還る梅

水底まどろみ

還る梅

 僕の祖父の家には立派な梅の木が生えていた。

 お父さんがまだ子供だった頃に苗を植えたらしく、すくすくと成長したその木は毎年たくさんの梅の実をつけていた。

 夏休みの時などに両親に連れられて祖父の家を訪れると、祖父はいつも梅酒の入ったコップを片手に、居間の大きな窓から庭を眺めていた。

 慈しむような表情で梅の木をじっと見つめるその横顔を、今でもよく覚えている。

 僕が物心ついた時には祖母は既に病気で亡くなっており、広い家で1人過ごす祖父にとって梅の木を育てることが心の支えになっていたようだ。



 そんな祖父とは対照的に、僕はどうにもその梅の木が苦手だった。

 なぜなら、梅の木の下に幽霊が立っているのをたびたび見たことがあるからだ。


 

 初めてその女を見たのは、小学生にも通っていないくらい幼い頃だった。

 その行為の意味をよく知らないまま両親の見よう見まねで祖母のお墓参りをした後、僕は父の運転する車に乗って祖父の家に行き、そこで昼食を取ることになった。

 祖父が注文していた出前のお寿司は幼い僕の口にはあまり合わず、父は祖父とのお喋りに花を咲かせていたので、僕は母と一緒に庭に降りて梅の木の周りで遊んでいた。

 確か、バッタかなにかの虫を追いかけていたはずだ。

 あともう少しと何度も虫取り網を振るが、そのたびにバッタは大跳躍を見せて遠くへと飛び去って行く。

 当時は現代ほど暑くなかったとはいえ、真夏の出来事だ。

 次第に疲れを感じてきた僕は虫取りを中断することにし、遠くの方で見守ってくれていた母の方へと駆け寄ろうとした。



 その時、視界の端に見慣れない赤色が紛れ込んだ。

 僕は反射的に振り返り、梅の木の方へと向き直る。


 そこには、先ほどまでいなかったはずの女の人がひっそりと佇んでいた。

 彼女は時代にも季節にも似つかわしくない、分厚そうな生地の紅色をした和服を身につけていた。

 その袖から覗かせていた手は病的なほどに白く筋張っていて。

 長い髪が垂れ下がっていたせいで顔はよく見えなかったが、その下で光る目は確かに僕のことを捉えていた。


「お、おかあさん」


 縋りつくように母の元に駆けつけた僕は、恐怖で引きつる喉からなんとか声を絞り出す。


「ゆう君、どうしたの?」

「なんか、へんな人がいる」

「え?」


 必死に訴える僕の姿を見て、母は怪訝そうな表情をしていた。

 ――なんでボーっと立ったまま、何もしないのだろう。

 困惑している様子の母に苛立ちを感じた僕は、しっかりと指を差すために梅の木の方へと振り向く。

 しかし、母に助けを求めるために視線を外していた少しの時間で、あれだけ目立つ着物を着ていた女は煙のように消えていた。


 庭でずっと僕のことを見ていた母も窓越しに庭の様子をチラチラと見ていた父も、あの女のことは見えていなかったようだった。

 最終的に『強い日差しのせいで白昼夢でも見ていたんじゃないか』という話になり、熱冷ましのシートをおでこに貼ってもらった僕は、腑に落ちないながらも気のせいだったということでいったん納得した。


