第2話 亀裂

 高校生活は、僕が夢見ていた甘い幻想を、いとも容易く裏切っていった。


 もちろん、最初の数週間は完璧だった。新品の制服、真新しい教科書の匂い、そして何より、新しいクラスの名簿に「田中浩介」と「片山玲奈」の名前が並んでいるという事実。それだけで僕は有頂天だった。中学の頃と変わらず、僕たちは一緒に登校し、休み時間にはくだらない話をして、放課後は寄り道しながら一緒に帰る。その全てが、僕が玲奈の「一番」であることの証明であり、僕の脆い自尊心を支える柱だった。


 異変の兆しは、春のうららかな陽気の中に、ほんの些細な影として現れた。

 玲奈が、僕の知らない名前を、特別な響きで口にするようになったのだ。


「今日ね、藤堂くんがね…」


 藤堂隼人。


 その名前は、入学と同時に一陣の旋風のように学校中を駆け巡っていた。名門クラブチームからの推薦でサッカー部に入部した彼は、圧倒的な実力と、誰もが見惚れるようなルックスを兼ね備えていた。日に焼けた精悍な顔立ちに、親しみやすい笑みを浮かべると現れる白い歯。長い手足。ただそこに立っているだけで、周囲の空気が華やぐような、天性のスター性を持った男。おまけに成績まで優秀で、教師からの信頼も厚いというのだから、非の打ち所がない。当然、僕と玲奈のクラスでも、彼は常に輪の中心にいた。


「藤堂くんって、本当にすごいよね。この間のテストも満点だったんだって。サッカーであんなに忙しいはずなのに」


 帰り道、玲奈が心から感心した様子で話す。僕は面白くなくて、道端の石を靴先で蹴飛ばしながら「ふーん」と気のない返事しかできなかった。


「それにね、すごく優しいんだよ。私が日直で黒板を消してたら、背が届かなくて困ってた一番上のところを、何も言わずにさっと拭いてくれて」

「…お節介な奴だな」


 嫉妬だった。醜く、どす黒い感情が、胃のあたりで渦を巻くのが分かった。僕以外の男の話を、そんな宝物みたいに話す玲奈を見るのが、単純に我慢ならなかった。でも、僕はその感情を素直に認めることができなかった。そんなことを気にする自分が、あまりに小さく、惨めに思えたからだ。だから僕は、苛立ちを隠そうともせず、ただ沈黙という鎧を纏うことしかできない。


 僕のそんな態度に、玲奈は気付いていたはずだ。いつもなら、「どうしたの、浩介?」と心配そうに僕の顔を覗き込んでくる彼女が、その日は何も言わず、少しだけ距離を置いて歩いていた。僕たちの間に、目には見えないけれど確かな亀裂が走り始めた、最初の音だった。


 それから、玲奈が僕の隣にいる時間は、少しずつ、しかし確実に削られていった。


 休み時間、僕がいつものように玲奈の席に行こうとすると、彼女はすでに藤堂たちのグループに混じって、楽しそうに笑っていた。僕が今まで見たことのないような、華やかで、屈託のない笑顔だった。僕がそこに加わろうとすると、彼らの会話は一瞬だけ止まり、皆の視線が僕に注がれる。その値踏みするような空気に耐えられず、僕は「…やっぱ、なんでもない」と踵を返すしかなかった。


 放課後も、「ごめん、浩介。今日、部活見学に行くから、先に帰ってて」と言われる日が増えた。最初は「そうか」と気丈に振る舞っていた僕も、それがサッカー部の見学だと知った時、胸の奥が冷たくなるのを感じた。


「玲奈、マネージャーでもやるのかよ」

「ううん、そういうわけじゃないけど…。みんながすごいって言うから、一度見てみたくて」


 そう言ってはにかむ彼女の頬は、夕日とは違う色で淡く染まっているように見えた。

 僕は、寂しさと焦燥感に駆られながらも、何も言えなかった。「行くな」なんて、どの口が言える?僕たちは、付き合っているわけではないのだから。


 ――でも、僕たちの間には、そんな形式張ったもの以上の繋がりがあるはずだ。玲奈だって、僕といるのが一番落ち着くはずなんだ。今はただ、新しい環境に少し浮かれているだけ。すぐに、いつもの日常に戻る。僕の隣が、彼女の定位置なんだ。


 僕はそう自分に言い聞かせ、彼女がくれた優しさの記憶――雨の日の相合傘や、文化祭のペンキ混ぜ、手作りのお守り――を必死に手繰り寄せ、崩れそうな心をなんとか支えていた。


 決定的な瞬間は、夏の気配がじっとりと肌に纏わりつき始めた、ある日の放課後に訪れた。

 その日、僕は教室でうたた寝をしてしまっていた。ふと目を覚ますと、夕暮れのオレンジ色に染まった教室には誰もいない。慌てて時計を見ると、下校時刻をとうに過ぎていた。玲奈は、また先に帰ってしまったのか。そんな諦めにも似た気持ちで廊下に出ると、少し離れた廊下の窓際で、二つの人影が寄り添っているのが見えた。

 玲奈と、藤堂隼人だった。


 西陽が差し込む廊下で、二人は何かを話していた。藤堂が、何か小さな箱のようなものを玲奈に手渡している。玲奈は、はにかむようにそれを受け取ると、宝物のように胸の前でぎゅっと抱きしめた。そして、藤堂が不意に玲奈の髪にそっと触れた。彼女の肩が小さく跳ねる。だが、彼を拒絶する様子はない。むしろ、その頬は夕日よりもずっと濃い赤色に染まっていた。

