Remember the promise
冷田かるぼ
赤線
苦しみを過去に依存しがちな僕は、いつだって足元ばかり見て歩いている。ほら、またコンクリートに干からびたミミズ。今日で三匹目だ。目が合ったような気がして立ち止まってしまう。この暑いのに、子孫を残すためなんて高尚な理由で賭けに出て死ぬんだな、きみらは。哀れだなあ。次はきみらをモチーフに小説を書いてみようか。なんて。僕の右手が握りしめている買い物袋だってそうだ、生きるためだなんて高尚な理由で灼熱に耐えている僕らは哀れでないと言えるかな?
徒歩、再開。もうすこし眺めていたかったが、この気温では冷凍食品がとけてしまう。僕の命綱。早く帰らなきゃレジ袋の中がべちゃべちゃにな、
「いった」
がつん。無駄な思考を回す頭に、直接音が響いた。痛みのあまり瞑ってしまった目、開けて衝撃のもとを探すと、電柱。足元しか見ていないからよくこうなる。誰も見ていないといいけど、というのは帰宅ラッシュの時間帯には酷な願いである。
どこからかくすくすと笑い声が聞こえた。音のした方を振り向くと、すぐ近くで女子高生が数人群れているようだった。ああ、運が悪い。気分も。
「馬鹿みたい」
彼女らの誰かがまた笑って、ギャハハ、と下品な声が伝播していく。僕は相変わらず足元を見ている。だから、彼女らの首から下だけが視界に映る。薄い水色のセーラー服。ごわごわしているであろうスカートの生地が風に吹かれて、ふわりふわりと靡いている。目のやり場に困った。ので、目線を少々持ち上げる。そこで初めて彼女らの顔が見えたのだけれど、その中の一人が――僕の持つ語彙では形容できないほどに、美しかった。
彼女だけが僕を笑っていなかった。ただ、その澄んだ瞳で僕を見ていた。だから、こう……いや、なんて言えばいい? こういう時は彼女のことをまるで天使だとか、悪魔だとか、女神だとか、そうやって描写すべきなのだろう。人智を超えた美。なんて言ってみたりして。気取った感じでその容姿を言い表して、小説家らしく高慢に彼女を審査する。
でも僕は単に――美しい人間だ、と思った。
それ以上は何も出てこなかった。
◇
小説を書くものとして、彼女の外見をただパーツの属性でしか言い表せないというのはあまりにもみっともないだろう。少し色素の薄い髪。はっきりとメイクをしているとは思えない、あっさりしていながらも整った顔。細い首、綺麗な鎖骨。夏服越しにわかるくびれ。数回折ったであろうスカートと、そこから覗くすらっとした白くて滑らかな脚。くるぶし丈のソックス。ああ、そういえば、耳にはピアス穴もあった……ような気もする。もしかしたらハーフやクォーターなのかもしれない。
と、エアコンの効いた部屋で思い返すのもまた情けないこと極まりない、そうだろう? そうですね。冬用の布団を仕舞えないまま、親負担の電気代でエアコンは二十四度。くるまっていたら僕は守られている気がする。世間とかいうやつから。
現実からは目を背け、天井をぼうっと眺めていると、ぼんやりした妄想が僕にのしかかってくる。その身体はちっとも重くなく、まるで毛布をさっとかけたみたいな温もりだけが広がってくる。心地いい。そこで、妄想の中の彼女と目が合った。色素の薄い、愛しい彼女――。
罪悪感が溢れ出てきて、思い切りかき消す。そもそも僕は、そんな、とか。しかしこの身体に残った微かな熱を思うと、どうしようもなく。――言い訳したって、しょうがないか。横寝して目を瞑った。意味もなく、涙が零れた。
逃れようのない憂鬱感にぎゅっとハグされて、布団の上でぐう、とかぐあ、とか呻きながら涙を流すような日々だ。いつの間にか大学には行けなくなって、昼夜逆転一日一食。
僕、なんでこうなったんだ?
