穢れと涙

真花

穢れと涙

 人を殺しました。

 どうしても許せなかった。それに、殺さなければ私が殺されていた。

 毎日、金をせびり、私を働かせて、殴り、その金で他の女を抱いていた。文字にしてしまえばそれだけのこと。逃げればいいと思うでしょう? 追い詰められ続けるとそう言う発想も出なくなる。今はそこから抜け出したから、逃げることも考えられる。でも、渦中にいる間は何も見えなくなって、逃げ損ねたら殴り殺されることしか考えられなかった。

 私は生きたかった。繰り返される暴力の日々の中では生きているとはとても言えなかった。だからあの人を殺した。寝ているときに包丁で何度も刺して確実に、息の根が止まるまで刺して、どこか料理に似ているなぁ、と思ったときには完成していた。赤く染まった布団を見て、包丁を握っていたからか赤くない手のひらを見て、この人が抵抗せずに死んだのはきっと私が今まで抵抗しなかった分のご褒美だと思った。私はシャワーを浴びて清潔な服に着替えて化粧をしてから警察を呼んだ。

 とんとん拍子に刑罰が決まって、懲役が始まり、もうすぐ終わるところです。どうあったってもう済んだことは変わらないし、過ぎた時間は返って来ないから、嘘は言わない。私は反省などしていない。今だって被害者は私だと思っているし、あの人の支配から抜けるためには必要なことだったと思っている。


岡崎おかざきさん。率直ですね」

「私はずっとこう考えていますし、偽る必要はないと思います」

「遺族の方が見たらどう思うでしょうか」

「あの人の罪を知ればいいんです」

「あなたは遺族の方に手紙を書いたりしませんね」

「自分の家族を殺した人からの手紙なんて、来ても不愉快極まりないだけです。よく美談的に遺族に手紙を送り続ける囚人の話がありますけど、あれは汚物を投げ付け続けているのと同じくらいの不愉快さを与えているはずです」

「反省を伝えるのでも?」

「そもそも読まずに捨てると思います。それに私は反省をしていません」

 刑務官は私の書いたものをファイルに入れた。私は部屋から出され、自室に戻った。その紙がどうなるのか私は知らない。これまでも何度も書いては渡して来た。同じことをずっと、少しずつ言葉を変えて書いた。それが刑期に影響するとは思えなかったし、影響したとしてもどうでもよかった。現に、刑期はもう終わる。


 出所の日、それは朝で、両親と妹が迎えに来てくれた。最初に母が私を抱き締めた。

「おかえり」

 母は涙組んでいた。私は速やかにスイッチを切り替えることが出来なくて、硬い石像のように抱き締められるに任せたまま、ただいま、と呟いた。妹がそこに加わって、ギュッとする。

「お姉ちゃん。おかえり」

 私はどうしてか父を探した。父は一歩引いたところから私達の塊を見ていた。私と目が合うと許すように頷いた。私が急に涙になって、ただいま、と言いながら泣いた。自分にこんなに泣く機能が残っていたことに驚きながら涙をたくさん流した。泣きながら、あの人によって自分が穢れたこと、あの人を殺したことによって穢れたこと、それらが服役によって洗われはしないまま私に残っていることを思い出した。汚い私を包み込む家族に申し訳がなくて、それでも、それ以上のことを感じているから涙が出るのだ。

 父の運転する車に乗って実家に戻った。私の部屋はあの日飛び出したときのまま保存されていた。十何年ぶりに食べる母親のご飯の味に、四人で食べていると言う事実に、また涙が出た。

「美味しい」

「よかった」

 だが誰も私の罪と罰については訊かない。裁判があったから十分に知っているからなのか、今更掘り返したくないからなのか。私から話すのを待っているのか。ほとんど会話をせずに食事が終わった。

真奈美まなみ、ちょっといいか?」

 父が居住まいを正しながら言うから、はい、と応えた。母と妹も席に座ったままだ。

「真奈美は色々あったけど、今ここで生きている。お父さんとお母さんの娘で、智恵美ちえみの姉だ。それは動かない事実だ。それで一つだけ確認しておきたいことがある。それは、真奈美はこれからも未来に向かって生きていくと言うことだ。人生は終わっていない。しばらくしっかり休んでもいいけど、その後はちゃんと自立していって欲しい。そして、ちゃんと幸せになって欲しい。いいか?」

