第3話 自慰
地獄、という言葉ですら生ぬるい。あの夕暮れの廊下での一件以来、僕、田中浩介の世界は色を失い、音をなくし、ただただ無間地獄の業火に焼かれ続けるだけの灰色の空間へと変貌した。
同じ教室という閉鎖空間は、僕にとって公開処刑場も同然だった。
僕の席は、窓際の後ろから二番目。玲奈の席は、その二列隣の前から三番目。対角線上に位置する彼女の姿は、嫌でも僕の視界に入ってきた。僕はもはや、授業の内容など全く頭に入らず、ノートを取るふりをして、その視線の先にいる玲奈と、その隣の席の藤堂隼人を一日中、亡霊のように観察し続けるだけの日々を送っていた。
休み時間になれば、藤堂は当たり前のように玲奈の机に自分の椅子を寄せ、楽しそうに話しかける。玲奈は、僕には決して見せたことのないような、とろけるように甘い表情で彼を見つめ、相槌を打ちながらころころと笑う。その笑い声が聞こえるたび、僕の心臓には見えない氷の棘が突き刺さった。二人が何気なく指を絡ませる瞬間、教科書の受け渡しの際に偶然を装って手が触れ合う瞬間、その全てがスローモーションのように僕の目に焼き付き、僕の精神をミリ単位で削り取っていく。
クラスメイトたちは、そんな二人を「理想のカップル」として微笑ましく眺めている。僕だけが、その光景を祝福できない異物だった。誰も僕に話しかけない。僕も誰とも話さない。僕は、教室という名の舞台で繰り広げられる幸福な演劇を、客席の最前列で、ただ一人、憎悪と嫉妬に顔を歪ませながら見せつけられている、滑稽な観客だった。
帰り道は、さらに過酷だった。家が隣同士という呪わしい運命は、僕に逃げ場を与えてはくれなかった。僕が一人、とぼとぼと歩いていると、少し前方を仲睦まじく歩く二人の後ろ姿が見えてしまうことが何度もあった。玲奈の肩を抱く藤堂の腕。彼の制服の裾を可愛らしく掴む玲奈の指。僕がかつて「僕だけのものだ」と思い込んでいた彼女の仕草は、すべて、いとも簡単に他の男のものへと上書きされていた。
僕は、もはや正気ではなかったかもしれない。食欲はなく、夜も眠れない。目を閉じれば、二人の笑顔がフラッシュバックする。鏡に映る自分の顔は、生気を失い、目の下にはどす黒い隈がこびりついていた。それでも、僕は学校を休むことはなかった。休んでしまえば、僕の知らないところで二人の関係がさらに進んでしまうのではないかという、強迫観念に似た恐怖があったからだ。
そして、運命の夜が来た。
季節は夏本番を迎え、夜になってもアスファルトの熱が冷めやらない、蒸し暑い夜だった。
その日も、僕は自室の電気もつけず、カーテンのほんの数センチの隙間から、外を眺めていた。それは、もはや僕の哀れな日課と化していた。玲奈の家の玄関を、そこから漏れる暖かい光を、まるで救いを求める巡礼者のように、しかしその実、呪いを吐きかける悪霊のように、ただじっと見つめるのだ。
案の定、見慣れた二人の姿が現れた。部活帰りなのだろう、大きなエナメルバッグを肩にかけた藤堂が、玲奈を送ってきたのだ。いつもの光景。いつもなら、ここで二、三言交わして、名残惜しそうに手を振って別れるはずだった。
だが、その夜は違った。
「じゃあ、また明日な」
そう言って踵を返そうとした藤堂の、その制服のシャツの裾を、玲奈がくい、と掴んだ。
藤堂が驚いて振り返る。玲奈は、何も言わず、ただ潤んだ瞳で彼を見上げていた。その表情は、僕の知らない、甘くねだるような、雄弁な「女」の顔だった。
「…まだ、帰らないで」
声は聞こえない。でも、彼女の唇がそう動いたのが、僕にははっきりと分かった。
次の瞬間、玲奈は少しだけ背伸びをすると、自分から藤堂の唇に、自分のそれを重ねた。最初は、触れるだけの、小鳥がついばむような可愛らしいキス。だが、それだけでは終わらなかった。
藤堂が彼女の腰を引き寄せ、そのキスに応える。二人の影が、玄関の明かりに濃く映し出され、一つに溶け合う。
僕は息を呑み、カーテンを握りしめる手に力がこもる。心臓が、破裂しそうなほど激しく脈打っていた。嫉妬と、屈辱と、そして、見てはいけないものを見てしまっているという、倒錯した興奮が、僕の中でぐちゃぐちゃに混ざり合う。
その時だった。
藤堂が、ふと顔を上げた。そして、その視線が、真っ直ぐに僕の部屋の窓へと向けられた。
――見られた。