正直なところよくわからない。高校生の頃はまあ模範生とは言わないが、サボったことは一度もなかった。大学なんてそんなものだよー(笑)とどのサイトを見ても宣っているので、僕は諦めた。諦めて大学に行くのではなく、大学に行くほうを諦めた。ふつうに後悔しているがもう動けない。生命活動に関わる動きしかできない。一日のほとんどを布団の上でくねくねしながら過ごしている、というやつだ。世のまともな大学生には冷笑されることだろう。
ふぐう。また、奇声。辛い。でも今日は、吐き気も動悸も、胃痛も、ひどくない。それならいっそ外に出て、夏の夜の空気でも吸ってやろう。それでめちゃくちゃ憂鬱になって、また涼しい部屋に帰って寝ればいい。布団からなんとか抜け出して、適当なTシャツとズボンを履く。エアコンはそのまま、サンダルをひっかけて玄関を飛び出した。
暗い川沿いを歩く。いっちに、さーんし。リズムに合わせて、行進のように歩いていく。砂が足指にまとわりつく。ざらざら、している。帰ったら足を洗わなきゃなと思う。そこでまた薄らと死にたくなったので、川沿いはもうやめた。細道に逸れて抜け出す。そうして歩いていると、外灯が何本も立っている場所に出た。
公園だった。
夜中の公園は静かでいい。真っ暗な中の外灯は、それこそ僕を導こうとする天使のようにきらきらと輝いていて、正直逆にウザいとさえ思った。暗闇でいい、別に。僕の人生は暗闇だ。真っ暗闇だ。木陰のじめじめした湿り気は僕にお似合いだ、声を出して笑ってやろうと思ったが、人の気配がした。
何となく感じた気配の方を見ると、セーラー服の少女が木に寄りかかっていた。今は深夜二時だ。その鮮やかな水色は群青を濃く煮詰めたみたいな夜に見合わない。どんな子なのかと見てみれば、昼間見た美少女だった。しかし、ぱっとその特徴だけを捉えただけでは気づかないだろう。僕がそれに気づいたのは、彼女の纏う独特の雰囲気からだった。
一体なんでこんな時間に、と、眼を凝らす。
「あれ、」
思わず声が漏れる。よく見ればその髪は、昼に見たような黒髪ではなかった。白。少し青っぽい、白だった。月の光をなめらかに溶かして、梳いたような色。闇夜のせいだろうか。それとも僕の幻覚か何かなのだろうか。そのスカートから覗く脚は不健康なほどに青白く、白靴下の方がよっぽどまともな色をしている。しばらくその姿を眺めていると、振り向いた蜜柑色の瞳が、僕を見た。
「へ」
思わず変な声が漏れる。僕を、見た? その目を細めて、まるで僕を視力検査用のランドルト環みたいにじろじろと。眺める。僕のどこに穴が空いているというのか。それでふと、彼女は納得したみたいに表情を戻して、言った。
「ああ、夕方の。ミミズの人」
「え?」
僕が聞き返すと、こてん、と首を傾げる。
「ミミズと話してた人」
電柱にぶつかった変な人、という認識ではなかったらしい。……じゃなくて、まさか、もしかして、あの時口に出ていた? あのくだり全て? 恥ずかしいと言うよりは情けない。僕ともあろう者がそんな馬鹿みたいな。なんて、大層な自意識を持っている訳では無いのだが、それはそれとしてかなり辛い気持ちなのは間違いない。辛い、だなんて一単語で苦しみを表現してしまうのもどうかとは思うが。
ともかく、僕は苦しんだ。だから苦し紛れに、彼女になにか言わなければ、と思った。
「き、みは。高校生なんじゃ、ないの」
だから、こんな夜中に公園にいるのはあんまりよろしくないんじゃ。という咎めを飲み込んで、繕いきれなかった掠れ声を一旦吐き出す。もしかしたらどうしようもない理由なんかがあって、家には帰れないのかもしれないし。もしそうだった場合だからなんだという話にはなってしまうが。そんな僕の苦し紛れに、彼女は表情を変えず、言った。
