嫉妬と興奮と
写乱
第1話 幼馴染み
僕、田中浩介にとって、隣の家に住む幼馴染の片山玲奈は、世界の中心であり、僕という存在を肯定してくれる唯一の光だった。物心ついた時から、僕の視界にはいつも玲奈がいた。それはまるで、太陽が東から昇り西に沈むのと同じくらい、疑いようのない世界の法則だった。
僕たちは同じ年に生まれ、同じ日にこの街の産婦人科で産声を上げたらしい。そんな偶然もあって、僕たちの親同士もすぐに意気投合し、家族ぐるみの付き合いが今も続いている。リビングの古いアルバムには、同じベビーバスで並んで沐浴させられている僕たちの写真が貼ってある。それを見るたび、僕たちの繋がりは生まれる前から運命付けられていたのだと、誇らしい気持ちになった。
僕という人間は、我ながら特筆すべき点のない、むしろ平均より少し劣る部類の男だ。背は高くも低くもなく、顔立ちは眠たげな一重のせいでどこかぱっとしない。運動神経に至っては壊滅的で、50メートル走のタイムはいつもクラスの女子の平均より遅かったし、球技をやらせれば明後日の方向にボールを飛ばしては失笑を買うのが常だった。勉強も好きではなく、教科書を開けば数分で意識が遠のく。
そんな僕にとって、玲奈はあまりにも眩しい存在だった。
玲奈は、昔から本当にいい子だった。誰にでも分け隔てなく優しくて、いつも柔らかな微笑みを絶やさない。その笑顔は、曇り空に差し込む陽光のように、周りの空気をふわりと暖かくする力を持っていた。透き通るように白い肌に、少しだけ色素の薄い、光に当たると柔らかな栗色に見えるストレートの髪。大きな黒い瞳は、何かを見つめる時にいつくしむような色を宿す。クラスで誰かが仲間外れにされていれば、真っ先にその子の隣に行って「一緒にやろう?」と声をかけるのは玲奈だったし、先生が重い荷物を運んでいれば、さっと駆け寄り「先生、持ちます」と自然に手を差し伸べるのも玲奈だった。
そして、僕に対しては、その優しさはさらに濃度を増して、惜しみなく注がれていたように思う。
あれは小学校二年生か三年生の頃だったか。急な夕立に降られ、僕は校門の前で一人、途方に暮れていた。傘を持ってきていない。雨脚は強まる一方で、空は不気味な灰色に沈んでいく。心細さで泣きそうになっていた僕の肩を、後ろから誰かが優しく叩いた。振り返ると、ピンク色の傘を差した玲奈が立っていた。
「浩介、傘ないの?一緒に入ろ?」
そう言って、僕の体が濡れないように、傘をぐっと僕の方へ傾けてくれる。小さな傘の中で、僕たちの肩が触れ合った。彼女のシャンプーの、甘い石鹸のような香りがふわりと鼻をかすめる。その帰り道、僕は雨に濡れることよりも、彼女との距離の近さに心臓が早鐘を打つのを感じていた。僕にとって、あのピンク色の傘の下は、世界で一番安全で、幸せな場所だった。
中学校に上がっても、彼女の存在は僕の支えであり続けた。
文化祭の準備で、クラスで大きな背景画を描くことになった時だ。僕は絵を描くのが苦手で、任された部分を下手くそな手つきで汚してしまい、クラスのリーダー格の男子に「おい田中、使えねーな。もう何もしなくていいよ」と吐き捨てられた。居場所がなくて、教室の隅で膝を抱えていた僕の元に、玲奈がやって来た。
「浩介」
彼女は僕の隣にしゃがみ込むと、怒るでもなく、慰めるでもなく、ただ静かに言った。
「ペンキを混ぜるの、手伝ってくれる?私、一人だと大変なの。浩介は、色を混ぜるの、上手だもんね」
そんなこと、一度も褒められたことなんてなかったのに。でも、彼女がそう言ってくれるだけで、僕は自分が無価値な人間ではないと思えた。二人でペンキの缶を並べ、彼女の指示通りに色を混ぜていく。その共同作業は、僕に汚名を返上する機会と、ささやかな誇りを与えてくれた。
そんな玲奈だから、当然のように男子からは絶大な人気があった。小学校の頃から、何人もの男子が玲奈に告白しているのを僕は知っている。そのたびに僕の心はざわついたが、玲奈はいつも困ったように眉を下げて、丁重に断っていた。
「ごめんなさい。私、今はそういうの考えられなくて」
その言葉を聞くたびに、僕は胸の奥で勝利のガッツポーズを取っていた。そして、同時にこう確信していたんだ。
――玲奈は、僕のことが好きだから断っているんだ、と。
僕たちの間には、言葉にしなくても分かる、魂レベルの特別な繋がりがある。そう、信じて疑わなかった。僕たちは、いずれ大人になったら、きっと自然な流れで一緒になる。結婚して、この街で、今の僕たちの親のように、当たり前に家族になるんだと。何の根拠もないその妄想は、僕の中で揺るぎない未来予想図として完成されていた。
だから、僕は玲奈に「好きだ」と告白したことがない。それは、空に向かって「あなたは青いですね」と言うのと同じくらい、無意味で野暮なことだと思っていたからだ。僕の気持ちなんて、玲奈はとっくに分かっているはずだし、玲奈の気持ちだって僕には手に取るように分かる。僕たちが両思いなのは、この世界に重力があるのと同じくらい、当たり前のことだった。