全身の血が、一瞬で凍りつくような感覚。僕は、硬直した。カーテンの隙間から覗く自分の目が、暗闇の中で下劣に光っているのが、自分でも分かる。
藤堂は、僕の存在を完全に認識すると、しかし慌てるでもなく、玲奈の耳元に何かを囁いた。
その言葉を聞いた玲奈が、ゆっくりとこちらを向く。
彼女の視線が、暗闇の中にいる僕の視線を、寸分の狂いもなく、正確に射抜いた。
時間が、止まった。
かつて、僕を優しく見つめてくれたはずの大きな黒い瞳。その瞳が今、僕を捉えている。
そして。
玲奈の口元が、ゆっくりと歪んだ。
それは、僕が知っている、陽だまりのような優しい微笑みでは断じてない。
それは、獲物を見つけた肉食獣のような、全てを見透かしたような、冷たく、残酷な――薄笑いだった。
僕の思考が、完全に停止した。
彼女は、僕に見せつけるように、再び藤堂に向き直った。そして今度は、まるで獣のように、彼の首に強く腕を回すと、その唇を貪り、喰らうように、激しく求め始めた。
「ん…っ、ふ…ぅ…」
漏れる声が、静かな夜の空気に、いやらしく響く。
それはもはや、キスではなかった。互いの舌を絡ませ、唾液を交換し、相手の息ごと吸い尽くさんとする、情欲の応酬だった。玲奈の白い指が、藤堂の汗ばんだうなじを掻き立てる。藤堂もまた、僕の方を挑発するように一瞥すると、玲奈のワンピースに包まれた尻を鷲掴みにし、自分の体に強く押し付けた。
ああ、僕が神聖視していた、純白のワンピース。僕が恋い焦がれていた、清らかな少女。
そのすべてが、僕の目の前で、僕に見せつけるためだけに、意図的に汚されていく。
僕は、金縛りにあったように、その光景から目を逸らすことができなかった。
脳が、灼熱の鉄で焼かれているようだった。
僕が信じていた「片山玲奈」という美しい偶像が、音を立てて砕け散り、その破片の一つ一つが、僕の心臓に突き刺さる。
違う。これは俺の知っている玲奈じゃない。
誰だ。あの女は、誰なんだ。
絶望が、憎しみが、そして理解を超えた何かが、僕の喉からせり上がってくる。
「あ…ぁ…う……」
声にならない嗚咽が漏れた。涙が、頬を伝う感覚すらない。ただ、目の前で繰り広げられる熱く熱烈な裏切りを、僕という名の空っぽの器は、永遠に再生され続ける地獄の映像のように、ただただ見続けることしかできなかった。
あの日、僕の目の前で見せつけられた濃厚なキスの後、僕の精神は完全に壊れてしまった。もはや僕は、生ける屍だった。ただ呼吸をし、心臓を動かし、学校に通い、そして――片山玲奈を監視する。それが、僕のすべてになった。憎しみも、嫉妬も、一周して、もはや彼女の挙動一つ一つを「見届ける」ことが、僕に課せられた使命であるかのように感じられていた。
その日曜日の午後も、僕は亡霊のように街を彷徨っていた。ざわつく胸騒ぎに導かれるように、足は自然と、昔よく玲奈と二人で遊んだ、家の近くの空き地へと向かっていた。雑草が生い茂り、不法投棄されたガラクタが転がる、忘れ去られた場所。その奥に、半壊したトタン屋根の小さな小屋が、墓標のようにぽつんと建っている。
その、静寂に包まれているはずの小屋から、微かに声が聞こえた。
女の、甘く湿った声。
全身の血が逆流するような感覚。分かっている。分かりきっている。それでも、僕の足は、まるで操り人形のように、その音の発生源へと吸い寄せられていく。僕は、息を殺し、崩れかけた壁の隙間に体を寄せ、中を覗き込んだ。
そして、僕の地獄は、完成した。
西陽が差し込む小屋の窓越しに。
僕が焦がれてやまなかった、あの白いワンピースを着た玲奈がいた。
彼女は、小屋の入口に転がっていたコンクリートブロックに、ぴかぴかの黒いエナメルパンプスを履いた右足を乗せ、大きく股を開いていた。そして、その開かれた純白の領域に、後ろから藤堂隼人が、汗ばんだ逞しい体を密着させていた。
立ちバックだった。
玲奈は、バランスを取るように両手を前の壁につき、背中を大きく反らせて、藤堂の獣のような衝動を、その体の最も柔らかな部分で受け止めていた。
「んんっ…!は、やと、くん…っ、あ…、そこ、すごい…っ、気持ち、いぃ…っ!」