「高校生のふりしてるだけだよ」
そして、ゆらり、と腕を上げる。おおよそ四十五度。人差し指が夜空を指して、彼女は呟いた。
「私、あの星から来たの」
きらり、オレンジ色。月の近く、ちいさな星が彼女の指先で光っている。僕はそこをじっと見た。月よりずっと鋭い、ひかりが、僕の目に飛び込んでくる。痛くなって、彼女に目線を戻す。
「こっちで言う異星人ってやつ? 帰れなくなっちゃったから、高校生のふりしてる」
彼女はすたすたと歩いて、ブランコの方へ向かった。迷いなく。
「つまりあなたは、人間じゃない、ってこと」
「さあ。知らない。人間の定義を知らないから。少なくともここ生まれじゃない」
そう言いながら彼女は、ブランコの板に腰掛けた。最近では減ってきているタイプのブランコ。大半のブランコはチャイルドシートみたいな形になっているから、この公園は珍しい。
「ねぇ、ここの陽の光は眩しいよね」
きぃ、きぃ。揺れと共に軋む金具。しかし彼女の体重は、おそらく通常では考えられないほど軽いのだろう。揺れるブランコはまるで何も乗っていないかのように軽快で。
「でも月は綺麗。ここの人は『あいしている』って意味で言うんでしょ、なんだか面白いなあ」
彼女はけらけら笑った。ふわふわでもあった。にこにこ、とは少し違う。もふもふ、かもしれない。とにかく笑っていた。艶やかな唇の端を柔らかに上げながら。
あんな遠くにある月よりも、今ここにいるあなたの方が美しい、なんて言ってもよかった。よかったのに、僕の口からは何も出てこない。う、あ、と、うめき声になりそうな呼吸だけが蠢いていたので、ごくんと飲み下した。それの反動で、僕の口からあらぬものが零れた。
「美しいものは、人ではないのだろうかと、思うんだ」
「ん?」
彼女は首を傾げた。何処でその仕草を学んだのだろうか。世間一般で言う、あざとい仕草。首筋が描く曲線、の中の直線、白、赤、青、混ざったような肌色を僕は見ていた。美しい。
「人間で、美しい人というのはいないと思う。美しいものは皆、人間とは違うところにいるから。綺麗な人はいても、美しい人はいない。でもあなたは美しい。人じゃないからだ。月は美しい。やっぱり、人じゃないからだ」
ぎぃ、と、蝉の鳴く声がした。断末魔みたいな。
――早口で語っても、誰が聞くんだよ。相槌代わりの蝉の声で我に帰って、自分で自分がウザくなって、そこでようやく話をやめる。彼女はきょとんとした顔をしているし、ああもう全部失敗した。僕は思わず目を背け、「ふぅん」彼女が微笑む。僕は視界をゆっくりと動かす。少女に焦点を合わせる。
「ヘンなこと言うんだね、おにいさん」
目を細め、にぃっと笑って。どくん、と僕の中で音がした。彼女はブランコを降りた。その声に心臓が捻り潰されたかのようだった。彼女の言う『おにいさん』なんて呼び方は、僕が幼い頃見た幻想のような、甘い味をしている。そう、ソレは僕とほんの一つしか――学年が同じくせに誕生日が僕より少し早いというだけで――たったそれしか変わらないのに、年上を名乗るあの少女が放った冗談混じりの『おにいさん』のような、青春の酸味を帯びている。
「私はよくわかんないけど、それはおにいさんの価値観なんじゃないかなあ」
「そうかな」
「うん。だって人間も美しいと思うし」
彼女はブランコを止めた。
「具体的にどんなところが?」
「んー、寿命がほんの百年くらいしかないところかな」
百。さらっと放たれた言葉に、僕は黙った。
「死ななければ結構生きるらしいんだ、私たちって」
