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 好きな人をずっと好きでい続ける。もう会えなくなってもなお、思い続けている。そんな美談が、正しいことだは思えない。

 だからこそ、忘れたくないあの記憶をいい思い出だったなって受け止めて前を向けるように、少しずつでも今を見つめて生きていけるようにしたい。

『世界五分前仮説』の答えは、俺たちにはまだわからない。

 けれど、色々なことを考えたうえで信じられるものを見つけられたのなら、俺にしては上出来じゃないだろうか、と思う。


 空が一回転した次の日、俺はまた人気のない朝の学校へ登校していた。

 教室の窓から見える白を多く含んだ水色の空は、今日も眩しくて目を細めたくなる。窓の下の運動場を囲んで生えている木々が、鮮緑の葉っぱを揺らしながら蝉の大合唱を全力でサポートしている。

 今日はもともと朝練はなかったが、こんな時間に登校した理由はもちろんある。それは雪乃に告白の返事をするためだ。


 ぼうっと窓の外を眺めながら、誰もいない教室で雪乃がやってくるのを待っていると、朝の学校も悪くないな、と思えてきてきた。

 四階のこの教室から見える景色を、全部独り占めしているようで贅沢だし、何より、心が落ち着いて浄化されているような心地良さがある。

 そうして十五分くらいが経過したところで、教室前方のドアが開く音がした。


「……え、灮太郎、なんでいるの?」

「別にいいだろ、たまには」

「なにその気まぐれ」


 サラサラの金髪を揺らしながら微かに笑って雪乃が教室に入ってくる。

 若干表情は硬いように見えたが、態度や口調がいつも通りなことに安堵する。

 彼女は昨日のように俺の前の席に横向きに腰を下ろすなり「気とか遣わなくていいよ、返事のことでしょ?」と話を切り出した。

 俺がこんな時間に登校したという時点で、もう彼女は何かを察していたらしい。

 彼女に真剣な瞳を向けられて、俺も息を吐いて覚悟を決める。


「……俺はまだ、やっぱりまだ、好きな人がいるから。だから雪乃のことは考えられない」


 それでも雪乃のことは気の許せる女友達だと思っているし、すごくいいやつだとも思う。

 ぽつりぽつりと、雨のように言葉を落とす。たとえ彼女と俺の気持ちが違うものでも、俺は雪乃の凛と前を向ける姿を尊敬している。

 だから、と言葉を続けようとしたところで、雪乃が俺を制止した。

 何かの感情を殺すように唇を噛み、目を何度か瞬かせた彼女は、沈黙しながら小さく頷いた。


「答えがそうなのは分かってた。でも気休めの言葉とか灮太郎っぽくないから、やめてよ。私が惨めなやつみたいじゃん」


 いや、惨めか、と微かに聞き取れるくらいの小さな声とともに彼女は自虐気味に笑って、はあぁぁぁ、と長く大きく息を吐き出した。

 重い空気が教室に充満して、俺も何も言葉を発せずに押し黙る。

 パチン! という乾いた音が突然教室に響いた。

 はっと顔を上げると雪乃が自分の両頬を自分の両手でピンタしているところだった。叩かれた彼女の頬は微かに赤みを帯び始めている。

 突然のことに呆然としていると、雪乃は強引にも口の端を歪ませて笑った。


「私は、灮太郎みたいにダラダラ恋愛引きずらないから。だから、女子舐めんなよ、恋する乙女は強いから」


 声は揺れていたし、涙目でもあったけれど、彼女はの強い瞳は間違いなく前を向いていた。

 俺よりもずっと強くて、足を踏み出す力を持っている彼女だ。きっとまた、新しい恋を見つけるのだろう。

 そんな姿に心が温かくなってほっとする。


「恋愛、俺の方が下手くそかもな」

「そりゃそうでしょ。こんな顔整ってて無自覚に優しいのに、引っかかる女子がかわいそう。私もかわいそうじゃん」

「立ち直りはやすぎな」

「女子舐めんなー?」

「その口癖いかついな」


 ケラケラと笑いながら、彼女は自然な動作で目尻に溜まった水滴を拭った。だけれど、それには気づかなかったふりをする。

