鍋の底

高村茉莉

鍋の底

私は、今日も鍋に火を入れる。

黒くて重い、取っ手の焦げた古い鍋。


部屋の中心にあるテーブルの上。

ガスコンロの音が、じりじりと鳴る。

視界から外れると、不安になる。


その鍋の中身を温めると——声がする。

ぽこ、ぽこ、という音に混じって、ときどき声が聞こえる。

湯気の向こうから、あの子が、私の名前を呼ぶような気がする。


「ナツミ」


私は火加減を弱める。

音が途切れないように。

焦がしてはいけない。ぐつぐつ煮立たせすぎると、声が割れてしまうから。

息を潜めて、湯気を眺める。


「ぁ  ぁ  」

鍋の奥で泡立つように、

揺れ動きながらこぼれる声。

声が聞こえると、少しだけ安心する。


……けれど。

最近、声がかすれてきた。

何度も煮て、何日も経って、なにかが少しずつ、減っている気がする。

でも、それを確かめたりはしない。

蓋を開けてしまったら、もう二度と声が聞こえなくなる気がして。


ガスの火が、不意に小さくなる。

カートリッジの中身が、尽きかけている。

私はカチカチとつまみを回すけれど、火は弱いままだ。

こんなこと、永遠には続かない。



今朝、鍋に火を入れても、なにも聞こえなかった。

私はおそるおそる鍋に顔を近づける。

「……ねえ、起きて。返事して」

火を弱め、また強め、しばらく耳を澄ます。


……返事はない。


鍋の中がどうなっているのか、たしかめたくなる。

けれど私は、蓋を開けない。

今までずっとそうしてきた。これからも変わらない。


鍋の底から、いつもと違うにおいが立ちのぼる。

鉄が焼けるようなにおいと、何かが焦げたような気配。

それでも私は、静かに水を足す。

視線は鍋ではなく床へと外しながら。

ぬるりとした感触と、じゅっという音。

熱せられた鍋が悲鳴のような音を立てるたび、

声が戻ってくるかもしれないと、息を止めて待つ。



沈黙に耐えられずテレビをつけると、ニュースが流れていた。

「○○区で行方不明になっている女子大学生について——」

スタジオの音声のあと、街頭インタビューの映像。

泣いている女性と、その隣で静かに話す青年。

字幕に並ぶ「母親」「兄」という文字。

声は震えていた。「どうか、些細な情報でも……」


私はリモコンを手に取って、音を消す。


——あのとき、私はどんな顔をしていたんだろう。

泣きもせず、叫びもせず。キッチンバサミを持って、

冷蔵庫の中から取り出すみたいに、順番に手を伸ばして。


「……これ、本当に私がやったのかな」


そんなふうに思いながら、

鍋を並べて、火をつけて、水を沸かして。

蒸気で部屋が曇っていくのを、ただ見ていた。


この鍋の他にも、いくつかあった。

赤いの、土鍋、ミルクパン。

順番に使って、上手くいかなくて、順番に捨てて

最後に残ったのが、この鍋だった。


重たくて、古くて、深くて。

これだけは——声がした。


あの子の声。

私だけに向けられた、やわらかい呼びかけ。


彼女とのツーショット写真が冷蔵庫に貼ってある。

笑っている。手にはケーキ。

私の誕生日にインスタントカメラで撮ったものだ。少し画角がズレている。

「一番の親友!」とマジックで、彼女の字で書いてある。

それを読んだとき、私は少しだけ黙ってしまった。

なんでだったんだろう。

確か、笑って返したはずだけど。心のどこかで何かが離れてしまった気がした。

でも、ここから聞こえる声は、ずっと私を呼んでくれる。

鍋の中から。煮立った底のほうから。


──だから私は、火を絶やさない。


ぐつぐつ、ぐつぐつ。

音はしている。でも、声は聞こえない。

蒸気が静かに部屋を満たしていく。


私は鍋の前に座ったまま、声を待つ。

さっきから、なんとなく寒い気がする。

あの子はまた私の手の届かないところへ行ったのだろうか?


……でも、また、煮れば。

もしかしたら、また、声が。



私は、友達を鍋の底に隠した。

そして今日もまた、声が聞きたくて、

焦げついた鍋に水を足す。


今夜も鍋に火を入れる。

鍋の底がひび割れて、黒くなっても、

私は蓋を、開けたりしない。

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鍋の底 高村茉莉 @takamuramari

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