続けて「何百年くらいだっけか、何千年?」と呟く。スケールが違う。もし自分がそうなれば、僕は、それこそ自死を選ぶかもしれない。もしくはそれでも自死を選ぶ勇気はないかもしれない。あなたは、生きているのか? 何百年も。何千年も。僕らを置いて。
「じゃあ、早死にしたければ自分で死ぬしかないんだ」
「早死にしたいと思ったことなんてないよ」
「そう」
彼女はきょとんとしていた。自死なんて想定もしていないみたいだった。
「死にたい時があるの?」
「少なくとも僕は常にそうかな」
「ふぅん、やっぱりヘンなの」
ヘンなんかじゃないよ。だって、僕以外にもこんな人は沢山いるんだから。そう言おうとして、またやめた。そんなことを言ったって価値観が違うのだから、話は平行線だ。僕は空を眺めていた。まん丸い月。そのそばに、ちいさなオレンジ色の星がまだ光っている。
「ねぇ、ヘンなおにいさん」
彼女はブランコを降りて、僕を見た。それは僕の顔を覗き込むような動きだった。身長差およそ二十センチ。ふわりと揺れた髪の、夏草のような香り。僕はくらっとした。堕ちたと言ってもいい。そんな僕を見て、彼女は言った。
「私があそこに帰るの、手伝ってほしいなぁ」
上目遣いでにやりと笑んで。かわいらしい仕草で頼み込んでくるのを、断れるわけもなく。俺は思った。――きみが、好きだ。
◇
――あれは、高校生の時だった。彼女は、俺と同じ文芸部に所属していた。幼稚園児の頃から一緒にいる彼女のことは、気がつけば自然と好きになっていたし、気がつけば自然と付き合う流れになっていた。
ちょっとおてんばな幼なじみ、なんて創作的記号を持つ少女。まぁ少し気取った言い方をすると、彼女は俺のガールフレンドだった。即ち、恋人だった。言葉にするのは小っ恥ずかしいが、ちゃんと好きだった。ちゃんと。ちゃんとってなんだ?
「こーら、そこのおにいさん。サボらないの」
あの日もこっそりパズルゲームをしているのがバレて、こう。わかりやすくむすっとした顔をして注意する彼女は、あくまでも真面目さの延長線上にいて、決して本気で注意しているわけではないのだが。
「げ、バレた」
俺はわざとらしくささっとタブを消し、執筆画面に戻す。もちろん進捗はほとんど無いに等しい。
「ちゃんと書きなよ、締め切り近いんだから」
「わかってるって……」
パソコンを開きつつも、やっぱり原稿に手をつける気にはなれない。
そもそも俺は彼女と違って、小説を書くこと自体が好きなわけじゃなかった。俺が好きなのは、彼女に俺の書いた小説を読んでもらうことだった。 コンビニなんかで適当に印刷したそれを渡すと、いつも嬉しそうな顔をするから。
彼女が採点用に使われる赤ペンのキャップを、ぽん、と外し、くすくす笑いながら「ここ、描写に違和感があるね」なんて赤線を引くのが好きだった。だからわざと描写をおかしくしてみたりすることもあったが、彼女はそういうところをすぐに見抜く。そんなところも愛おしくて、俺はきみが好きだった。
それ、なのに。
「ねぇ、わたし、死にたいんだよね」
まるで、流行りのゲームに手を出す時のような。アレやってみようかな、みたいな。そんな軽い声色が俺の耳に飛び込んで、俺は、自分の耳がおかしくなったのかと思った。
「そうだ! わたしが死ぬのに失敗したら自分で小説にする。逆に成功したら、君がわたしのことを小説にするんだ。いい契約じゃない?」
ふふふ、と笑う彼女はやけにテンションが高い。くるくるとペンを回す細い手首を掴み、言った。
「意味が、わからないんだけど」
俺の言葉に、彼女は微笑んだまま首を傾げた。まるで何を言ってるの、とでも言いたそうな顔をして。それで、俺を慈しむような目で見て、言った。
