第4話 揺れ戻る感情、さよなら

放課後の教室に、静かな夕方の光が差し込んでいた。

模試が近いから、私はひとり、進学クラスの机に向かい、復習をしていた。

突然、


「……香菜。」


聞き慣れた声に、私はびくりと顔を上げた。

そこに立っていたのは――強志くんだった。


「ねー、香菜、作文の宿題……ちょっと手伝ってくれない?。」


「……え?。」


不意の言葉に、手から鉛筆が滑り落ちそうになった。


「職員室前の掲示板見てきたらさー。卒業文集のやつ、出てて。将来の夢、六百字。……マジで無理ー!。」


「……でも、どうして私に?。」


「え、だって香菜って文章得意だろ?昔も教えてもらってたしー。」


“昔”という言葉が、胸の奥でそっと疼いた。

――距離を置いたのは、私のほうだった。

何も言わずに、静かに遠ざかったのに。


なのに、こうしてふいに目の前に現れて。

あの頃と変わらぬ声で、名前を呼ばれると、心が追いつかなくなる。


「うん……いいよ。紙、出して。」


そう答えながら、私は震える手でノートをめくった。


彼と並んで作文に向かった時間は、ほんの二十分ほど。

でも私には、それが永遠にも、一瞬にも思えた。


「将来はまだ決まってないけど、誰かの役に立てたらいいなー。」


強志くんは、不器用な言葉でそう言った。

私はそれをなるべく淡々と、でも彼らしさが消えないようにまとめていった。


「……さすが香菜先生。マジ助かったー!。」


彼が無邪気に笑った。


明るくて、ちょっと不器用で、でも優しい――

いつも通りの彼は、何も変わっていなかった。


それからも、強志くんは何度か教室に顔を出した。


「香菜、今回の現代文の課題、あれってさ……。」


「ねー、香菜、社会のレポートはどの資料使った?。」


少しずつ、会話が自然に戻っていった。

ただ、“香菜”と呼ばれるたびに、その一言がまた私の胸に波紋を落としていく。


***


そして、ある日のことだった。


私はひとり教室に残り、模試の対策に問題集を開いていた。

わからない箇所に付箋を貼りながら、無心でページをめくっていく。

進学クラスの空気は、もう“戦い”の色を帯びていた。

そのとき――


「香菜……また、来ちゃった。」


ドアの隙間から顔をのぞかせた強志が、笑いながらプリントを手にしていた。


「統計グラフ、マジ意味わからんすぎて!」


「……うん、いいよ。ちょっと見せて。」


私は隣の席を指さし、彼はそこに座った。

しばらく私の机をのぞき込んでいた強志が、不意に言った。


「香菜……試験勉強、大変なの?」


一瞬、言葉が詰まりかけたけれど、目をそらさず、小さく笑った。


「うん。ちょっとね。」


強志は、ほんの一拍だけ視線を伏せて、それから口角を上げた。


「そーっか……香菜って、やっぱりすごいよな。ちゃんと前向いてる。」


「……ありがとう。でも、大変だよ、やっぱり。」


その言葉を最後に、彼はプリントを手元に引き寄せて、立ち上がった。


「そーっか……そりゃそうだよな。」

「……じゃあ、またな。」


彼はそう言って、背を向けて教室を出ていった。


次の日から、強志はもう来なかった。

声も、足音も。

彼の気配が、この教室に近づくことはなかった。


距離というのは、音さえ吸い込んで、静かに、確かに、隔てていくのだと知った。


強志とは、それっきりだった。

――あの日、統計グラフの相談を最後に、私たちは、ふたりで話すことはなかった。


私はあのとき、「ちょっとね。」としか答えられなかった自分を、何度も思い返した。

もっと、ちゃんと話せばよかったのかもしれない。

もっと、気持ちを伝えられたのかもしれない。


でも、あのときの私は、前に進まなきゃいけない自分を守るために、

彼の声を……彼の優しさを……遠ざけたのだと思う。


そしてきっと、彼はそれを察していた。

私の邪魔をしないように、気を遣ってくれたのだと思う。


――それは、彼のやさしさだった。


分かってる。

でも、私には……とても、とても、さみしかった。


***


見て見ぬふりをしたはずの気持ちが、心の奥で、まだ静かに揺れている。

本当は、このまま終わりたくない。そう願っても──

やがて、卒業式の日はやって来た。


体育館に響く拍手の音。

送辞、答辞、校歌。

決められた手順の中で式は進んでいくけれど、私はどこか、宙に浮いているような気持ちで座っていた。