 しかし、その後も祖父の家に行くたびにあの女は姿を見せてきた。

 目立つ赤い着物を身につけて唐突に僕の前に現れては、ふとした瞬間に消えていく。

 明らかに異常な存在であるのに、やはり周りの大人が彼女に気付いている様子はないように見えた。

 そんなことが何度も続いたため、僕はあの梅の木から距離を置きたがるようになり、自然と祖父の家に行く頻度も減っていった。


 そして、年に1回お正月の時に顔を見せる程度にまで疎遠になっていた高校2年生の6月。

 近所の人の通報を受けた救急隊員から、祖父が梅の実の収穫中に意識を失い倒れたことが知らされた。

 父が仕事を早退して病院に駆けつけた時には、既に息を引き取っていた。


 祖父が亡くなってから初めて迎えるお盆の日。

 祖父を祖母と同じ墓に納めた僕たちは、遺品整理をするために空っぽになってしまった祖父の家に訪れていた。


「それじゃあ雄太は、ここを片付けておいて。欲しい本があったら持って行ってもいいから」


 父にそう言い残され一人書斎に置き去りにされた僕は、とりあえず本棚の左上の方から順に本を手に取ってみることにした。

 ページをパラパラとめくるたびに、古い紙の独特な臭いが立ち昇る。

 小説は好きな方だと自認しているが、祖父の蔵書は僕にとってはあまりに前時代的すぎて、床の上には興味のない本の山がどんどん成長していった。

 そんな不毛な作業が終わりに近づいていたその時、本棚の隅っこに押しやられるようにして、小説とは装丁の異なる冊子がしまわれていることにようやく気付いた。


「……これ、アルバム?」


 適当に途中のページを開いてみると、色褪せた写真の中に父によく似た男性と子供が映っていた。

 男性の方は眩しいくらいの笑顔を浮かべているが、子供の方は思春期真っただ中なのか、どこか憮然とした表情を見せている。

 これが昔の祖父と父なのだろう。なんだか今の父と僕の姿にそっくりで、時間旅行でもしてきたかのような感覚に陥る。

 ――お祖父ちゃんやお父さんにも、こんな若い頃があったんだな。

 当たり前のことを再認識し、どこか感慨深い気持ちを覚えながら、先頭へと向かってページを捲っていく。

 運動会で一生懸命に走っている小学生の頃の父。

 あどけない表情でよちよち歩きをしている幼い父。

 時を遡るごとに微笑ましい風景が現れ、気づけばこちらの頬も緩んでいた。

 きっと、この写真を撮った祖父も同じ気持ちだったのだろう。



「……え?」


 しかし、最初のページも近づいてきたところである写真が目に留まり、僕は思わず声を漏らした。

 そこには祖父と思しき男性が、見覚えのある紅色の着物を着た女性と並んで笑っている姿が収められていた。

 



「父さん、お祖母ちゃんっていつ頃亡くなったの?」


 手渡したアルバムのページをパラパラとめくっている父にそう尋ねてみると、父はいったん手を止めて、何かを考えるように空中に目を向ける。


「えっと……お父さんが子供の時だったかな。まだ小さかったから、お父さんもよく覚えてないんだけど」

「その時って、梅の木はもうあったの?」

「うーん、どうだったっけ……あったような……いや、ちょうどお祖母ちゃんが死んですぐ後くらいに植えた気がするな」


 その言葉を聞き、僕の心臓はひと際大きな鼓動を打つ。


「そうだ、思い出してきた。お祖母ちゃんが死んでしょんぼりしていたお祖父ちゃんを見かねて、お祖父ちゃんの友達が『気分転換に育てたらいい』と苗を譲ってくれたんだ」


 それから父は思い出話を膨らませていき母が相槌を打っていたが、僕にはもう内容が頭に入ってこなかった。

 祖父はいつも梅の木を慈愛に満ちた表情で眺めていた。

 その梅の木の下に佇んでいた、アルバムと同じ格好をした女の幽霊。

 大人たちは誰も彼女のことに気付いていないのかと思っていたが、もしかしたら祖父だけは――。


 それから何か月か経って、梅の木は祖父の後を追うように見る見るうちに枯れてしまった。

 父は残念そうにしていたが、たぶんこれが本望なのだと思う。

 死によって引き離されても転生してまで帰って来て、人と樹木という種族の壁も物ともせずに二人で寄り添って生きてきたのだ。

 きっと向こうでは、今まで言葉で伝えられなかった愛を囁き合いながら、仲良く暮らしていることだろう。

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