「わたしが生きていることの方が意味わかんないよ」
それはある意味での諦めでもあって、俺は理解できても介入できない思考回路だったんだと思う。そのときようやく俺は彼女が本気だと分かって、でもどうしようもなくて、ただ口をぱくぱくして、観光客に餌を求める鯉のように、縋っていた。ふいと顔を背けた。
部室の窓からグラウンドを眺める彼女は、一体何を憂いていたのだろう。おそらくだが、今の俺のようになることだと思う。何者にもなれず、ただ辛い辛いと呟きながら時間を浪費する存在。何者にもなれないくらいなら死ぬよ。ずっと昔、彼女は言っていた。いや、もしかしたら言ってないかも。幻聴か妄想かも。知らんけど。って、今更笑い事になんかならない。のに。
「ねえ、別れようか」
その言葉だけは、確かに言ったのを覚えている。
「ああ、うん」
俺は頷いた。ちょっとどころかかなりショックを受けたが、理由はもうわかっていた。だから素直に受け入れた。たぶん、彼女はそろそろ死ぬ、こと。
そのあとすぐ、彼女は学校に来なくなった。高校は留年することになって、退学したらしい。こっそり見つけたTwitterアカウントで、彼女は精神に病を抱えているらしいと知った。それでも、俺はどうすることもできなかった。だってもう元彼なので。俺は。
ほんとうは、勇気が出なかっただけなのだが。
で、やっぱり彼女は、何者にもなれないなら死ぬんだと本当に言っていたらしい。Twitterの投稿で見た。幻聴でも妄想でもなかったが、嬉しくはなかった。
毎日彼女を見た。ちゃんと生きているか知りたくて。ツイートをいちいち、いいねはせずに、全て見ていた。
それで俺が大学に無事受かった頃、彼女が自殺未遂で入院したと知った。そして入学する頃、本当に死んだ。Twitterの存在は親も知っていて、はけ口になっているのなら、と放っておいていたらしい。その旨が投稿されて、彼女のアカウントはそれっきり静かになった。
日常も、文章も、病んだポエムみたいなものすら時が止まって、動かなくなってしまって。その時なんとなく、あの子は人間じゃなかったのだろうなと思った。じゃあ、なんだったんだろう、なんて。塔の中のお姫さまを俺は救えなかった。王子さまじゃなかったから。
なあ、それでさ。俺は見たんだ。死ぬ前に予約されてた最後のツイート、なんだったと思う? ――『わたしを小説にして』
◇
カスみたいな世界だ。
Twitterのお気持ち表明と、そこに寄って集る否定人間。別に個々人の思想なんて勝手にしていればいいのに。他人のことなんてどうでもいいだろ、僕たちは。社会全体の流れが変わりさえしなければ、さ。だから、あの子が死んだからって、どうして、その全てが否定されたのか。人格、親、友達、家族、そいつらに問題があったから死んだんだって。真偽不明の情報で殴る。
「あ、すごい顔してる。梅干しみたい」
彼女は僕を見て言った。至極、真面目な表情で。
「梅干しを食べた時、ではなく、梅干しそのもの?」
「うん」
「うーん」
複雑な気持ちだ。何かおかしいこと言った? とでも言いたげなオレンジ色の目が、僕を見ている。あなたはいつだっておかしいのに。あなたは僕と違う、人間の姿かたちをして、人間らしく息をした人外だというのに。俺もそっちに行きたかったよ。なんてあなたに言ったってしょうがないから、黙った。僕は何者にもなれない。きみよりずっと、何者にもなれない僕のままなんだ。彼女と初めて出会ってから、二週間が経っていた。その間の日々は、特に、何もない。空白。覚えていない。何をしたのかも。彼女が何を言ったのかも。
