第53話「腐肉の台頭」第一部
少女の瞳に、絶望が巣食っていた。それは音のない嵐。ミッカの蒼い虹彩を濁らせる、理解の拒絶。
目の前の現実は、早回しの秋のように残酷に突きつけられた。つい数瞬前まで脈動していた命ある存在が、今や森に忘れ去られた枯れ木のようにプラットフォームに転がっている。かつて精力的だった肉体は、捻じれた乾燥した枝へと成り果てていた。青々としていた葉は死の色である茶褐色に変じ、乾いて縮れている。
プ~ン……鼻をつく、甘ったるい植物の腐敗臭が立ち込める。
「な、なに……」
ミッカの声が裏返り、喉の奥で詰まった。
カサッ……微かな気配。残る二人の『樹液の子ら』が歩み寄ってくる。朝露の中で儀式を詠唱していた者たち。母なる樹の血を守護する者たち。その一人が口を開いた。だが、そこには声帯などない。ギチッ、ミシシッ……それは古木が軋み、葉が擦れ合う音。荒削りで、原始的な言語。
即座に、アルマの霊的な声がそのノイズに重なり、ミッカの脳内へと意味を流し込む。
『我らは母なる樹より出でし者。我らは母の延長であり、我らを流れる液体は母の樹液そのもの。これを用いて、我らは奇跡を紡ぐ。だが、それが尽きれば循環は閉じる。我らは母の抱擁へと還るのだ』
ミッカの視線が、足元の死した樹皮から、生きている二人が掲げる緑色の球体へと移る。ふわりと浮遊するその液体。内から放たれる光は、剥き出しの心臓のように脈打っていた。
ドクン、ドクン……
「つまり……」ミッカが掠れた声で囁く。理解という名の鉛が、双肩にのしかかる。視線が落ち、表情が悲痛に歪む。「それを渡すってことは……あなたたちは、死ぬ、の……?」
二人の『樹液の子ら』は微動だにしない。木の葉のフードと仮面の下、その表情は読み取れないが、彼らの立ち姿からは厳粛な「受容」が漂っていた。
パキッ。再び、枝が折れるような音が響く。アルマが翻訳する声は冷徹で、差し出されようとしている命の熱量とは対照的に事務的だった。
『死は単なる通過点。母なる根への回帰に過ぎない』
二体目の存在が、ミッカに向かって両腕を差し出した。樹液の球体が近づいてくる。強烈な輝き。それは力を、そして勝利を約束する輝きだった。
『我らの力では、あの〝狩人〟を圧倒するには足りぬ。より大きな器が必要だ。竜の末裔の権威が』アルマの翻訳は容赦なく続く。『母なる樹の血を受け入れよ。それを通してのみ、我らの怨敵は堕ちる』
ミッカは膝をついたまま、動けなかった。その申し出は、祝福の皮を被った呪いのように見えた。
「感じるわ……純粋なマナね」ミッカの隣で、アルマが研究者のような眼差しで球体を分析する。そこには道徳的な葛藤など微塵もなく、『天騎士団』としての戦術的思考だけが支配していた。「エネルギーの波長が『古き樹』の内部を流れていたものと完全に一致する。これは間違いなく精霊魔法。彼らが森の精霊の一種だという私の推測は正しかったようね」
その冷え切った分析に、ミッカの感情が爆発した。
「でも、私にどうしろって言うのよ!?」
彼女は叫んだ。自分にしか見えない半透明の幽霊に向かって。その絶叫はプラットフォームに虚しく響く。『樹液の子ら』――沈黙の戦士と、恐怖に震える個体――が、その仮面をテセウキに向けた。職人は、疲労の色が濃い顔で「やれやれ」といった視線を返すだけだ。原住民たちにとって、少女が虚空に向かって議論しているように見えることは知っていた。
「無視しろ……」テセウキは不機嫌そうに呟く。今の状況の複雑さを説明する気力など残っていない。
アルマは妹の癇癪を無視し、戦術的な焦点を維持した。「彼らの意図は明白だわ。この凝縮された魔法を、狩人への攻撃手段として使うのよ」
「でも、私がそれをやったら、彼らは……彼らは死んじゃう!」ミッカの声が湿り気を帯びる。言葉の端々に恐怖が滲む。
テセウキは驚いたように片眉を跳ね上げたが、口は挟まなかった。だが、アルマは目を細めた。勝利の対価を受け入れようとしない妹の頑迷さを見据えて。