喘ぎ声は、途切れ途切れでありながら、信じられないほど明瞭だった。それは苦痛の声ではない。紛れもない、快感の絶頂を求める歓喜の声。その顔は、僕の知らない陶酔の表情で紅潮し、半開きの唇からは、きらきらと唾液の糸が垂れていた。初めてなどではない。その慣れた腰つき、余裕すら感じさせる喘ぎ声が、二人がこうして何度も体を重ねてきたという事実を、雄弁に物語っていた。
藤堂もまた、獣そのものだった。
「玲奈…っ…!いいよ、すごい…締まる…っ!」
彼は、玲奈の腰を掴むと、全力で、一切の躊躇なく腰を振り続ける。トタンの壁が、その振動でガタガタと悲鳴を上げていた。
逃げ出さなければ。
こんなもの、見てはいけない。
僕の大切だった玲奈が、僕の知らない男に、獣のように貪られている。
そう思うのに、僕の体は石のように動かなかった。それどころか、憎しみと絶望に焼き尽くされているはずの僕の下腹部が、裏切り者のように、じくじくと熱を持ち始めていた。この光景から目が離せない。この背徳的な音声に、耳が引きつけられて離れない。
僕は、壁に背を預けたまま、ずるずるとその場に座り込んだ。そして、震える手で、自分のスウェットの紐を解いた。屈服だった。僕は、僕の心を破壊した男と、僕の女神だった女の交合を前に、ひれ伏すしか選択肢はなかったのだ。
その時、二人の動きが一度止まった。藤堂が、ゆっくりと玲奈の体から自身を引き抜く。名残惜しそうに繋がっていた二人の間に、生々しい水音が響いた。
「…今度は、こっち向いて…」
藤堂の掠れた声。玲奈は、こくりと頷くと、くるりと向き直り、今度は正面から、彼の首に強く腕を回した。藤堂は、彼女の体を軽々と抱き上げ、そのまま再び、ゆっくりと結合する。
玲奈の白い両足が、彼の腰に、まるで蛇のように、しかし愛情を込めて絡みついた。そして、信じられないことに、今度は玲奈の方から、自ら腰を振り始めたのだ。
「隼人くん…好き…っ、大好き…!もっと、玲奈のこと、めちゃくちゃにして…っ!」
「ああ…っ!玲奈…っ…愛してる…!お前しかいない…っ!」
主導権を握るかのように、積極的に彼を求める玲奈の姿。その瞬間、僕の中でかろうじて残っていた「僕の知っていた片山玲奈」の最後の残像が、完全に消し飛んだ。
僕の目の前にいるのは、一人の男を愛し、その男に愛されることを知り、快楽のすべてを享受する、一人の「女」だった。僕の入り込む隙間など、一ミクロンも存在しない、完璧な二人の世界。
僕はもう、耐えきれなかった。
目の前で繰り広げられる、僕の敗北の儀式。そのリズムに合わせるように、僕は自分のものを、ただ無心で、激しくしごき続けた。僕の荒い息遣いは、二人の愛の交声にかき消されて、誰の耳にも届かない。
「あっ、あぁっ!もう、出る、俺…っ!」
「待って…!一緒に、いきたい…っ!隼人くん、お願い、一緒に…っ!」
「玲奈ぁっ!!」
「はやとくぅぅんっ!!」
二人の絶叫が、狭い小屋の中に響き渡った。藤堂が、天を仰いで大きく体を震わせ、玲奈が、彼の背中をきつく掻きむしりながら、甲高い悲鳴を上げる。
その、究極の瞬間に。
僕もまた、熱い絶望の奔流を、薄汚れた地面にぶちまけた。
全身の力が抜け、虚脱感が僕を襲う。
喘ぎ声が止んだ小屋の中では、荒い呼吸を整えながら、二人が優しく口づけを交わしているのが見えた。汗で濡れた髪を、藤堂が愛おしそうに撫でてやっている。
僕は、その光景を、虚ろな目で見つめていた。
終わった。
すべて、終わった。
憎むべき相手の、最も幸福な瞬間を見ながら、僕は、快感を得てしまった。
僕の性欲は、僕の絶望を糧にしか、満たされないものになってしまった。
その、どうしようもない屈辱。
自分の存在そのものが、彼らの幸福を際立たせるためだけの、惨めな舞台装置に成り下がってしまったという事実。
「…あ…あぁ……うわあああああ……」
声にならない嗚咽と共に、僕の目から涙が溢れ出した。それは、悲しみの涙か、悔し涙か、それとも、快感の涙だったのか。もう、自分でも分からなかった。
僕の泣き声は、二人が囁き合う愛の言葉の中に、虚しく、虚しく溶けて消えていった。
日曜日の午後の日差しは、まだ明るい。
世界は、僕一人を置き去りにして、どこまでも残酷に、美しく回っていた。
嫉妬と興奮と 写乱 @syaran_sukiyanen
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