だから毎夜、こんな風に、不健全な夜ふかしをしている。どうしようもない隙間を埋めたくて。
「ね、そういえばね、私鍵見つけた」
「鍵?」
「うん。星に帰る鍵」
彼女はポケットからなにか、角のある水晶のようなものを取り出した。芯のあたりがぼやぼやと、光を受けてゆらめいている。
「それがあれば、帰れるのか」
「うん。これでお迎えを呼ぶの」
呼ぶ。そう、あくまで彼女は迎えに来てもらう立場なのだ。彼女は特別だから。人間ではないから。
「そう」
僕の返事はそれだけ。――だって僕は、結局彼女が帰るのに手助けも何もできなかった。僕は、無能だった。変わらず。いつまで経っても。ひかる水晶は、彼女の姿をより一層際立たせていた。人外の少女は、どこまでも美しい。まるで女神か何かのように。
「衣を得た天女みたいだな」
「ある意味ではそうだけど、ある意味ではかぐや姫の方が近いかもね」
彼女はぼうっと空を眺めながら、言った。その目線の先には、細い三日月。雲に隠れて見えなくなった。そこで、彼女は僕に視線を動かして笑った。
「お姫さまって柄じゃないよね、私。あは」
「そうでもないよ」
きみは俺のお姫さまだ。ずっと口付けることのできないお姫さま。手の届かない高嶺の花。でも、最後だけは。なんて、手を伸ばそうとして、ぱらり、と。雨粒を感じた。
「わ」
同じく気づいたらしい彼女の、小さな口から、歓声の欠片が漏れて。
「雨だ!」
それは、雨に濡れたひまわりのように爽やかな笑顔だった。思わず僕は動きを止めてしまった。ぱらぱらと降り出した雨は、途端に強まって、強まるたび、少女は嬉しそうに舞う。髪の先から、スカートの端から滴る雨粒が彼女のつくる紙吹雪のように見えた。「ねえ、おにいさんも!」手をひかれる。力のない腕に引っ張られることはできなくて、動くのはあくまで僕の身体。まるで子供みたいにくるくる回って、泥が跳ねて、正気を取り戻したときには、僕も完全にびっしょりと濡れてしまっていて。
「雨宿りするぞ」
「えー、今更」
「風邪引くだろ」
「引かないよー」
わがまま少女の細い腕を引いて、東屋に避難した。少女のセーラー服は濡れていた。透けにくい厚みのある生地。その中身のなさそうな身体に、じっとりと重く張り付いている。僕のTシャツもズボンも、雨で色が変わっていた。
「どうするんだ、制服」
「もう帰るんだからどうだっていいよ」
彼女は「でも雨のうちは帰れないなあ」と言った。どうやらにわか雨が彼女を繋ぎ止めてくれているらしい。屋根の下で、ただ、雨が上がるのを待っていた。外灯だけが僕たちを照らす、深夜。傘もない、木に雨のぶつかる音、少し遠くから、雨道を走る車の音。
「ほんとうに、帰るの?」
「うん。帰りたいもん」
「そっか」
止めたい。
今度は、止めたい。
でも僕には何もできないのだろう。本当に、何も。僕は弱いから、臆病だから。そうでなければならないから。伸ばしかけた手を何度も引っ込めて、ただ彼女を見つめて。
「なーんか、止みそうにないねぇ」
ゆるく笑う彼女の横顔は、やっぱり美しい。頭の中が空っぽになって、何も考えられなくなる、刹那。
「なあ、うちに、来ない」
ふと、溢れた。いやまずい、そんなこと言ったら、なんて理性が追いついた時にはもう遅く。彼女はその瞳をまんまるにしたあと、ふにゃりと微笑んだ。
「いいの?」
◇
雨に濡れた彼女を玄関先に待たせて、大急ぎで部屋を片付ける。僕だってびしょ濡れだが。ゴミ袋は仕方ないとして、ぐちゃぐちゃの衣服やら新聞やらをせめて端に寄せるなど。
「ねえ、もういい?」
「うわっ」
「わ、汚い」
