第5話


 扉が鳴った。


 書簡を呼んでいた呂蒙りょもうは顔を上げた。

 入り口に甘寧かんねいの姿。

「仕事中か?」

 呂蒙は笑った。

「いや。自分のことをしてるだけだ」

「お前が今日戻ってるって聞いたから。酒持って来た。飲もうぜ」

「ああ、いいなあ。少し飲むか」

 呂蒙が立ち上がって窓辺を指したので、甘寧も嬉しそうな顔をして入って来た。


 しばらくは軍の話になった。


 赤壁せきへきは大勝に終わったが、軍の再編は必要だった。

 呂蒙の口からは魯粛ろしゅくの名がよく出た。

 甘寧にとっては魯粛は今まで外交官としての働きの印象が強かったが、しょくとの同盟が決裂してからは周瑜しゅうゆの後を引き継ぎ、西の戦線を固めていると聞く。


「俺もあまり知らなかったのだが、魯粛殿は周瑜殿とかなり親しい方だったようだ。

 孫策そんさく殿が江東こうとう平定している時から、尽力されているからな」


「そういやそうだな。

 前は孫策と周瑜がいたから、あんまり気にしたこと無かったけどよ」


「魯粛殿はなかなか面白い人だ。

 周瑜殿と孫策殿に見込まれていた理由が今になって分かって来た。

 話していると、本当に視野の広い人だと分かる。

 考え方は周瑜殿に似ているな。

 あの人は赤壁の時も、主戦派だった。

 普通の文官とは違うと俺は見たぞ」


「へえ~。そうなのか」

 酒を注ぐ。

「うん。お前も一度こうして魯粛殿と飲んで話してみるといい。

 魯粛殿もお前と一度話してみたいと仰っていた。

 これからはお前の力も、もっと必要になるとな。

 面白い方だぞ。きっとお前も気に入る」

「ああ」

 甘寧が足を伸ばして、壁に寄り掛かる。


「元気か、甘寧」

「ん?」


 横を見ると、呂蒙が微笑んでいる。

 甘寧かんねいは吹き出した。


「元気だよ。なんで聞く」


 酒を煽った甘寧の肩を、呂蒙は軽く叩いた。


「陸遜がいないと寂しいだろうと思ってな」


 甘寧は一瞬目を見開き、注ごうとした酒瓶を置いた。

「……。」

 夏の夜に、秋虫の鳴き声が混じる。


 甘寧は季節を思った。


 どんな戦が起ころうと、

 誰が死のうと、

 所詮季節は続いて行く。


 夏が過ぎれば秋が来て紅葉し、葉が落ち、雪が降って来る。


 陸遜りくそんはどの季節に戻るのだろう。

 近頃そんなことを考える。


「……子明しめい

「うん?」


 甘寧は珍しく言葉を濁した。

 呂蒙は決して急かさなかった。

 彼はずっと甘寧と陸遜を見て来た。

 甘寧にとって陸遜は――失うに容易い人間ではないのだ。



「陸遜は……、戻るかな」



 ひどく小さい声だった。


 赤壁せきへきでも曹仁そうじんに瀕死の重傷を与えて大敗させる戦功を挙げた、の猛将である。

 戦場では今や、鈴の音を聞くだけで敵は震え上がって逃げ出すようになった。


 その男が、聞いたこともない小さい声でぽつりと言った。


 酒が残る杯の、頼りなげに揺れる底に半月が映った。


 甘寧かんねいは戻って来ると思った。

 多分数週間もすれば何かが分かって、何かがどうにかなると思った。

 

 不思議なことに、未だに甘寧には陸遜が死んだという予感が全くない。

 だがいなくなったとは強く思うのだ。

 

 それが尚更、時が経てばと慰めていたが陸遜が消えてもう三月になる。


 何の手掛かりもない。

 本当に突然消えてしまった。


 甘寧は陸遜がいなくなってから、早朝陸遜の部屋に行くようになっていた。

 陸遜は城にいる時は部屋に籠って仕事をしていることが多かったので、どうしてもそこにいるような気がするのだ。

 今日こそ戻って来ているような。


 扉を開くと、陸遜がいて「すみません」とあの柔らかい表情で笑ってくれる気がする。


 だが最近は陸遜の部屋には虞仲翔ぐちゅうしょうが早朝からいる。

 彼は陸遜の部屋を整えながら、そこで仕事をしていた。

 この男は非常に優秀な男で、元々は孫権そんけんの側に仕えて文官の仕事をしていたが、赤壁の時、周瑜しゅうゆに見込まれて従軍した。

 赤壁が終わると自ら志願して陸遜りくそんの副官になったのだ。

 気難しそうな男だが、何故か陸遜のことは買っていた。



(いや、何故かじゃない)