胸元についた花のリボン。

季節の境目に差し込む、柔らかな光。

一人ひとりの名前が呼ばれ、壇上で卒業証書が手渡されていく。


ふと、横に視線を向けた。

違うクラスの列。その中に、彼の姿があった。


強志は、背筋を伸ばしてまっすぐ前を見ていた。

私を見ていたわけじゃない。

笑っていたわけでもない。


ただ、そこにいた。


──それだけで、胸の奥が熱くなった。

本当に、久しぶりに見た。

きらきらと光っていた、その横顔。


式が終わると、拍手が響いた。

卒業生が一斉に立ち上がり、お辞儀をして……

最後の合図とともに、幕が下りた。

ざわつく会場には、人の波が流れはじめる。

友達同士で写真を撮り合い、泣き笑いする声が、あちこちから聞こえてきた。


私はそのなかで、ただ立ち尽くしていた。

目が、自然と彼を探していた。


そして──

出口へ向かう列の中に、彼の姿を見つけた。


気づけば、私は一歩、前に出ていた。


目が合った。

人ごみのなかで、たしかに。

彼と、目が合った。


遠くから、ただお互いを見つめ合っただけだった。

それだけなのに、時間が止まったように感じた。


……その距離は、結局、最後まで縮まらなかった。


手を振ることも、話しかけることもできなかった。

最後の最後に、名前を呼びたかった。

でも──声は、出なかった。

たった数メートル。

それでも、どうしても埋められない距離だった。


私は立ち尽くしたまま、そっと、心で別れを告げた。


「さよなら、わたしの片思い。」


誰にも言えなかったこの気持ちは、私の中だけで、終わる。

……それでいい。


「さよなら、強志。」


それは、声に出さない、

私だけの卒業だった。


***


卒業式が終わって、私はすぐに現実の波に飲み込まれた。

入試本番、二次試験、面接……

模試の復習、志望理由書の最終チェック、出願書類の確認。


「あとで思い出そう。」


「落ち着いたら考えよう。」


そう言い聞かせていた気持ちさえ、気づけばどこかへ流されていた。

友達との連絡も、新生活の準備も、すべては“次の場所”のためのものだった。

強志くんのことを思い出す余裕なんて……正直、なかった。


いや、きっと“余裕がないふり”をしていたのだと思う。


彼のことを思い出してしまえば、あの目が合った瞬間が蘇って、胸の奥が、ぎゅっと締めつけられるのが分かっていたから。


それでも、ふとした瞬間に思い出すことがある。


夜、布団に入ったとき。

駅のホームで、春風が吹いたとき。

けれど、それもすぐに、「次の電車がまいります。」というアナウンスにかき消されてしまう。


***


卒業から、もう何年も経った。

現実に追われるなかで、抑えてきた気持ちは、知らないうちに見えなくなっていた。


私は大学に進学し、就職して、今は毎日、会社とアパートを往復する生活を送っている。

朝の通勤電車。

昼休みに見るスマホの画面。

週末のスーパーでの買い物。

どれも特別なことではないけれど、繰り返しの中にある、静かで平凡な日々。


高校時代のように成績表を気にすることはなくなり、代わりに、上司の顔色やメールの文面を気にするようになった。


「お疲れさまです。」


「すみません、確認します。」


そんな言葉ばかりを口にしていると、

ときどきふっと……あの頃のことが、頭の中によみがえる。


「彼、いまも元気にしてるかな。」


そんなふうに、心の中でそっとつぶやくだけ。

会いたいわけでも、連絡を取りたいわけでもない。


ただ、思い出すだけ。


***


制服姿の学生たちが目の前を通るたびに、楽しげな笑い声が耳に届くたびに……

私は、あの教室の風景と、何も伝えられなかった自分を、思い出す。


それは、私の青春の一ページだった。

私にとっての、初恋だった。


雨の日に、傘を差し出してくれたこと……

てくびに触れたこと……

文房具屋で、偶然出会ったこと……

まぶしい笑顔……


どれも、今の生活にはない光。

でもたしかに、私の中に残っている。

変わらない日常の奥で、静かに、深く……今でも。


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恋恋青春‐届かぬ片想い syuシュ @syusyu_tw

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