最終話 私たちのグラフィティ

 光が収まった時、私たちは、確かに元の研究所に立っていた。だが、そこはもう、私の知るどの世界でもなかった。


 壁のコンクリートは、その半分が滑らかなガラス質に変容し、床の埃の上には、ホログラムのような広告が明滅している。窓の外、錆びついた電波塔の向こうには、あるはずのない、天を突くような超高層ビルが、蜃気楼のようにうっすらと透けて見えていた。


「……世界が、重なってる……」


 アキラが、呆然と呟く。


 統制局の男たちは、なすすべもなく立ち尽くしていた。彼らが守ろうとした世界の輪郭は、目の前で溶け、混じり合い、まったく新しい景色を描き出していたからだ。


 その、世界の歪みの中心、光が最も強く乱反射している空間から、二人の人影が、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。


 一人は、アキラのノートPCに残された写真で見た、彼の父親、相葉誠一郎その人だった。


 そして、もう一人。その姿を認めた瞬間、私の目から、涙が溢れた。


「……お父さん」


 いつも海外出張で家にいなかった、私の父親だった。


「美月」


 父は、今までに見たことのない、悲しそうで、それでいて安堵したような、複雑な顔で私を見ていた。


「……すまなかった。ずっと、お前に嘘をついていて」


 すべての真相が、そこで語られた。


 私の父は、もともとアキラの父と同じ、桐山研究所の研究員だったこと。そして、彼は「向こう側」の世界から、調査のためにやってきた人間だったこと。


 私が幼い頃、偶然にも強すぎる世界間干渉を浴び、「第一次汚染体」となった時、二人の父親は決断を迫られた。アキラの父は、世界の歪みを調査するため「向こう側」に残り、私の父は、娘の暴走する記憶を封じ込め、この「保護」された世界で育てることを選んだ。


 『彼女を巻き込んではならない』。それは、アキラの父から私の父へ宛てた、親友としての悲痛なメッセージだったのだ。


 世界の壁が壊れた今、二人の父親は、時空を超えて再会を果たした。そして、アキラも、探し続けた父親の腕の中にいた。長い旅が、ようやく終わったのだ。


 季節は流れ、冬になった。


 あの『大接続』の日から数ヶ月。世界は、奇妙な安定を取り戻しつつあった。


 いや、安定ではない。それは、混沌を受け入れた、新しい日常の始まりだった。


「ねえ美月、この『スタンプ』ってやつ、超可愛くない? でもさ、やっぱり気持ちを伝えるなら、デコメのほうが気合い入るよねー」


 教室で、友人の早苗が、私の知らない薄型の端末――『iPhone 3GS』とかいう名前らしい――を器用に操りながら言った。彼女の記憶は、デコメールを知る「こちら側」と、スタンプを送るアプリを知る「向こう側」が、ごく自然に同居している。


 街を歩けば、着物を着た女性がスターバックスのカップを片手に歩き、神社の鳥居の隣には、Apple Storeのガラス張りの店舗が建っている。mixiもあればTwitterもあり、人々は必要に応じて、あるいは気分で、二つのSNSを使い分けている。


 世界は、どちらか一方に塗り替えられたのではない。無数の文化や価値観が混じり合う、巨大な落書きグラフィティのように、雑然と、しかし力強く変貌したのだ。


 私たちは、この新しい世界を『平成グラフィティ』と、密かに呼んでいた。


「これから、どうなるんだろうな」


 放課後、二人で並んで歩く帰り道。アキラが、少しだけ面白そうに言った。


「退屈はしないんじゃない? きっと」


 私は笑って答えた。


 私の手の中には、最新の『情報端末』があった。それは、折りたたみ式でありながら、全面がタッチパネルになっている、二つの世界の技術が融合したような不思議な機械だ。


 私はそれを空にかざし、シャッターを切った。


 そこにはもう、世界を隔てるノイズはない。あるのは、少し騒がしくて、少し不便で、けれど無限の可能性に満ちた、どこまでも広がる私たちの空だ。


 私たちは、もう世界の歪みに怯える共犯者ではない。


 この新しい日常を共に歩む、ただの高校生だ。

 そして私は、二つの平成を知る、ただ一人の女の子。


 バグではなく、二つの世界を繋ぐ、最初の翻訳者。


 私の物語は、終わった。そして、私たちの物語が今、ここから始まる。


 この、奇妙で愛おしい、まだ誰も知らない『平成グラフィティ』の世界で。

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パラレル・平成・グラフィティ 火之元 ノヒト @tata369

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