 朝の校舎は静かだけれど、そこに満ちているのは寂しさではなく希望に見えた。

 始まったばかりの一日を、待ち侘びるような希望。

 それは未来を期待して前を向こうとする俺たちにぴったりな気がした。



「で、振ったと? もったいなー」

「昨日のやりとり忘れたのかよお前」


 ホームルームの後、移動教室のために廊下を歩く途中で、俺の話を聞いていた藤田がため息をついた。大袈裟なリアクションに反論の意を示す。

 すると藤田はみるみるうちに目を吊り上げて、飛ぶかかってきそうな勢いで捲し立てた。


「合コン行っても全く彼女ができない俺の身にもなれよ、友達のモテ話ばっか聞かされてさあ!」

「いや、聞いてくるのはいっつもお前だし。ってか、え、藤田て彼女いないの?」

「無自覚の煽りやめろよまじ、あーあなんでこんな奴がモテるんだよ、やっぱ顔かよちくしょう」


 悲壮感を漂わせながら藤田が重すぎる溜め息を吐く。

 ちょうどすれ違った後輩の女子生徒二人組が、藤田のほうを苦笑いで見ながら通り過ぎていく様子に、そういうところじゃないか、と心の中で呟いた。

 そのまま廊下を歩いていると、「合コンといえば、そういえばさー」と藤田が口を開く。


「この前言ってた花菜ちゃんにちゃんとメッセージ送った? 村重花菜ちゃん」

「いや、まだだけど……」

「だろうと思った。ほら、今すぐなにか送れ!」

 

 彼に急かされて、渋々制服からスマホを取り出し『かな』とのメッセージ画面を開く。

 いったいなぜもう会わないであろう女子と連絡を取らなければならないのか。

 はあ、と息を吐き出しながら『ひさしぶりです』と適当な文句を片手で入力し、送信する。

 ぶつくさと文句を垂れていると、右手に握ったままのスマホが振動した。

 返信が早すぎないか、と思いながらスマホをつけた瞬間、だるかった気分が表示された文面によってどこかへ霧散した。


『え、ひさしぶり! 三年ぶり!』


 短い言葉なのに、なぜか俺の中でそれは、とある女子の明るい声で自動再生された。

 三年ぶりなんて意味がわからない。村重と会ったのは一週間前だ。代わりに、三年ぶりなんて一人しか思いつかない。でもここはそんな都合のいい世界じゃない。神様なんていない。

 それでも、もしかしたら。

 スマホに向けた視線を滑らせるように藤田へ向ける。

 俺の様子をしてやったり、というように歯を見せて笑った彼は、俺の心の中なんてわかっているみたいに、ゆっくりと首肯した。


「お前と浦西のことを一番応援してたのって、まあ俺だし。浦西のこと今でも好きなんだろ?」


 そう藤田が得意げに告げる。

 起こっていることに理解は追いつかないけれど、じんわりと目の奥が熱くなってきて、上を見上げながら溢れ出した感情を噛み締める。

 果夏の連絡先を手に入れた経緯を藤田が語り始めたが、俺にとってはそんなことどうだってよかった。

 スマホに視線を戻すと、彼女のアイコンが、彼女が愛用していた黒ピンクのキャップであることに気づく。まだテニスは続けていたらしい。まあ、あのテニス馬鹿なら当然だ。そう思うのに、なぜだかとびきり嬉しくなる。


「藤田、ありがと」


 そう彼を見ると、藤田は満足げに顔を綻ばせる。

 俺の九年以上続いてきた片思いは、こいつのせいでまだ終われないらしい。

 この想いの結末がどんなものでも、前を向いていたい。そして、未来の自分が三秒前の世界を信じられるような濃くて分厚い日々にしたい。

 軽くなった指をスマホのキーボードに乗せた。

 画面に映る空は、何もかもを振り切ったような一色の青に染まっていた。

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三秒前、世界は。 右遠あい @utoo_ai

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