第六十話 母ちゃん

 翌日の朝、喜助きすけちゃんは私のそばに寄ってきました。朝餉あさげから一緒です。今日は、おむすびとお味噌汁、青菜の漬物が食前に上がっています。喜助きすけちゃんは、緊張しているのか、いつもより口数が少ないのです。まあ、無理もないわねえ。


「ほら、口に粟粒がついてるわよ」


 そう言って、粟粒を取り、自分の口に中に入れるのです。へへっと嬉しそうな喜助きすけちゃんを見て、胸がキュンとします。ああ、自分に子供がいたら、こんな気持ちなのかな。


小瑠璃こるりも食べろよ。いつもあんなに食べてんだから」


「何よ、喜助きすけちゃん。お母さんにそんな憎まれ口きいて!」


 お母さんという言葉に、喜助きすけちゃんはどきりとしたようです。それでも、少しうつむいて赤くなった後、私の目をまっすぐに見つめてくるのでした。


小瑠璃こるりが母ちゃん? ま、まあ役不足だけど、一応やらせてやるか」


 またまた。照れちゃって。


「この、照れ屋さんが!」


 そう言うと、コチョコチョと逃げられないように脇腹をくすぐります。


「はははは、こ、こ、小瑠璃こるり。止めろよ。降参、はははは……」


 どうよ、このくすぐり攻撃は。離した後も、喜助きすけちゃんは別に逃げずに私の側にちょこんといるのでした。


 朝餉の後も、一緒に掃除や孤児の食事の準備、洗濯といろんなことを手伝ってくれました。本当に働き者なのです。


 気がつけば夕方になっており、洗濯物を取り込みに庭に出て行くと、空はあかね色に染まっていました。今日は、何だかいつもよりも哀しい色に見えるわねえ。そのとき、喜助きすけちゃんがそっと私の手を握ってきたのです。


「ね、喜助きすけちゃん。夕餉ゆうげは何だろうね」


 下から私を見上げた喜助きすけちゃんは、満面の笑みになり、


「俺、魚が食べたいな」


 と、無邪気に言うのです。私は喜助きすけちゃんの頭をワシワシと撫でます。


「じゃあ、私が料理してあげよっか?」


「……小百合さゆりがいいな」


 ううん。ちょっと残念。


 それでも、その薄く大きなあかね雲を見上げながら、手をしっかりと握って砦の中に戻る私たちなのでした。


 夕餉ゆうげは、喜助きすけちゃんがご所望のイワナの塩焼きが出されます。すると、喜助きすけちゃんは食べさせてほしいとねだるのです。よし、この小瑠璃こるり母さんが、立派に役目を果たしてあげようじゃないの。いつもとは違ってしおらしい喜助きすけちゃんは、可愛さ二倍です。


「ほら、ああん」


 差し出された魚をぱくんと一口。


「うん。いつもより、うめえ」


 何度も口を開けて待っています。ふふ、雛鳥に餌をあげるみたい。どんどん、口にイワナの身を運んでいきます。うまい、うまいと喜助きすけちゃんはたくさん食べるのです。


「ふう、もう入らねえ」


 ゴロンとその場に横になった喜助きすけちゃんは、すでに目がとろんとしています。


「じゃあ、寝床へ行くよ」


「……ん」


 すでに大あくびの喜助きすけちゃんを背負い、私は自分の部屋へと歩きます。外はタスタスと雨が板葺き屋根を叩いていて、これは寒くなりそうねえ。


 一緒に床に入ると、喜助きすけちゃんが私の背中に抱きついてきます。


小瑠璃こるり、いい匂いだな」


「そ、ありがと」


 そう言うと、喜助きすけちゃんはしばらく黙った後、思い切ったように口を開くのです。


小瑠璃こるり、母ちゃんって呼んでいいか?」


 私は思わず体の向きを変え、喜助きすけちゃんの頭を自分の胸にくっつけます。


「もちろんよ。私はお前の母ちゃんなんだからね」


 喜助きすけちゃんは嬉しそうに頭をグリグリと胸に擦り付けてきます。

 可愛い、本当にかわいい!