 陸遜を強く慕う人間というのはいるのだ。

 その人柄と聡明さと、慧眼を。


 虞翻ぐほんは陸遜がいなくなるとその不在を埋める如く、昼夜部屋に籠って働き始めた。

 陸遜は呉の中核に関わり陸家の当主でもあった為、今回のことは伏せてあった。

 中核の者達だけには、陸遜が刺客に襲われ行方が知れないということは話してあるが、城の大半の人間は知らない。

 陸遜を探す人間には体調を崩して蘇州そしゅうに戻っていると言っているが、虞翻が陸遜に回されるべき仕事を、彼の部屋で猛然とこなしているので不在を知らない者の方が多い。


 虞翻からは、自分はそう思わせる為に今ここにいるのだと、そういう強い意志を感じた。


 陸遜の部屋に虞翻が居付くようになってしまったので、甘寧かんねいは部屋には行かなくなった。

 すると、なにか日常のやるべき大半のことが無くなってしまったように思えて来た。


 甘寧はこの三月は、新兵の訓練に明け暮れていた。



「戻って来る。」



 甘寧は呂蒙をもう一度見た。

 呂子明りょしめいは先ほどとは違う強い笑みで、頷いた。


「なんでおまえ……そんな自信満々なんだ?」

「ん?」


 淩統りょうとうなどは最近、甘寧と顔を合わせたがらなくなった。

 その意味は分かる。

 甘寧も似た気持ちを抱いていて、淩統とはあまり会いたくない。

 不意に城で会い、目が合うと、どちらも居心地悪そうに視線を外す癖がついてしまった。

 

 陸遜りくそんが教育係をしていた孫登そんとうには、いつの間にか別の世話役がついた。

 よく陸遜相手に癇癪を起して困らせていたこの王子も、今はそんな姿はほとんど見せない。

 落ち着き、よく世話役の話を聞いているようだ。


 呂蒙りょもうは最近建業けんぎょうの外にいることが多いので、その彼があまりにあっさり、当然だという感じで答えたことが甘寧かんねいは不思議だったのだ。


「なんでと言われて……まあ、ここが陸遜の帰る場所だからなあ」


 呂蒙は朗らかに笑いながら、甘寧に酒を注ぐ。


「帰る場所……。」


「陸遜は長い間、同族である陸家と折り合いが悪かった。

 孫策そんさく殿の盧江ろこう攻めがきっかけでな。

 陸遜は、陸康りくこう殿から陸家を引き継いで、良かれと思って全てを行ったが陸家からは憎まれた。だからずっと居場所がなかったのだ。心の置き場がな」


「……。赤壁せきへきで孫策が亡くなった時、あいつが泣きながら言ってた。

 周瑜に合わせる顔がねえって」


 呂蒙は一口飲んで、静かに目を閉じた。


「自分はに来て、建業けんぎょうに来て、周瑜が……。

 周瑜しゅうゆが何にもない自分の中に戦う意義を見い出してくれたのに、

 自分は諸葛亮しょかつりょうも殺せず、孫策も守れず、何にも出来なくて周瑜に合わせる顔がない、

『一生許されない』ってよ」


「……。」


「俺は、あいつの背負ってるもんは、

 俺も一緒に背負ってやってる……そういう気になってたが」


 違ったのかもしれねえ。

 甘寧は小さく呟く。


 しばらく沈黙が落ちる。


 周瑜が死に、

 孫策が死に、龐統ほうとうが死に、

 陸遜は耐えがたい痛みを感じた。

 自分は一生許されないと背負い込むほどの、痛みを。


 甘寧はそうでもない。

 周瑜と孫策がいなくなったのなら自分たちがこれまで以上にやればいい。

 そう闘志が燃えてくるほどだ。


 龐統に斬りつけた時の、陸遜の怯えた顔。

 初めて見た。


 赤壁の最後に、龐統を追って行った時の覇気とは全く違う。

 あの時は「敵」を斬りに行っていた。


 だが【剄門山けいもんさん】では龐統が戦う意志を見せなかった。

 陸遜はだから、あの男を敵だと認識出来なかったのだ。

 その前日に敵として正々堂々と戦い合おうと、そう誓い合ったことで陸遜の胸からは迷いは一度消えたはずだった。


 しかし龐統はあそこで死ぬ気だったと知って。


 戦う意志も無い、

 敵でもない、

 まるで無辜むこの民を自分が追い詰めて殺したような気持ちになったのだろうか?