「分かってる」

 自立はするつもりだし当然だし、だが、幸せになる権利が自分にあるとは思えない。そんなことを言ったら両親が不安になるから言わないが。話はそれだけで、十分だと私も思ったし、皆もそう感じているようで、父が頷いたのを合図に皿の片付けに入った。

 妹は家庭があるらしく、また来るね、と言って帰って行った。自分の部屋にあるものを確認して、あの日連れて行かなかったもの達の中にも大切にしていたものがあったり、残された服のセンスが今の私とはかけ離れていたり、ベッドの寝心地がよかったりして、もう一度一階の居間に戻ったら父がスーツを着ていた。

「どうしたの?」

「仕事」

「行ってらっしゃい」

 玄関まで父を送った。母も買い物に行くと言う。

「一緒に行く?」

「今日は休む」

「そうね。それがいいわね」

 泣いたせいなのか、酷くだるい。部屋着に着替えてベッドに横になった。

 幸せになるって、どう言うことだろうか。やっぱり結婚して子供を産むってことなのかな、お父さん的には。でも幸せってそればっかじゃない気がする。家族が待っていてくれたことだって幸せなはずだ。でもそれではないものを得ろと言った。……どれであっても私には幸せを享受する資格はない。あの人の穢れがずっと残っている。あの人のせいで溜めた穢れも、あの人を殺したせいで受けた穢れもある。反省しないのがいけないのかも知れない。お父さんはきっと過去はもういいから、と言いたかったのだと思う。そんな簡単じゃない。でもだからこそ敢えて今日伝えたのだ。少なくとも、前に進まないといけない。幸せなんてずっとないかも知れない。それでも、停滞するのはもう終わりだ。


 ファミレスのホールスタッフのアルバイトに就いた。履歴書には服役とは書かずに無職だったと書いた。嘘ではない。嘘と真実の中間のものをどちらと取るかはその人の期待次第だ。面接した人は私を採用したい方に期待したようだ。客商売なんてお手のものだ。あの人の時代に培ったものが生きるのが苦い。苦いが、役には立つ。足はパンパンになるし体力は使うしで楽ではないが、ちゃんと働けることが嬉しかった。罰としての刑務作業ではないのだ。お父さん、これも幸せに含まれるの? 訊いてみたかったが訊かなかった。多分、違うし、違うけど否定も出来ないから困らせるから。

 週五日ファミレスで働いて、残りの二日は普通の人のように買い物に行ったり映画を観たりした。人間関係は全て閉じているから、母のおつかいに付き合う以外は一人だった。服役中の淡々とした消しゴムで消していくような日々から、鉛筆で何かを書くような日々になった。その先に何が待っているのか分からないが、私は今を息していた。相変わらず穢れたままである実感が胸の底にこびり付いていた。


 一年が経過した。ファミレスのメンバーは緩やかに変わって行く。

「今日からお世話になります近藤こんどうです。よろしくお願いします」

 私より十歳は下だろう近藤に教えることが多くあった。近藤は穏やかでやさしく、物覚えがよかった。数ヶ月後、食事に誘われた。

「私と?」

「そうです」

「おばさんですけど?」

「そんなことはないです」

「まあ、いいけど」

「よっしゃ!」

 近藤がとっておきですと私を連れて行ったイタリアンには来たことがあった。だがそんなことは言わない。サーモンのスパゲッティが確か美味しかった。知らないフリをして偶然の発見を装って注文する。食事が来て食べる最中までは、ファミレスであった小さな事件達のことや、それぞれの好きなアニメや小説の話をした。デザートが来るまでの間隙に近藤がヒュッと緊張する。

