第14話

完成した音源を一枚のCD-Rに焼いて、私たちはその足で『月影レコード』へと向かった。朝の早い時間、まだ店は開いていないはずだった。けれど私たちが店の前に着くと、まるで待っていたかのように中から田所さんが出てきた。


彼は私たちの顔を順番にじっと見た。その優しい瞳はすべてをお見通しのようだった。


「……終わったんだね」

田所さんは静かに言った。


私たちはどちらともなく頷いた。彼は何も言わずに店のドアに「CLOSE」の札をかけると、私たちを中に招き入れた。そしてカウンターの奥から古いCDプレーヤーを取り出してきた。


店の壁一面のレコード棚に囲まれたこの場所は、レコードの神様が住む神殿のようだ。その神聖な場所で、これから儀式が執り行われる。カフェには私たち三人だけだった。


陽菜さんが震える手でCDをトレイにセットする。そして再生ボタンを押した。


店のスピーカーから静かにイントロが流れ始める。田所さんはカウンターに寄りかかり、目を閉じてじっと聴き入っていた。その彫りの深い顔に様々な感情が浮かび、そして消えていく。彼の脳裏にはきっと、蓮が生きていた頃の思い出が走馬灯のように駆け巡っているのだろう。


初めて中古の安いギターを嬉しそうに抱えてこの店にやってきた日。陽菜さんを「俺の彼女」と照れくさそうに、でも誇らしげに紹介した日。陽菜さんに振られ、音楽なんかもう辞めてやるとこのカウンターで泣きじゃくった日。


田所さんの回想は、私の知らない蓮さんの時間をありありと描き出していく。彼はただのカフェのマスターではなかった。蓮さんにとって父親のような、あるいはそれ以上の存在だったのかもしれない。


曲はクライマックスへと向かっていく。陽菜さんの絶唱と蓮さんの最後のピアノが、奇跡のハーモニーを奏でる。田所さんの閉じられた瞼から一筋の涙が静かにこぼれ落ちた。


やがて曲が終わり、長い長い沈黙が店を支配した。それは気まずい沈黙ではなかった。一つの魂の旅立ちを三人で見送るための荘厳な時間だった。


田所さんはゆっくりと目を開けると、腕で乱暴に涙を拭った。

「……あいつ」

彼の声はひどく掠れていた。

「最高の曲を遺していきやがったな」


その言葉はどんな賛辞よりも私たちの胸に深く響いた。陽菜さんの瞳からも再び涙が溢れ出していた。彼女は田所さんに向き直ると、震える声で尋ねた。


「田所さん、この曲をどうしたらいいと思いますか」

陽菜さんはスタジオでの私の問いを、今度は田所さんに投げかけた。

「世に出すべきか、迷っているんです。蓮のあまりに個人的な想いが詰まったこの曲を、不特定多数の人に聴かせるのが正しいことなのかわからなくて……」


その問いに田所さんはすぐには答えなかった。彼はカウンターの中から一杯のコーヒーを淹れると、それを陽菜さんの前にそっと置いた。そしてしばらく考え込んだ後、静かに口を開いた。


「蓮くんなら、どうするだろうな」

彼は私たちに問いかけるように言った。

「あいつはいつも自分の音楽を誰かに聴いてほしくてたまらない男だった。特に、自分と同じように孤独や痛みを抱えているどこかの誰かに、『お前は一人じゃないぞ』って届けと願っていたはずだ」


その言葉に私ははっとした。そうだ。まさに私がその「どこかの誰か」だったのだ。音を失い、世界から拒絶されたと思っていた私を救ってくれたのは、他の誰でもない蓮さんの音楽だった。


彼の音楽は決して陽菜さん一人のためだけのものではなかった。それは世界中に散らばっている、心を閉ざした人々、音を失った人々、愛する人をなくした人々のための祈りの歌なのだ。私にはそのことが痛いほどわかった。


「あの……」

私はおずおずと口を開いた。

「私はこの曲を世に出すべきだと思います」

陽菜さんと田所さんが私の顔を見る。

「この曲を聴いてほしい人が、たくさんいると思うんです。かつての私のような人が。蓮さんや陽菜さんのように、大きな喪失を抱えてそれでも生きていかなければならない人が」


私の言葉に陽菜さんの瞳が強く輝いた。彼女もまた同じ結論に辿り着いていたのかもしれない。自分の痛みや後悔が誰かの救いになるのなら。蓮との思い出が誰かの心を温めるのなら。


陽菜さんは迷いを振り払うように強く頷いた。

「そうね。……そうよね、蓮」

彼女は誰もいない空間に向かって優しく語りかけた。


私たちの決意を見て、田所さんは満足そうに微笑んだ。そして彼はカウンターの奥の古びた引き出しから一枚の名刺を取り出した。それは少し黄ばんでいて、長い間使われていないことがわかった。


「ここに、連絡してみなさい」

田所さんはその名刺を陽菜さんに手渡した。

「俺の古い友人だ。インディーズの音楽業界で今も少しは顔が利くはずだよ。きっと、君たちの力になってくれるかもしれない」


その名刺は私たちの未来へと繋がる一枚の切符のように思えた。蓮が遺した物語は私たちの手によって、新しい章を迎えようとしていた。

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