彼女は部屋に足を踏み入れて、言った。そんなふうに言われると流石に辛い。僕は今までどれだけ怠惰な生活を送ってきたのだろうか、と、顔が熱くなる。仮にも彼女は女子高校生で、僕は男子大学生なわけで。スカートから滴る水滴がカーペットに落ちた。
「勝手に入ってくるのは、駄目だろ」
「えぇ、呼んだのはおにいさんなのに」
なんだか嬉しそうな少女を見ていると何を言う気も失せてしまった。もう、このままでいいや。部屋が濡れたってどうでもいい。
「ふふ、部屋、ぐっちゃぐちゃ」
「文句言わないでくれよ」
「文句じゃないよ。嬉しいの」
彼女は濡れたままのセーラー服で、床にぺたりと座った。僕の家のカーペットが濡れることなんて、気にもかけない。そういう雑さが少女にはあった。その上からかうように言う。
「たぶんおにいさんの部屋は汚いだろうなって思ってたから、合ってて嬉しい」
濡れた髪をかきあげながら、彼女はくすくす笑った。小っ恥ずかしくなって目を逸らす。まずはタオルだ。大きいのを二枚ほど取り出す。
「ねえねえ、私が片付けてあげる」
「その前に髪を乾かせ」
「えー、いいよ、めんどくさい」
「いいから、拭きな」
タオルを渡すと、彼女は渋々髪やスカートを拭きだした。僕もタオルで頭を拭いた。着替えを持ってこよう。彼女にも、着替えてもらった方がいいかもしれない。そう思って彼女に背を向け、タンスを漁る。しばらく彼女が着られそうな服を見繕っていると、とんとん、と、肩を叩かれた。振り向く。彼女が僕に、紙の束を差し出していた。
「ねぇ、これ」
赤線が引かれた、紙。彼女が書いたものではない。俺が、彼女を真似て、書いただけの小説。自分で赤線を引いただけの。何束も置かれている。彼女がいなくなってから、ずっと書き溜めてきたものだ。どこに出すこともできないような、駄文。息が詰まった。なんで、これを、棚の奥にしまっていたはずなのに。探した? 彼女が?
「これは、読んじゃダメだ」
だって中身はあの子と違って、ひどく稚拙なもの。テーマは、蜈蚣。蝶。彼岸花。死体。透明人間。そのどれもが彼女の生まれ変わりで、そのどれもが俺の届かない場所に行ってしまう。なあ、あなたも、そうなんだろ。だから、行かないでくれ。読まないで。俺の気持ちを知らないで。知った上で、いなくなるなんて、ひどいだろ。だから、どうか、知らないままで――
「もう読んだよ」
――彼女は、赤ペンを握っていた。水性の。採点用に、使うやつ。ああ、線を引かれる。俺の気持ちに、線を。引いて。全部。変えて。俺を。俺をきみの小説にして。きみは俺に微笑んだ。そしてそのペンを、俺の頬に沿わせて、するりと、顔に線を引く。そのまま、首まで。手を取って、手首から、二の腕まで、俺の全てに線を引く。そうして、訂正するんだ。きみの思い通りに。俺を臆病にする。情けなくする。ダメにする。きみじゃなきゃダメにする。もうとっくにダメなのに。俺はダメだ。ダメなんだよ。叫びたくなって、口元に線が引かれる。
「大丈夫」
薄い身体が、俺を抱きしめた。拒食気味の。睡眠不足の。俺の幼馴染によく似た身体。ずっとこうしたかった。でも冷たい。息を、しているのか? していないのか? それすらもわからない微かな肌の触れ合い。人間のものじゃない。柔らかい。だけれどどこまでも触れていない。空虚だ。空白だ。きみは生きていない。ここにいない。俺はひとりだ。ずっとひとりだ。これからずっときみのことを忘れて生きていくんだ、それは嫌だ。嫌だから行かないで。消えないで。どこにも。去らないで。死なないで。こきゅう。吸う。吸っているのは僕だけ。僕だけだ。吐けない。息が吸えない。吐けない。
「大丈夫だよ」
嘘つき。