 僕は、その光景から目を離すことができなかった。心臓が、まるで氷の塊を無理やり飲み込んだように、冷たく固まっていく。頭の中で、「やめろ、見るな」という声と、「見届けろ」という声がせめぎ合っていた。


 その時だった。僕の後ろを通りかかったクラスメイトの女子二人の、ひそひそと交わされる会話が、残酷なナイフとなって僕の耳に突き刺さった。


「ねえ、見た?片山さんと藤堂くん、とうとう付き合い始めたんだって」

「やっぱり!お似合いだもんねー。なんでも、藤堂くんがずっと片山さんのこと好きで、今日、告白したらしいよ」

「え、マジで!?で、返事は?」

「もちろんOKだって!さっき渡してたの、付き合った記念のプレゼントなんだってさ!」


 ――ガン、と後頭部を鈍器で殴られたような、凄まじい衝撃。


 嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ。そんなはず、ない。玲奈が?僕の玲奈が?僕以外の男と?付き合う?


 僕たちの約束は?僕たちが一緒にいるはずだった未来は?白詰草の冠は?おそろいのお守りは?全部、何だったんだ?


 思考が停止し、代わりに真っ赤な激情が全身を駆け巡った。気づいた時には、僕は走り出していた。二人がいる、神聖なはずの夕暮れの廊下に向かって。


「玲奈っ!!」


 僕の獣のような叫び声に、二人は驚いてこちらを振り返った。藤堂が、僕のただならぬ形相に、警戒するように眉をひそめる。玲奈は、僕を見て怯えたように目を見開いていた。

 僕は藤堂など存在しないかのように、その横をすり抜け、玲奈の細い腕を乱暴に掴んだ。


「来い!話がある!」

「い、痛いよ、浩介…っ!やめて!」


 玲奈が腕を振りほどこうとするが、僕は怒りで震える手でさらに力を込める。


「どういうことだよ!説明しろよ!こいつと、付き合うって、本当なのかよ!」


 怒りと混乱で、自分でも何を言っているのか分からない。ただ、僕だけのものだと思っていた宝物を、目の前の男に盗まれたという、その事実だけが僕を狂わせる。


「浩介、離して…!お願いだから…!」


 玲奈の目に、みるみる涙の膜が張っていく。その表情に、僕の心はさらにかき乱された。なんでお前が泣くんだ。泣きたいのは、裏切られたのは、こっちの方だ。

 その時、強い力で肩を引かれ、僕はたたらを踏んだ。見ると、藤堂が僕と玲奈の間に立ちはだかり、僕を睨みつけていた。その目は、いつもクラスで見せる爽やかな笑顔とはまるで違う、静かだが底知れない、冷たい怒りに満ちていた。


「いい加減にしろよ。玲奈が嫌がってるだろうが」

「うるさい!お前には関係ない!これは、俺と玲奈の問題なんだ!」


 僕がそうヒステリックに叫び返した、その瞬間だった。


 ――バシンッ!


 鼓膜を打つ乾いた音と共に、僕の左頬に焼けるような痛みが走った。藤堂に、殴られたのだ。僕は勢いのまま、その場にみっともなく尻もちをついた。


「関係なくない。俺は、玲奈の彼氏だ。彼女を泣かせる奴は、誰だろうと許さない」


 低く、けれど芯の通った声で言い放つ藤堂は、僕の知らない、一人の「男」の顔をしていた。彼こそが玲奈を守るナイトなのだという絶対的な事実を、僕はじりじりと熱を持つ頬の痛みと共に叩きつけられた。


 藤堂は、床にへたり込む僕に一瞥もくれることなく、怯えて震える玲奈の肩を優しく抱いた。


「玲奈、大丈夫か?怖かったな。ごめんな」

「…うん…」


 玲奈は、こくりと頷くと、昔からそれが当たり前だったかのように、藤堂の胸に顔をうずめた。そして、彼のユニフォームの背中を、白い指でぎゅっと掴む。


 僕は、尻もちをついたまま、その光景をただ呆然と見上げていた。

 助けを求めるように、最後の望みを託すように、彼女の名前を呼ぼうとした。


「れな…」


 その瞬間、藤堂の腕に抱かれていた玲奈が、ちらりと僕の方を見た。

 その目に宿っていたのは、僕が今まで一度も見たことのない、冷え切った感情だった。


 同情? 哀れみ? それとも、恐怖?

 いや、違う。


 それは、理解できない異物を見るような、明確な――軽蔑の色だった。


 僕が信じて疑わなかった、僕たちだけの「特別な繋がり」。その幻想の全てを、彼女のそのたった一瞥が、粉々に打ち砕いた。


 玲奈は、すぐに僕から視線を逸らすと、藤堂くんに体を預けたまま、彼の背中に促されるようにして歩き去っていった。コツ、コツという二人の足音が、夕闇が迫る長い廊下に響き、やがて聞こえなくなった。


 オレンジ色の光が消え、青い影が満ちていく廊下に、僕一人が取り残された。

 左頬のジンジンとした熱と、胸を万力で締め付けられるような、それよりも遥かに激しい痛み。


「なんで…」


 呟いた声は、誰にも届かずに虚しく消えた。


 なんで、玲奈はあいつを選んだんだ?

 なんで、俺じゃダメなんだ?

 俺たち、ずっと一緒だって、お前が言ったじゃないか。

 僕の頭の中は、「なんで」という無意味な問いで埋め尽くされていた。


 自分がどれだけ独りよがりで、玲奈の優しさの上に胡坐をかき、彼女を自分の所有物のように扱ってきたか、なんてことには、この時の僕は、まだ気付くことさえできなかったのだ。

 ただ、僕の世界の中心だったものが、大きな音を立てて崩れていく。その亀裂の音だけが、耳の奥で狂ったように鳴り響いていた。

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