「岡崎さんは、彼氏とか、いるんですか?」

 真摯な奴だなぁ。彼氏よりもずっと恐ろしいものを持っているよ。

「いないよ」

「彼氏を作る予定はありますか?」

「ないよ」

「僕と付き合ってくれませんか?」

 早くない? 私は目を見開いてから細める。

「私、過去があるの。でもそれは言えない。万が一外に漏れたら私はこの街にいれなくなるから。隠し子はいないよ。それでもいいなら」

「過去、ですか」

「そう。秘密の過去」

「ちょっと、考えさせて下さい」

「いいよ。ゆっくりね」

 デザートは小さかったが美味しかった。ジェラード的な何かだった。店を出て路地を歩く。歩いている感じは悪くない。背の高さの差とか幅とか距離の取り方とか。お父さん、これは幸せが来ているのでしょうか。果たして近藤君が私と付き合うと言ったとて、結婚まで行くかは分からない。それともカップルになっただけで幸せでいいのだろうか。でも、カップルになった程度では私の過去は披露出来ない。結婚した後に言う? それも詐欺っぽい。付き合って、結婚を真剣に考え始めたら言うか。もし漏らされたら悲惨だけど、そのリスクを背負ってもいいと思えたら、言おう。近藤が、岡崎さん、と私を呼ぶ。振り向いた拍子に目が合う。

「その過去って、僕には想像も出来ないのですけど、そのせいで幸せになってはいけないとか考えてますか?」

 胸をくん、と突かれた。

「そうね。図星よ」

「僕は今の岡崎さんが好きです。それは過去があったから今があるのかも知れないし、過去と関係なく今があるのかも知れない。僕には分からないけど、過去の岡崎さんに負けるよりもずっと今と未来の岡崎さんが勝つと思います。いや、僕がいれば勝つと思います」

「そっか」

「過去に囚われてしまうならそれは確かに幸せになれないと思います。前に進むからこそ幸せになるんです。……僕と、前に進んで下さい」

「本当に、過去のことはいいの?」

「いいです。全部呑みます」

「私のこと殴ったりしない?」

「する訳ないでしょ」

「お金むしらない?」

「あり得ないです」

「おばさん扱いしない?」

「しませんよ」

「じゃあ、よろしくね」

「……はい!」

 近藤は天から糸が降りて来て顔中を引っ張ったみたいな笑顔になって、私も急に嬉しくなって笑う。お父さん、先のことは分からないけど、私、今、幸せかも知れない。

 もう少し一緒にいたかったので、バーに二人で入った。マティーニが美味しかった。まるで二人を表しているような味だった。

 近藤はやさしかった。あの人を含めて過去に付き合った男達は皆自分勝手だった。男の価値を私は見誤っていた。暴力性や悪さに色気を感じていたのが間違いだった。いや、感じてしまうのは仕方がないとしてそれで男性を選んだことが失敗だった。人生のトンネルを潜り抜けてやっと、男の価値はやさしさなのだと理解出来るようなったし、近藤を選び続けるように、やさしさを基準に選ぶことが出来るようになった。私も最大限のやさしさを出して、二人の時間を育てた。

 一年半後、近藤が結婚を前提にしよう、と言い出した。私もそれがいいと思った。

「私の秘密の過去、聞く?」

「聞いても気持ちが変わることはないけど、聞きたい」

 空が永遠を感じそうなくらいに青かった。私達はベランダで欄干に肘をついて横並びに立っていた。

「私、人を殺しているの。それで服役していた」

「……理由があったんでしょ?」

「殺さないと、私が殺されていた。生きることの全部を奪われてた」

「そっか」

「どうする? 別れる?」

 近藤は私の肩をギュッと寄せる。

「別れない。辛い話をさせてごめん。僕の愛は変わらない。人にも言わない」

 私の目からひと雫の涙が零れて、それからたくさんの涙になった。ぼたぼたと涙は頬を伝って落ちて行く。まるで私の中の穢れが涙になって体から抜けて行くみたいだった。

「ありがとう」

「当然だよ。……真奈美、前提じゃない。その涙が出切ったら、結婚しよう」

「……うん」

 涙はずっと出続けた。十年以上溜めたものを全て吐き出そうとしていた。近藤はしっかりと私を支えていた。お父さん、私、幸せになる。

 全ての涙が出切った眼を近藤が指でやさしく拭った。空がゆっくりとオレンジ色に変わり始めていた。私達はシルエットになって、そっとキスをした。


(了)

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