(だが陸遜、それは違う)



 甘寧は半月に想った。


(俺たちは誰しも、死に方を選ぶんだ。

 龐統はあの死を選んだ。

 周瑜もだ。孫策だって最後は周瑜に賭けた。あいつの為に力を尽くして死ぬことを。

 俺たちはみんな、そうやって自分で死に方を選ぶ)


 陸遜は龐統を見込んだ。

 見込んだなら最後まで見届けて、何もかも受け止めてやるべきだ。

 死の、最後までも。



「……でも陸遜りくそんは、龐統の死から逃げた」



 呂蒙りょもうはゆっくりと閉じていた目を開く。

「……。誰にだって目を背けたくなることはある」

 彼は言った。


「今日は耐えれたことが、明日急に耐えられなくなることもある」


 人生にはそういうことがある。


「どんな強い盾でも、何度も防ぐうちに、防ぎきれず砕けてしまう時はある。

 時が悪いことが。

 例え以前は幾度も耐えれた、同じことだとしてもな。

 俺は陸遜は強い人間だと思っている」


 甘寧は呂蒙を見る。

 彼は真っ直ぐ、庭先の景色を見ていた。


「確かに、今回は砕けた。

 でも強い人間なら、きっとなんとかなる。

 俺は陸伯言という人間を見込んでいるのだ。なら、疑っても仕方ない」


 呂蒙は甘寧の方を振り返り、にっ、と明るく笑った。


「泣いてもいいぞ、甘寧! 

 お前は陸遜を見込んでるのは俺と一緒だが、事情は少し違うからな。

 今夜泣いても、そのことは陸遜が戻ってきた時に言いつけたりしない。

 この呂子明りょしめい、名誉にかけてそれは誓おう」


 甘寧かんねいは目を丸くする。


「お前なんか、ちょっと変わったな」


「そうか? いやな……自分の立場も変わって、少し重い物を背負うようになって、

 魯粛ろしゅく殿や今まで話して来なかった人々と話すようになって、

 もっと強くならねばと思ったのだ。

 それに色々考えるようになった。

 魯粛殿と周瑜しゅうゆ殿、孫策そんさく殿の話を聞くたびに、あのお三人は並大抵ならぬ理解と、信頼で結ばれていたのだなと思うのだ。

 失った悲しみを封じて魯粛殿は今、見事に戦っておられる。

 側にいる俺が、うじうじしててもどうにもならんと思ってな!」


 数秒後、甘寧は吹き出した。


「ふざけんな。誰が泣くか!」


「無理をするな。しゅんとしているではないか。

 甘寧将軍が近頃静かすぎて怖い、と訴えが俺の所まで届いて来ておるぞ」


「オイ……誰だそんなことお前にチクってんのは……つーか俺がはしゃいでるとはしゃいでるで甘寧がうるせえとか言うじゃねえか。勝手だなあ、この城の連中は」


「はっはっは!」


 甘寧は呂蒙の杯に酒を注いだ。


「苦しい時ほど笑えってよく言ってたもんな、孫策が」


「ああ。

 大殿おおとの亡き後、十代の孫策殿はあの袁術えんじゅつなどの庇護に頼らねばならなかった。

 無駄な戦もした、

 殺すべきでない人もたくさん殺した、

 自分自身が嫌いになりかけたと言っていた。

 でもだからこそ笑うようにしたとな。

 誰かの上に立つ者はそうあるべきだ。俺もそう思う。

 だが、今は泣いていいぞ甘寧」


 泣かねーよ。

 甘寧は笑いながら立ち上がり、裸足のまま庭先に出て行った。

 何をするのかと見ているとススキに囲まれた池の中に、ばしゃん、と呆気なく飛び込んで頭まで潜らせてから、水を跳ね上げて出て来る。

 自分の長い髪をわしわしと掻き、水を振るい落とした。



「……俺が弱い男じゃ、陸遜が泣ける場所が本当に無くなる……」



 呂蒙は小さく笑って杯に唇をつけた。

 甘寧の言葉を聞いて、急に胸に込み上げて来た何かを、誤魔化す。


 泣きたくなった時ほど、人は笑うのだ。


 そう思って呂蒙は頷いた。






【終】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

花天月地【第15話 ここに在る意味】 七海ポルカ @reeeeeen13

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