酸欠になった身体には力が入らなくて、目を閉じる。彼女に抱きしめられて、暖かいような気がした。きっと気がしただけだった。
◇
ベランダに差し込む、薄らとした朝日。僕は、意識を失っていたみたいだった。僕の身体の上に、体重のない彼女が横たわっている。彼女は僕よりずっと早く目覚めていたようだった。僕の顔をしばらく見つめた後、そっと頬を撫でる。その指が冷たくて、思わず目を閉じた。
「お迎え、早いなぁ」
「え」
そこで、目をぱっと開ける。見ると、ぼやぼやひかるものが、ベランダに降り立っていた。それは大体バランスボールくらいの大きさで、人一人がなんとか乗れるほどの、何かであった。大きな蛍みたいだ。月からの、下僕のような。いや、彼女が帰りたがっているのは月ではないのだけれど。月よりもずっと遠くにある、彼女の楽園。オレンジ色に眩く光る彼女の故郷。
「もう、行くの」
「嫌なの?」
俺は黙った。嫌だよ。なんて駄々をこねる歳ではないから。俺はきみを見ていた。きみも俺を見ていた。それは、ただの少女の姿だった。俺のよく知る彼女だった、ような気もした。気がしただけな気もした。わからなかった。僕が何を見ているのかも。彼女は僕の身体から離れて、そっと一歩を踏み出した。
「仕方ないなぁ、また遊びに来てあげる。次は高校生じゃなくて、また別の姿で。気付いてね」
お願いだから、行かないで。情けない声を飲み込んだ。俺も連れて行って。そんな勇気は無い。だって俺は、他人だった。きみにどうこう言えるほど、俺は偉くなかった。黙って頷く。嬉しそうに微笑む彼女の姿が、少しずつ薄れていく。涙のせいか? 霞んでいるんだ、きみの全てが、その髪も顔も何もかもがこの世に溶けてしまったみたいにさ。きっと明日には思い出せなくなってしまう。人の記憶はあまりにも儚くて薄っぺらいものだから。なあ、ずるいよ。いなくならないで。なんて、もっと素直に言えたらよかったのになあ。手を振るついでに笑ってみたけど、乾き切った笑いしか出なかった。出なかったから、涙がこれ以上溢れないように、顔を上げる。
あかるくなった空に浮かんでいたのは、もう色褪せてしまった月だった。どこまでも遠く、そこにきみはいない。決して存在し得ない。ああ、だけれど綺麗だ、どこまでも。
きみがちゃんと、星にかえれていますように。
◇
――俺はパソコンを閉じる。相変わらず汚い部屋の中、そこだけが聖域のようになっていた。そこだけで、彼女に逢っていた。――のに、また、逢えなくなったな。吐いた息だけが暖かくて、自分が嫌になりそうだった。
「なあ、こんな感じで、満足?」
呟いても返事はない。この小説にあとがきは要るだろうか、やっぱり要らない? 不自然に空いた空白をバックスペースで消してゆく。
ああ、ちゃんと訊いておけばよかった。俺が、きみをどう書くべきなのか。でもさ、そもそも、どうしてきみは俺を信じたのだろう。いつも部活ではサボってばっかりだったのに。きみのことを救えなかったのに。
なのに。
俺を置いていくなよ。
お願いだから、俺を孤独にするなよ、俺の知らないところで死ぬな、ああもう死んだのか、死んだんだっけ。そうか。なあ、きみの小説もう一度読みたいな。今度はきみが俺を書いて、俺の文なんかとは大違いな表現力で、びっくりしちゃったりとかして。それで、そのまんまの流れで酷評してくれよ。俺の駄文をさ、笑って赤線引いてくれ。俺はどうしようもなくてもう一度、パソコンを開いてしまうんだ。
だから、また――――D.C.
Remember the promise 冷田かるぼ @meimumei
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