高校受験も、僕は迷わず玲奈と同じ高校を選んだ。正直、僕の学力では無謀とも言える挑戦だったが、玲奈が毎日のように僕の部屋に通い詰め、「ここはね、この公式を使うんだよ」と、まるで自分のことのように真剣な眼差しで教えてくれた。試験の前日には、「これ、お守り」と言って、小さなフェルトの手作りマスコットをくれた。小さな字で「合格」と刺繍されている。彼女も同じものを持っていて、「おそろいだよ。これがあれば大丈夫」と微笑んだ。僕はそのお守りを、まるで婚約指輪のように大切に握りしめて試験に臨んだ。
奇跡的な合格。発表の日、自分の受験番号を見つけた時よりも、隣で「やったね、浩介!」と涙ぐみながら僕の手を握ってくれた玲奈の温もりを感じた時の方が、何百倍も嬉しかった。
そして、高校生活が始まった。季節は初夏。新しい制服に袖を通すのが、まだ少しだけ気恥ずかしい季節。
僕たちの高校の女子の夏服は、白いセーラー服だった。紺色のスカーフをきゅっと結び、真っ白なセーラーカラーが風にそよぐ。玲奈がそれを着ると、彼女の持つ透明感が際立ち、まるで物語の登場人物のように見えた。夏の強い日差しを弾くような、その潔いまでの白さが僕は好きだった。
休日、玲奈と会う時の私服は、決まって白いワンピースだった。デザインは少しずつ違うけれど、いつも決まって白。ふんわりと風をはらんで広がるスカートに、ウエストには細いリボン。そして足元は、くるぶしに小さなリボンがついた短めの白いソックスと、ぴかぴかに磨かれたエナメルの黒いパンプス。それが彼女の絶対的なスタイルだった。その純白の装いは、彼女が誰のものでもない、清らかな存在であることの証明のように僕には思えた。
その日も、玲奈はそんな純白の出で立ちで僕の前に現れた。
「浩介、行こっ」
高校に入って初めての、二人きりの休日。約束の場所は、昔から二人のお気に入りだった、少し小高い丘の上にある公園。
公園までの道すがら、青葉の匂いを乗せた風が僕たちの間を通り抜けていく。道の脇には、シロツメクサがまるで緑色のじゅうたんに白い刺繍を施したかのように、一面に咲き誇っていた。玲奈は「わあ、きれい」と子供のようにはしゃぐと、その場にしゃがみ込み、慣れた手つきでシロツメクサを摘み始めた。
僕は、そんな彼女の隣に腰を下ろして、飽きることなく横顔を眺めていた。陽の光を浴びて、彼女の柔らかな髪がキラキラと輝いている。白いワンピースの裾から覗く、白いソックスに包まれた華奢な足首。その完璧な造形の一つ一つが、愛おしくて、僕だけのものだと信じていた。
やがて、玲奈は小さな冠を二つ作り上げると、一つを僕の頭に、もう一つを自分の頭に、そっと乗せた。
「ふふ、浩介、似合ってるよ。お花畑の王子様みたい」
鏡がないから自分の間抜けな姿は分からないけれど、玲奈は本当にお姫様みたいだった。シロツメクサの素朴な冠が、彼女の清楚な魅力を一層引き立てている。僕は照れくさくて、「お前こそ、本物のお姫様みたいだな」と、思ったままを口にすると、彼女は嬉しそうに頬を染めた。
僕たちは、そのまま芝生にごろりと寝転がった。見上げる空は、どこまでも青く、高く澄み渡っている。
「高校、楽しいね」玲奈がぽつりと言った。
「そうだな」
「クラス、浩介と一緒でよかった。やっぱり、浩介といると一番落ち着くな」
その言葉だ。その言葉が、僕の心を甘く満たす。彼女の「落ち着く」は、僕への「好き」の言い換えだと、僕は解釈していた。この心地良い関係が、この先もずっと、永遠に続いていく。
「玲奈はさ、部活どうするんだ?決めたのか?」
「うーん、まだ迷ってるんだ。中学の時は吹奏楽部だったけど、高校では何か違うこともしてみたいなって。浩介は?」
「俺は…帰宅部かな。部活とか、疲れるし」
情けない答えだと自分でも思う。でも、玲奈はそんな僕を否定しない。
「そっか。じゃあ、また一緒に帰れるね」
そうだ。それが一番大事なことだ。部活なんて始めたら、この「一緒に帰る」という、僕にとって一日で最も幸福な儀式が失われてしまう。
僕たちは、しばらく無言で空を眺めていた。遠くで聞こえる教会の鐘の音、鳥のさえずり、風が木々の葉を揺らす音だけが、僕たちの間に流れる。このまま時が止まってしまえばいいのに、と本気で思った。
この穏やかで、幸せに満たた時間が、僕たちの「当たり前」だった。
この時はまだ、知らなかったのだ。
当たり前だと思っていた日常は、熟れすぎた果実のように脆く、たった一人の男の出現によって、いとも簡単に腐り落ちてしまうということを。
そして、僕が信じていた「特別な繋がり」が、ただの独りよがりな、あまりに身勝手な幻想に過ぎなかったということを。
シロツメクサの冠を乗せた玲奈の笑顔は、僕の記憶の中で、幸せな日々の完璧な象徴として、この先永遠に色褪せることなく輝き続けることになる。残酷な未来を知らない、無垢で、愚かで、幸福の絶頂にいた僕の、最後の宝物として。
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