第9話 接続

 私の名前が記されたカルテが、懐中電灯の光に白く浮かび上がる。


 私が、鍵。私が、バグ。


 その事実が、雷のように私を貫いた。今まで感じていた世界の違和感、私だけが視ていたノイズ、そして私の中にだけあった「向こう側」の記憶の断片。全てが、この一点に繋がっていた。


「……どういうことだ」


 アキラが、呆然と私とカルテを交互に見ている。

「親父は、お前を……」


「『保護』したんだよ」


 私は、自分でも驚くほど、落ち着いた声で言った。流れ込んできた記憶が、パズルのピースを埋めていく。


「私は、もともと『向こう側』の人間だったのかもしれない。あるいは、この世界で生まれながら、強すぎる干渉を受けて、記憶が汚染された……。アキラくんのお父さんは、その汚染された記憶を封じ込めて、この世界で普通に生きていけるように、私を『保護』してくれたんだ」


 父と母の、どこか不自然だった振る舞いの理由。私にだけ甘く、私の過去を曖昧に語る理由。彼らは、すべてを知っていたのだ。


 その時だった。


 建物の外から、複数の車のエンジン音が響き渡った。そして、重いブーツで地面を踏みしめる音が、いくつも聞こえてくる。


 アキラがハッとして窓の外を窺う。森の暗闇の中に、無数の閃光が揺れていた。懐中電灯の光だ。私たちは、完全に包囲されていた。


「……統制局か!」


 アキラが舌打ちし、私の腕を掴んだ。


「逃げるぞ! 裏口から!」


 だが、遅かった。


 私たちがいた部屋のドアが、凄まじい音を立てて蹴破られる。なだれ込んできたのは、黒い戦闘服に身を包んだ男たちだった。彼らは無言のまま、私たちに黒い銃口のようなものを向ける。それは、実弾を撃つためのものではない。もっと冷たく、そして非人間的な何かを「無力化」するための装置だと、直感で分かった。


 男たちの中から、一人、スーツ姿の男が静かに歩み出てきた。冷徹な、ガラス玉のような目をした男だった。


「相葉アキラくん、そして……星野美月さん。いや、『第一次汚染体プライマリ・コンタミナント』と呼ぶべきかな」


 男は、私たちを観察するように言った。


「君たちのおかげで、ようやくこの『巣』の場所が特定できた。感謝するよ」


 アキラが、私を庇うように前に立つ。


「彼女に手を出すな」


 男は、歪んだ笑みを浮かべた。


「手を出す? 逆だよ。我々は、君を『保護』する。これ以上、君というバグが、この世界の静寂を乱さないように、丁重に、そして永久にね。君の存在そのものが、世界の壁を内側から腐らせる病原菌なのだから」


 男が手を挙げた瞬間、黒服の隊員たちが一斉に私たちに迫る。


 もう逃げられない。


 恐怖で身体が竦んだ、その時だった。


 ――キィィィィィン!!


 部屋全体が、凄まじい高周波の音に包まれた。耳を劈くような音に、誰もが顔をしかめて身をかがめる。


 そして、部屋が、瞬き始めた。


 廃墟の姿と、清潔だった頃の研究所の姿が、激しいフラッシュのように、交互に現れては消える。壁が透け、床が揺らぎ、世界の境界線が悲鳴を上げている。


「なっ……なんだこれは! 干渉レベルが、計測不能!」


 隊員の一人が叫ぶ。


 アキラは、目を見開いて私を見ていた。


「美月……お前が……?」


 私じゃない。けれど、私の奥深くにある何かが、この状況に呼応している。


 アキラの父親が遺した言葉が、頭の中で響く。


『塔は"出口"であり、"入口"は別にある』


 そうだ。ここは、ただの研究所じゃない。


 私の記憶が『鍵』となり、私の存在が『触媒』となって起動する、世界と世界を繋ぐための『入口』。


「まずい……! 彼女を止めろ! 記憶を初期化する!」


 スーツの男が叫び、隊員の一人が私に銃口を向ける。その先端が、青白い光を放ち始めた。


 その光を見た瞬間、私の頭の中で、最後のパズルがはまった。


 『保護』か、『接続』か。


 アキラの父親が悩み、そしてこの国が選んだ道。


 私を『保護』し、この静かで穏やかな、少しだけ窮屈な世界を維持するのか。


 それとも――。


 私は、目を閉じた。そして、思い描く。


 YouTubeの混沌。Twitterの喧騒。世界中の人々の声が、リアルタイムで飛び交う、あの猥雑で、活気に満ちた世界。


 私が、本来いるはずだった場所。


 失われた可能性。統制された静寂。


 どちらが、正しい? 分からない。


 でも、選ぶのは私だ。


「やめろ!」


 アキラが、私を庇って飛び出す。


 青白い光が、銃口から放たれる。その光が私に届くよりも早く、私は目を開き、そして叫んだ。


「――接続コネクト!!」


 世界が、白く染まった。


 轟音と共に、床が、壁が、天井が、光の粒子となって霧散していく。廃墟も、研究所も、森も、黒服の男たちも、全てが光の中に溶けていく。


 私の身体は、まるで重力がなくなったかのように、ゆっくりと宙に浮いていた。


 目の前には、アキラが驚愕の表情でこちらを見ている。


 そして、私たちの周りには、二つの世界の光景が、巨大なモザイク画のように混じり合っていた。


 折りたたみ式の情ケーを持つ女子高生の群れと、薄い板状のスマートフォンを操る人々の群れが、半透明になって重なり合う。


 国産車が走る見慣れた道路の向こうに、テスラやヒュンダイのロゴをつけた、知らないデザインの車が透けて見える。


 いきものがかりの歌声と、レディー・ガガのダンスミュージックが、不協和音を奏でながら一つに溶け合っていく。


 世界の壁が、崩壊した。私が、それを壊したんだ。


 これから、この世界はどうなるのだろう。混乱か、進化か、あるいは拒絶反応による消滅か。分からない。


 ただ、もう、あの静かで穏やかな平成には、二度と戻れないことだけは確かだった。


 光の中で、私はそっとアキラの手を握った。

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