた。


「なにか悪い文だったのでしょうか? 読まれた瞬間とても怖い顔をされましたわ」 

 

 曹娟そうけんは司馬懿から、張春華が何をしたのかすでに聞いている。

 

 何も知らないふりをしていればいいと言われているのだ。

 そうするつもりだった。

 嫉妬に狂って刺客を放つとは、あの女も見かけほど聡明ではないらしいと今回のことに関しては非常に曹娟は、張春華に失望していた。

 余計なことを甄宓しんふつの耳には入れたくないのでこの件は今は黙っているが、甄宓がもし何かを感じ取ってこれについて問いかけてくるようなことがあれば、隠さず全部話してやろうと思っている。


「さすがは郭嘉殿の妹君。瑠璃殿はなかなか鋭いですね」

「えっ?」

「安心なさって下さい。涼州遠征のことは、あの方は全く無関係です。

 今の文は女同士のことですから」


「あ……はい。わかりました。

 曹娟そうけんさま……あの、本当にありがとうございます。郭嘉様が仰ったこととはいえ、私は本来このような場所にいる身分の者ではありませんのに、側に置いて下さって……」


 曹娟は小さく笑んだ。


「良いのです。それに私も涼州遠征には、無事に戻って来ていただきたい方がおられますから、祈りは瑠璃殿と同じです」


 瑠璃はそれを聞いて、安心したような顔を見せた。


「ありがとうございます」

「郭嘉様たちがご無事でお戻りになるよう、願い、信じましょう」

「はい」


◇    ◇    ◇


 張春華は月天宮から十分遠ざかると、手の中の文を細かくちぎって、宙に放ってやった。

 風が攫い、花のように紙片が飛んでいく。



「いいわ。仲達ちゅうたつさん。

 貴方がやる気なら私も受けて立つわよ。

 貴方が隠した大切な大切な宝物を、私が見つけ出して、始末してやるわ。

 貴方が涼州りょうしゅうで戦をしているうちにね。

 私はこっちで戦をしてやる。

 貴方が例え涼州遠征を立派にこなして凱旋されても、決してあの女の胸になんか帰らせないわよ。

 この張春華ちょうしゅんかを怒らせたこと、死ぬほど後悔させてやる。

 見ていなさい」



 ふん、と首を反らすと彼女は強く、歩き出した。




【終】

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