「か、母ちゃん……」


「ん、何だい。喜助きすけちゃん」


「母ちゃんって、寝る前に歌を歌ってくれるって本当?」


 へえ、よく知ってるね。


「本当よ。目をつぶって」


 そう言って背中をトントンと叩きながら、小さく歌を歌います。


小瑠璃こるり、明日はさ。釣りに行こう。富士男ふじおも誘ってさ」


 だんだん喜助きすけちゃんの声が小さくなってきます。


「うん、行こうね」


「で、テツさんの……」


 そこで喜助きすけちゃんはコトリと頭を床について、くうくうとかわいい寝息を立てるのでした。もう、この可愛い生き物を、本当に私の子供にしちゃおうかな。そう思いながら、喜助きすけちゃんを抱きしめて、私も眠るのでした。


 翌朝、起きると私は一人で寝床に寝ていました。


 まあ、かわやでも行ったのかなと、しばらく寝床でダラダラしていました。じゃあ、今日は釣りに行こうかな。でも、ちょっと空は雨が降りそうなんだよね。


 そのまま、空を眺めて大分立つのに喜助きすけちゃんは帰ってこないのです。いくら何でも遅すぎる。もしかして、恥ずかしくなってみんなの小屋に戻ったのかな。あくびをしながら、私は控えの間に行きます。


小瑠璃こるりさま、おはようございます」


 いつものようにあおいさんが話してくれるんだけど、なぜか笑顔がないのです。もしかして、あの日かしら?


「ねえ、あおい喜助きすけちゃん、帰っちゃったの? 寝床にいないんだけど」


 すると、あおいさんは大広間に行くようにと小さな声で話すのです。えっ、まさか、怪我?


 急いで大広間に入ると、そこには九郎の他に、和尚おしょうさま、顕家あきいえ幸長ゆきながが難しい顔をして座っています。


「みんな、おはよう! ねえ、喜助きすけちゃんはどうしたの?」


 すると、九郎はまっすぐに私の目を見つめて言うのです。


喜助きすけは、ここにはいないよ」


 ん? どゆこと?

 とすんと座った私の上に、和尚おしょうさまの声が降ってきます。


喜助きすけはな。刀圭家とうけいか(医者)になるために京都へ旅立ったんじゃよ」


 えっ? 何で刀圭家とうけいか


「お前の怪我をずっと自分のせいだと思っていた喜助きすけは、都の刀圭家とうけいかである梶原さまに修行を願い出たんじゃ。医者になって次は自分が小瑠璃を助けるんだと……断られても断られても、何度も頭を下げる喜助きすけを哀れに思った梶原さまが連れて行くことになったというわけだ」


 昨日の深夜、出発したこと、それに小瑠璃こるりには知らせないでくれと、たっての頼みで、挨拶せずに旅立ったと静かに和尚さまは告げたのです。私は思わず畳に手をついてしまいました。


「お前の怪我に何もできないのが、もどかしかったんじゃろう。ワシや九郎に必死に頭を下げておった」


 ……喜助きすけちゃん、そばにいるだけでいいんだよ。何で、私から離れて、そんな遠くへ? そこまで聞いて、私はもういても立ってもいられません。幸長ゆきながの方へ体を向けます。


幸長ゆきなが、昨日の出立なら間に合うかもしれないわ。雪風を準備して」


 けれども、幸長ゆきながは辛そうな眼差しで頭を振るのです。


「どうしてよ! あんな小さな子が都で修行なんて辛すぎるじゃない! 喜助きすけちゃんは、まだ十才なんだよ!!」


 つめ寄る私に、幸長ゆきながは黙ったまま顔を背けました。


「話にならないわ!! 顕家あきいえ!」


 顕家あきいえに馬を出してくれるように頼みますが、いつになく真剣な表情で私をいさめるのです。


小瑠璃こるりさま。喜助きすけは、小瑠璃こるりが知ったら絶対に止める。止められたら、俺、行くのをやめてしまうから会わない、と」


 顕家あきいえは珍しく顔を背けています。


 九郎……、九郎だったら分かるよね。私はフラフラと九郎の前に立つのです。


「九郎。今すぐ、馬を出して! 喜助きすけちゃんは幼いの! お母さんが恋しいのよ!!」


 けれども、九郎は首を縦にはふらないのです。


「ぼくが決めたんだよ、瑠璃るりさん。必死に頼む喜助きすけを見て、どうしても止められなかったんだ」


 九郎は胸元から一枚の紙を取り出し、私に差し出します。

 受け取って中身を見ると、下手くそな字でこう書いてあったのです。


「こるり、おりがと。かあちゃん」


「相変わらず、「あ」と「お」を間違えて……」


 そう言って私はその紙を胸に押し当てました。


「釣りに行くって言ったじゃない。富士男ふじおもさそってさ……」


 その瞬間、私の目から涙が流れ落ちます。母親に甘えたことなんて昨日のたった一回しかないのに、これからはずっと一人で生活していくのです。もう抱いて歌を歌ってくれる人はいないんです。冷たい寝床で、ずっと一人で眠るのです。あまりにも喜助きすけちゃんが不憫ふびんで、私は声を出して泣きました。


 誰も何も話さない中、雨はますます降り続き、時折、霙まじりになって屋根を叩き続けるのでした。

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お前は生け贄だと追放された醜女の姫、どうせ死ぬし~と好きなことをやっていたら愛され人生がスタートしました ちくわ天。 @shinnwjp0888

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