『戦いには犠牲が必要なこともあるわ、ミッカ。勝利は代償を求めるものよ』
「なんで他人の命を使わなきゃいけないの!?」目尻に涙が溜まり始める。「なんで私一人じゃ解決できないの!?なんで勝つために誰かの命を吸い取らなきゃいけないの!?どうして!?」
アルマの返答は迅速で、研ぎ澄まされた刃のように鋭かった。
『――あなたが、弱いから』
ミッカの世界が、凍りついた。目が見開かれ、瞳孔が激しく収縮する。指先が震え、何もない空中で縋るものを探すように彷徨う。口が開閉し、何かを言おうとするが、音になる前に消えた。
アルマは止まらない。頭上に浮かぶ、触れることのできない断罪者。
『この〝古の世界〟への国境を越えてから、何度助けられた?今日、たった一度のこの戦いの中で、何度死にかけた?』
真実は物理的な打撃となってミッカを打ちのめした。足の力が完全に抜け、彼女は崩れ落ちた。湿った木の床に両手を突き、指先が白くなるほど拳を握りしめる。
ズズズズズゥゥン!!外では世界が揺れていた。プラットフォームが激しく振動する。ガリガリッ、バキバキッ!巨大な顎が魔法障壁を噛み砕こうとする音が響く。時間はもうないという、喉を鳴らすような警告。
「わかってる……」ミッカは床の木目に向かって囁いた。涙が滴り、床の湿気と混じり合う。「私が……弱いってことくらい……わかってる……」
記憶が、容赦なく彼女を襲う。あの『亡者』たち。友人たちの命を奪いかけた愚かなミス。あの水棲の怪物の前での無力さ。ただのお荷物でしかなかった自分。もし力があったなら……もし自分が戦えたなら……テセウキがあんな水竜たち相手に一人で血を流すことなんてなかった。
(私が弱くなければ……)
罪悪感が、冷たい毒となって血管を巡る。
(私が弱くなければ……誰かの命をこの手で背負う必要なんて、なかったのに)
ギシッ、ミシミシッ……!!
プラットフォームが悲鳴を上げていた。崩壊寸前の木の枠組みが、断末魔のように軋む。彼らを取り巻く世界は、暴力の痙攣そのものだった。底なしの飢餓を抱えた〝狩人〟が、球状の障壁を食い破る。巨大な顎が木の守りを噛み砕くたび、湿った破砕音が響き渡る。
グチャッ、バキバキッ!
『樹液の子ら』も反応した。ヒュンッ!彼らの口笛が鋭く空気を切り裂く。その音がトリガーとなり、木材から即座に鋭利な杭が突き出し、怪物の腐った肉へと殺到した。ブシュッ!黒い膿が飛び散り、障壁を汚す。だが、怪物は痛みを無視して前進するだけだ。
頭上では、脅威が増殖していた。『真の狩人』の菌類の天蓋近くで、壊死した肉塊が凝集し、醜悪な砲弾へと変貌していく。
「危ないッ!」
ズドン!!
衝撃が構造物を揺らし、テセウキたちは床に叩きつけられた。腐敗した肉が木に激突し、鈍く不快な音を立てる。ベチャ……ヌチャ……粘着質な質量が隙間からゆっくりと滴り落ち、歪んだ重力に従ってふわりと浮き上がると、再び敵によって投擲される。
「時間がねぇぞ……」職人は歯を食いしばり、呻くように言った。「あんなんじゃ、いつまで経っても弾切れにならねぇ!」肉塊が戻り、次の攻撃に備えるのを見ながら、テセウキの思考は熱を帯びた速度で回転していた。パニックと必死に戦いながら。
(俺にできることは多くない。あいつらは今まであの緑の液体を制御してくれていた。一人はすでにミッカを守るために命を落とした。そして今、残る二人が自らの血を差し出して、上の怪物を攻撃しようとしている)
(だが、それを使えば、こいつらは死ぬ……)
テセウキは倒れ伏した少女を見た。(俺はよく知ってる。ミッカは絶対に、他人の命を犠牲にすることなんて受け入れない。あいつの優しさは、最大の武器であり、最大の弱点だ)
しかし、選択肢は蒸発していた。彼女の体はボロボロで、いつものようにエネルギーを流すことはできない。彼女の雷撃も、アルマの落雷も、あの獣たちの甲殻と再生能力の前には無力だった。もし『ドラゴの子』が戦えなければ……誰が残る?
