鍋の底
高村茉莉
鍋の底
私は、今日も鍋に火を入れる。
黒くて重い、取っ手の焦げた古い鍋。
部屋の中心にあるテーブルの上。
ガスコンロの音が、じりじりと鳴る。
視界から外れると、不安になる。
その鍋の中身を温めると——声がする。
ぽこ、ぽこ、という音に混じって、ときどき声が聞こえる。
湯気の向こうから、あの子が、私の名前を呼ぶような気がする。
「ナツミ」
私は火加減を弱める。
音が途切れないように。
焦がしてはいけない。ぐつぐつ煮立たせすぎると、声が割れてしまうから。
息を潜めて、湯気を眺める。
「ぁ ぁ 」
鍋の奥で泡立つように、
揺れ動きながらこぼれる声。
声が聞こえると、少しだけ安心する。
……けれど。
最近、声がかすれてきた。
何度も煮て、何日も経って、なにかが少しずつ、減っている気がする。
でも、それを確かめたりはしない。
蓋を開けてしまったら、もう二度と声が聞こえなくなる気がして。
ガスの火が、不意に小さくなる。
カートリッジの中身が、尽きかけている。
私はカチカチとつまみを回すけれど、火は弱いままだ。
こんなこと、永遠には続かない。
*
今朝、鍋に火を入れても、なにも聞こえなかった。
私はおそるおそる鍋に顔を近づける。
「……ねえ、起きて。返事して」
火を弱め、また強め、しばらく耳を澄ます。
……返事はない。
鍋の中がどうなっているのか、たしかめたくなる。
けれど私は、蓋を開けない。
今までずっとそうしてきた。これからも変わらない。
鍋の底から、いつもと違うにおいが立ちのぼる。
鉄が焼けるようなにおいと、何かが焦げたような気配。
それでも私は、静かに水を足す。
視線は鍋ではなく床へと外しながら。
ぬるりとした感触と、じゅっという音。
熱せられた鍋が悲鳴のような音を立てるたび、
声が戻ってくるかもしれないと、息を止めて待つ。
*
沈黙に耐えられずテレビをつけると、ニュースが流れていた。
「○○区で行方不明になっている女子大学生について——」
スタジオの音声のあと、街頭インタビューの映像。
泣いている女性と、その隣で静かに話す青年。
字幕に並ぶ「母親」「兄」という文字。
声は震えていた。「どうか、些細な情報でも……」
私はリモコンを手に取って、音を消す。
——あのとき、私はどんな顔をしていたんだろう。
泣きもせず、叫びもせず。キッチンバサミを持って、
冷蔵庫の中から取り出すみたいに、順番に手を伸ばして。
「……これ、本当に私がやったのかな」
そんなふうに思いながら、
鍋を並べて、火をつけて、水を沸かして。
蒸気で部屋が曇っていくのを、ただ見ていた。
この鍋の他にも、いくつかあった。
赤いの、土鍋、ミルクパン。
順番に使って、上手くいかなくて、順番に捨てて
最後に残ったのが、この鍋だった。
重たくて、古くて、深くて。
これだけは——声がした。
あの子の声。
私だけに向けられた、やわらかい呼びかけ。
彼女とのツーショット写真が冷蔵庫に貼ってある。
笑っている。手にはケーキ。
私の誕生日にインスタントカメラで撮ったものだ。少し画角がズレている。
「一番の親友!」とマジックで、彼女の字で書いてある。
それを読んだとき、私は少しだけ黙ってしまった。
なんでだったんだろう。
確か、笑って返したはずだけど。心のどこかで何かが離れてしまった気がした。
でも、ここから聞こえる声は、ずっと私を呼んでくれる。
鍋の中から。煮立った底のほうから。
──だから私は、火を絶やさない。
ぐつぐつ、ぐつぐつ。
音はしている。でも、声は聞こえない。
蒸気が静かに部屋を満たしていく。
私は鍋の前に座ったまま、声を待つ。
さっきから、なんとなく寒い気がする。
あの子はまた私の手の届かないところへ行ったのだろうか?
……でも、また、煮れば。
もしかしたら、また、声が。
*
私は、友達を鍋の底に隠した。
そして今日もまた、声が聞きたくて、
焦げついた鍋に水を足す。
今夜も鍋に火を入れる。
鍋の底がひび割れて、黒くなっても、
私は蓋を、開けたりしない。
鍋の底 高村茉莉 @takamuramari
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