【古賀コン9】翅を結ばぬ音

冬寂ましろ

***


 ベランダの向こうに広がる、透き通るような夏の空を見上げていた。ずっと、そうしていた。何もできなくなって、冷たくて固いフローリングに座り込んで、空を見上げていた。

 いまの私にはこうすることしかできなかった。

 今朝、息子に言われた。

 「ママにならないで」って。

 30年も男をしていた私が、女になろうとしていた心を打ち砕くには、充分すぎる言葉だった。

 何度目かのため息といっしょに自分を責める言葉を吐き出す。当然の報いだ。息子がかわいそうだと思わなかったのか。この化け物め。変態。あと……。

 私はきっと極悪人なのだろう。私がみんな壊してしまった。わがままだったのだろう。私らしく生きることなんて。


 蝉の声がした。ジリジリとした日差しの向こうで、焦燥感にあぶられているような声だった。ジジジ、ジジジ……。

 何年も土の中で蝉の子供が暮らしていると、図鑑を指で示しながら教えてくれたのは息子だった。蝉は、地上に出て羽化し、つがいを見つけて繁殖し、すぐに死ぬ。ジジジと泣きながら死んでいく。そんな一生だった。

 蝉はこのままでいたいと思わなかったのだろうか。つがうことを求められる世界から離され、暑い日差しを浴びずに済む、土の中にずっといたいと思わなかっただろうか。私ならそう思うのに……。


 ジジジ、ジジジ。

 ずっと自分の中の女を羽化させずにいた。女の人っぽい男でじゅうぶんだと思っていた。妻の綾子はそれをわかってて結婚してくれた。最初のプレゼントは女性ものの下着だった。子供が欲しかった私は、それを伝えて結婚した。私の事情を知っている友達は、偽装結婚だとはやし立てた。生まれた子供を見て、自分で産みたかったと思った。

 そして、女として生きたいと思った。


 ジジジ、ジジジ。

 まだ蝉が鳴いている。夏の日差しという圧倒的な正しさに焦がされながら、自ら死に向かっている。

 綾子は私に男を求めた。ちゃんとした背広を着なさい、先頭を立って歩きなさい、花ぐらい買ってきたらどうなの? 口喧嘩が絶えなくなる。男になれない私は、少しずつ濁っていく。

 そして、女として死にたいと思った。


 ジジジ、ジジジ。

 蝉も土の中で女になりたいと思わなかっただろうか? 性別が決まらないあいまいな世界の中で、何を夢見ていたのだろうか。

 母からは「おまえは子供の頃からわがままがすぎる」と言われた。きっとそうなのだろう。小さいころから髪を伸ばし、ペンギンのぬいぐるみを抱え、女の子の輪の中にいた。ある日親戚のおじさんから「この子の子供が生まれたら、きっとかわいいだろうね」と言われ、いつかは自分で子供を産みたいと願った。

 その想いは、声が変わるとともに消えていった。詰襟が私を正しさに押し込めた。女装した人が起こす事件は、私が社会の敵なのだと思い知らされた。

 そして、私は羽化に失敗した。


 ジジジ、ジジジ。

 太陽が堕ちていく。日差しは勢いを消し、私を薄紫色に染めていく。

 消えていなくなりたい。脳をリセットして、みんなが思う正しさの中にいたい。女になりたいなんていう、このわがままでひとりよがりな思いを捨て去りたい。この焦げていくような苦しさから、いますぐ解放されたい。

 息子のためだ。そう思えばいい。それでいい。それは夏の日差しのように正しいことだ。

 そして私は蝉のように死んでいくのだろう。


 ベランダの窓に蝉がぶつかる。ジジと言って、敷き詰めた人工芝に落ちていく。

 きっと楽になったのだろう。子供の顔を見ずに、自分勝手に死んでいく。役目を果たしたと自己満足に浸りながら、焦げた地面にさらされる。

 なら、もう。私も……。

 この蝉みたく、夏の日差しから解放されたい。

 私は立ち上がって、ベランダの窓を開けた。湿った熱気が吹き込む。足元にいる蝉は、何かを抱えるようにして腹を私に見せながら動かなくなっていた。きっとこれが私の最後の姿と同じなのだろうと思うと、どこか安心するような気持ちが芽生えていた。この日、初めて私は微笑んだ。

 サッシの窓枠に手をかけた。引く。身を乗り出す。玄関のドアが開く音がした。私は部屋に戻り、何事もなかった顔を作って息子を出迎えた。空っぽの虫かごを抱えた息子は、私を見るなり目をそらす。


 「ママのところはどうだった?」


 別居した綾子の家に行っていた息子は、目に涙を浮かべて私に訴えた。


 「パパはママにならないで。お願い!」

 「うん……」


 私は息子を見れなかった。それでも息子は強く振り絞るように言った。


 「ママみたくならないで! 怒ってお皿を割ったり、つねったりしないで」


 息子がそんな目に合っていたのは知っていた。私にもされていたから。

 私は息子の手を引く。目立たないところにある痣に触らないようにして抱き寄せる。


 「ごめんね。ママにはならないから」

 「パパはパパでいてくれる?」

 「うん。パパだけど、化け物になるかもしれない」

 「いいよ。パパはパパだもん。パパはやさしいから、ママより好き。ご飯を作ってくれるし、本もいっしょに読んでくれる。だから僕のパパでいて」


 息子が私をぎゅっとつかむ。何かを思うことよりも、言葉にならない声が、涙といっしょにあふれだしていた。

 いっしょに泣き出した息子の向こうで、蝉の声がした。死んだと思っていた蝉は、最後の力を振り絞って、夜と朝があいまいな空へと羽ばたいていった。


<了>

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