ガガンッ!!再びプラットフォームが激しく揺れた。テセウキは膝をつき、ささくれだった木材が皮膚を傷つける。「くそっ……!」純粋なフラストレーションが喉から漏れる。
(どうすりゃいいんだ!?あの水竜たちと戦った時とまったく同じ感覚だ……)
木材に体を預け、ふと視線を落とすと、そこには黄金の柄とオレンジ色の刃があった。ミッカの剣だ。
彼は冷たい金属を見つめた。アルマは、ミッカが雷を使いすぎないように忠告していた。それが彼女のただでさえ少ない生命力を削るからだ。
(でも、もしミッカが雷を使って戦う必要がないとしたら?源が別にあるとしたら?)
脳裏に、稲妻のような記憶が走った。『亡者』が襲撃してきた日。レグルスが怪物をマグマで焼き尽くし、それが逃げようとした時、テセウキはその剣を握った。あの絶体絶命の瞬間、彼は刃から放たれるアーク放電を制御してみせたのだ。
『剣は使い手の魂と繋がっている。それは信頼に反応するの』――アルマはそう言った。
ミッカの魂は彼を信頼していた。彼を信じていた。だからこそ、あの時、武器は彼の呼びかけに応えたのだ。
(なら、今も……俺にならもう一度できる。でも、どうやって?ただ雷を放つだけじゃ無駄だ、それはミッカが証明しちまった……)
ジワリ……首筋を冷たい汗が伝う。皮膚がチクリとするような、不快な粘り気を感じた。
(湿気……?)
職人の目が見開かれた。理解が脳内で爆発し、恐怖を一掃していく。
彼は自分の掌を見た。濡れている。ただの汗じゃない。顔を上げると、空気中に漂う微細な水滴を感じ取れた。周囲は濃密で、白く厚い霧に覆われている。
(胞子が充満してるのは当然だ。だが、この密度……俺たちは地上数千メートルにいるんだぞ……これは雲だ!)
(俺たちは今、潜在的な雷雲の中にいるんだ!)
「アルマさぁぁぁぁんっ!!」
若き職人の叫びが戦場の騒音を切り裂き、天蓋に響き渡った。
アルマの霊体がピタリと止まる。彼女は視線を上げ、即座にテセウキへと焦点を合わせた。彼は震えるミッカの体の上を見上げていた。まるで彼女がそこにいることを知っているかのように。
「もし、ミッカが魔法を使えばっ!?」彼は叫び、腕を突き出した。
バッ!握りしめた拳を、勢いよく開く。
アルマはそのジェスチャーを見て一瞬困惑したが、彼女の霊的な瞳はその詳細を捉えた。少年の手はびしょ濡れだった。一滴の水滴が煌めき、指の間をゆっくりと伝い、木材へと滴り落ちる。
ポチョン。
空気は水で飽和している。完璧な導体(コンダクター)。
「テセウキくん……天才的な閃きね」アルマが呟き、その半透明の唇に微かな笑みを浮かべた。彼女は手を下ろし、決して触れることのできない妹の頭を撫でるように、慰めの仕草をした。「勝てるわ。でも、それを成功させるには、まだこの精霊たちの助けが必要よ……」
そのやり取りを聞いていたミッカは、罪悪感の闇を貫く希望の火花を感じた。彼女は体に鞭打ち、膝立ちになった。視線はまだ遠く、虚ろだったが、麻痺は消えていた。
『勝利も、私たちの命も……すべてはあなた次第よ、ミッカ』アルマが厳かに告げる。
二人の『樹液の子ら』も空気の変化を察知し、一歩前へ出た。彼らの手の中では、母なる樹の血が脈動している。純粋な生命エネルギーの球体。起爆されるか、消費されるかを待っているそれらを、彼らは『ドラゴの子』へと差し出した。
スゥーッ……ミッカは湿った、静電気を帯びた空気を深く吸い込んだ。震える足で立ち上がる。だが、その足はしっかりと体重を支えていた。
グイッ。手の甲で、顔を汚していた涙を乱暴に拭う。蒼い瞳の奥にはまだ深い悲しみの激流が渦巻いていたが、そこには別の何かが宿っていた。逃げ場のない者の、覚悟。
彼女は職人を見つめた。自分の命と魂を、彼の策に託して。
「テセウキくん……」彼女の声は掠れていたが、芯があった。「私に……何をするべきか、教えて……」
次の更新予定
2026年1月22日 18:00
ドラゴの子 わる @warutaihendayo
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。ドラゴの子の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます