今年の夏はひどく青い

秋待諷月

今年の夏はひどく青い

 カーテンを開け放つと、窓の向こうは快晴だった。

 幾重にも響くジワジワという蝉の声が、早朝の空気に染み渡るようだ。数時間前にエアコンのタイマーが切れた室内は蒸し暑く、汗ばんだ肌にシャツがべたりと貼り付いている。手探りでスイッチを入れた扇風機の柔らかな風が快い。

 すでに熱を帯びている窓ガラスの内側に掌を押しつけ、私はバルコニー越しに空を見上げる。途端に目を刺すその色は、どこまでも深く、鮮やかで、そして濃い。

 今日も青くなりそうだ。


   *


 平成が終わって間もない頃、「令和ちゃん」は気象制御の仕事が苦手なのだと、元号すら擬人化してしまうような人々が揶揄したものだ。線状降水帯による集中豪雨が各地で多発したかと思えば、一転、過酷な猛暑が連日全国を襲う。そんな異常気象が元年のみならず、翌年も翌々年も巻き起こるのだから、せめて冗談めかして皮肉の一つも言いたくなる気持ちは分からないでもない。

 とは言え、「異常」も毎年のこととなれば「正常」にとって代わり、やがては誰も驚かなくなっていくものだろう。


 だが、令和の不器用さは人々の想像を遙かに超えた。

 気象のみならず、「色」までも狂ってしまったのだ。


 令和も十年目に突入した三月、無色透明であるはずの空気が、突然、ほんのりとピンクに色付いた。まるで桜色のガラス越しに風景を透かし見たかのように。

 春に霞む薄雲も名残雪も、ハクモクレンもユキヤナギも、シロクマもハクチョウも、白亜の壁もホワイトボードも、米や砂糖や豆腐や大根も、何もかもが仄かに赤味を帯びて見える。真昼の空すら淡い桃色を重ね塗りされて菫色になり、眺める人に薄明を錯覚させた。

 人々がまず疑ったのは、眼精疲労や眼病、あるいは眼鏡レンズやコンタクトの不具合、そして脳の認知処理機能の問題だった。だがほどなくして、それらは全世界・全人共通して同時期に発生しており、また、映像機器を通してデジタル化した画像や映像であっても同様であることが判明した。つまり人や機械に原因があるのではなく、自然現象の一種ということだ。

 しかし、それから二年経った現在に至っても、原因は解明されないまま。

 太陽白色光の屈折角度とは無関係。人は色のメカニズムについての理解を根底から変えざるを得なくなり、やがて、自然科学界で急浮上してきた新説が注目を浴びることになる。

 曰く、地球上には元々、色と密接に関わる物質が散乱しているのだという。現代科学技術では観測不可能のその物質は、仮に「色因子カラーファクター」と名付けられた。

 色因子は人類史上において常に絶妙なバランスを保ち続けてきたが、そのバランスが近年になって不安定になったというのが、現時点での最有力説である。


 色因子のRGB値異常。


 光の三原色と呼ばれるレッド・グリーン・ブルーの三色を重ねると白色になる。これが、世界が無色透明である理由。よって三色の均衡が崩れれば、世界は色付いてしまうのだ。

 そして、一度バランスを失ったRGB値は刻々と変化するようになった。

 それはちょうど、天気や気温が、季節や日や時間によって変わるのと同じに。


   *


『今日の予想RGB値は、五〇・五〇・二〇〇。午後にはR・Gとも二〇台まで下がり、いっそう青くなるでしょう。午後二時にはB値の移染指数が三〇を超えることが予想され、厳重警戒となります。洗濯物の外干し、窓の開閉、不要不急の外出はできるだけ避けるよう――』

 リビングのテレビから流れるお天気キャスターの声を聴きながら、私はキッチンに立ち、氷をたっぷり詰めたグラスに淹れたての熱いコーヒーを注ぐ。ピシリパシリと、氷に亀裂が走る音。芳醇な香りが鼻腔を満たす。半分ほどを一息で飲み干すと、顎から滴った汗が結露とともにシンクへ落ちた。

 窓を締め切っているため、1LDKの室内は蒸し暑い。扇風機が首を振り振り、申し訳程度の風を送ってくれている。移染指数が高い日は窓を締め切ることが推奨されており、特に猛暑が続くここ数日は、どこの家庭でも冷房を二十四時間稼働させるのが普通だ。だがエアコンの風が苦手な私は、寝付けない夜を除いて極力使用を避けている。

 グラスを持ったままリビングへ移動し、今日の天気・気温とともにRGB計が大きく表示されたテレビ画面の前を素通りして、窓から外を覗き見る。

 青い。

 ブルーキュラソーを一面にぶちまけたようだ。垂れ流された青いシロップが、空だけでなく、世界全てを浸食している。


   *


 「色」は移る。「色因子移染」と呼ばれる現象である。

 色因子異常発生中の外気に長時間晒された物体は、有機物・無機物を問わず、表面に「色」が付着する。構成物や素材による程度の違いこそあれ、移染に犯されない物体は今のところ見つかっていない。元来の色が薄いものほど移染は顕著で、特定のRGB値が極端に高い日などは、丸一日も屋外に置いておけば見事に色が移ってしまう。

 元々濃い色の物体であっても、変色したり、色味を帯びたりする。どれだけはたき落とそうが、洗おうが、漂白しようが、一度移った色は自力では落とせない。

 移染を防ぐ方法は単純で、物理的な外気の遮断、つまり、屋内への避難が最も有効だ。換気等があるため完全に防ぐことは難しいが、その程度の外気接触による移染であれば、肉眼ではほとんど分からない。

 移染されるのは人体も例外ではないが、現在のところ、実害はこれと言って報告されていない。移染された食品や水の摂取についても同様である。皮膚癌になっただの、髪が抜けただのという声こそネット上に溢れているが、因果関係が実証されることは恐らく無いだろう。

 短時間の外出程度では色は移らないし、また、衣服を纏って露出させないことで、皮膚や髪への移染は回避できる。例え移染したところで、薄化粧や毛染めを施したようなものだ。

 そもそも移った「色」は、何もしなくても、やがて自然に抜ける。数日からひと月ほどをかけて、水分が蒸発していくように、ゆっくりと消えていくのである。

 しかし、人々の多くは移染を気にする。

 色因子異常値が大きいときには極力外出を避け、締め切った屋内で過ごすのが常だ。春先の花粉症患者がそうするように。


   *


「行ってきまぁす!」

「ちょっと待ちなさい、ちゃんとスプレーしたの?」

「ヘーキだよ、ちょっと青くなるだけだし」

「だーめ。ほら、腕出して」

 玄関扉の向こう側から声がした。二つ隣の部屋に住んでいる母子が、共用通路でそんなやりとりを響かせている。シュー、とガスが抜ける音と、男の子のくすぐったそうな笑い声。

 市販の移染防止剤は、日焼け止めや冷感スプレーの混合剤のようなものだ。観測すらできていない色因子を既知の化学成分でどうこうできるはずもなく、薬剤塗布で物理的に皮膚を防護しているに過ぎない。SPFになぞらえて、「CPFカラープロテクションファクター50+」などと尤もらしく表示している製品もあるが、数値の根拠は怪しい。

『気象庁によると、B値はこの先も当分高くなることが予想され、八月いっぱいは厳しい青さが続きそうです』

『いやぁ、本当に、この夏の青さは異常ですね――』

 テレビの中でアナウンサーが苦笑する。

 昨秋に日本中が眩い金色に輝いて「黄金の国ジパング」と海外から揶揄われていたときも、その前の冬に各地が新緑の色に染まり、雪原が一面の茶畑のようになったときも、このアナウンサーは「異常」と評していた。


 「異常」も続けば、「正常」になる。

 もはや、世界の「色」は変わるものになったのだ。天気や気温と同じように。


 リモコンを手に取りテレビを切る。残ったコーヒーを飲み干してグラスをテーブルに置き、私はいそいそと動き出した。

 大股で窓際に歩み寄り、掃き出し窓をめいっぱい開け放つ。熱気をはらんだ、だが爽快な風が一気に舞い込んだ。玄関に避難させていたサンダルを持ってきて床に放り、鉄板のように熱されたバルコニーへ足を踏み入れる。


 私を迎えたのは鮮やかな青。


 マンション九階から一望する街は、薄い青にとぷりと沈んでいる。思わず見とれた。家々の屋根も壁も窓も、道路も、その上を走る車も、クヌギに茂る木の葉さえも、うっすらと青いヴェールをまとって涼しげに澄まし顔をしている。どこか幻想的な光景は、まるで海中遺跡だ。

 ホタル族だった隣人は、色因子異常が観測されるようになった時分からバルコニーでの喫煙を諦めた。壁材に染みついていた煙草の匂いは二年の間にすっかり落ち、代わりに、微かな潮の香りが鼻をつく。ここは海から近い。遠くに望む夏の海原が、濃く青く眩い光を放つ。

 階下の住人は軒下に風鈴を吊っているようだ。振り管が鐘を叩き、りんと澄んだ音が風に乗って上階まで届けられた。目を閉じて余韻に聴き入れば、瞼の裏にじわりと青が広がる。大きく息を吸って吐いて、また吸って、私は胸いっぱいに青い空気を取り入れる。

 室内に取って返し、クローゼットから引っ張り出したのは、真っ白な麻のブラウスとレース生地のギャザースカート。ハンガーにかけてバルコニーの物干し竿に吊るし……少し考えて、スカートの上半分にだけ、ふわりと防虫カバーを被せる。

 シューズボックスの最下段で眠っていた未開封の箱の中から、白いスニーカーも取り出した。無地の側面に、細長くカットしたマスキングテープを思うままに貼ってラインを引き、室外機の上にセットする。余ったスペースに古新聞を敷いて、その上に透明なオールド・ファッションド・グラスとガラスビーズのネックレスを並べた。お気に入りのベルーガのぬいぐるみも置いてみる。

 にわかに賑やかになったバルコニーを眺め、私はにやりと笑った。

 部屋に戻って放置していたグラスを洗い、冷蔵庫から出したサイダーを新たに注ぐ。バルコニーの手すりに寄りかかり、青い風に吹かれながらグラスを空へ掲げれば、シュワシュワと泡が弾けるサイダーに空の色が溶けていくようだ。


 今年の夏はひどく青い。

 果てしなく青い空と青い海の狭間を、青いカモメが飛んでいく。






 Fin.

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