最終話
陽菜さんはその日のうちに、田所さんから紹介された人物に連絡を取った。相手は田所さんの名前を聞くと、二つ返事で会うことを了承してくれたという。物事は私たちの想像以上の速さで前に進み始めていた。
一方で私の日常にも、静かだが確かな変化が訪れていた。蓮の音が消えてから私の耳は、少しずつ快方に向かっていたのだ。それは劇的な回復ではなかった。薄い膜が、一枚、また一枚と剥がれていくような、ゆるやかな変化。
街の喧騒がただのノイズの塊ではなく、意味のある音の集合体としてぼんやりと認識できるようになってきた。車の走行音、商店街のアナウンス、子供たちの甲高い笑い声。それらの音がまだ色彩を帯びるまでには至らない。けれど一つ一つの音に、微かな温度と質感が戻ってきたような気がした。
それは蓮が私に遺してくれた最後の贈り物なのだと直感的に思った。
私はある日、勇気を出してみた。押入れの奥にしまい込んでいた昔のスマートフォンの電源を入れる。そして震える手で、かつて働いていた会社の元同僚に短いメッセージを送った。「元気ですか? よかったら、一度会って話がしたいです」と。
サウンドエンジニアの仕事に復帰したいわけではなかった。ただ、自分が変わったこと、前に進み始めていることを誰かに伝えたかった。音の世界から逃げ出したあの頃の私とは違うのだと、証明したかったのかもしれない。
数日後、私たちは会社の近くのカフェで会った。元同僚の佐藤さんは私のずいぶんと変わった姿に、最初は驚きを隠せないようだった。会社を辞めた頃の私はきっと生気のない、幽霊のような顔をしていたのだろう。
彼は私の体を心配してくれた。私は穏やかな気持ちで最近の出来事を話した。もちろん、幽霊の話は伏せておいた。一人の才能あるシンガーソングライターと出会い、その人の音楽制作を手伝っているのだと。
「倉本さんが、また音楽と……」
佐藤さんは自分のことのように喜んでくれた。
「よかった。本当によかった。君の耳は、やっぱり音楽のためにあるべきだよ」
彼のその言葉は少しだけ、私の胸をちくりと刺した。私の耳はもう以前のようには機能しない。けれど彼の純粋な善意は、温かく私の心に沁みた。
同じ頃、陽菜さんにも大きな進展があった。田所さんの友人に会って完成した曲を聴かせたところ、その人物は曲の圧倒的なクオリティと、そこに秘められた物語に深く心を打たれたという。そしてこの曲のリリースに向けて、全面的に協力することを約束してくれた。
配信リリースに向けて具体的なスケジュールが組まれ始めた。陽菜さんからその知らせを聞いた時、私は自分のことのように嬉しかった。私たちの関係はいつの間にか、単なる共同制作者から、同じ痛みを乗り越え同じ未来を見つめるかけがえのない親友へと変わっていた。
その日の夜、私は久しぶりに自分の部屋のキーボードに向き合った。蓮の曲でも陽菜さんの曲でもない。私の心の中から自然に湧き上がってきた、短い短いメロディを弾いてみる。それは悲しい音ではなかった。喜びの音でもない。ただ、静かで、穏やかで、ほんの少しだけ温かい、夜明け前の空のような音だった。
数週間後、曲の配信リリース日が正式に決定した。アーティスト名は「HINA」。そして曲のタイトルは陽菜さんの発案で『月影のデュエット』に決まった。
ジャケット写真は私が撮った一枚の写真が使われることになった。『月影レコード』のあの窓際の席。誰も座っていないその席に窓から優しい月の光が差し込んでいる、ただそれだけの写真。けれどそこには、私たちの物語のすべてが詰まっているような気がした。
リリース前夜。私は一人で『月影レコード』を訪れた。いつものようにカウンターの席に座り、田所さんが淹れてくれたコーヒーを飲む。もうここに来ても蓮のピアノが聴こえることはない。その事実はやはり少しだけ寂しかった。けれど私の心は不思議と穏やかだった。
店のスピーカーから流れてくるビル・エヴァンスのジャズ。そのピアノの音はもう私にとってノイズではなかった。サックスの甘い音色、ウッドベースの低くうねる響き、ドラムのブラシが刻む繊細なリズム。その一つ一つが確かな感情と色彩を持って、私の心にまっすぐに届いていた。
私の世界に色が戻り始めていたのだ。
蓮が遺してくれた最後の贈り物は一曲の音楽だけではなかった。彼は私の壊れた世界そのものを修復してくれたのだ。
私はカップを置き、静かに目を閉じた。心の中で彼に語りかける。
ありがとう、蓮さん。
あなたの曲は明日、世界に旅立ちます。
そして私も明日から、新しい世界を生きていきます、と。
音が聴こえない元サウンドエンジニアは、路地裏レコードカフェで幽霊ピアニストの未完成ラブソングを完成させたい ☆ほしい @patvessel
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