第3話 離れ離れに
秋の風が少しずつ冷たくなってきた頃、教室の空気も、どこか微かに変わっていった。
「ねえ、ねえ聞いた? 強志とC組の江美、付き合い始めたって。」
ある日、女子たちのささやき声が、背中越しに聞こえてきた。
私は、鉛筆を持つ手を止めた。
ノートの上で、書きかけの言葉が、そこでちぎれていた。
何も聞こえなかったふりをして、目の前の文字に集中しようとする。
けれど耳は、勝手に続きを拾ってしまう。
「やっぱり、ああいう子と付き合うんだよね、強志って。」
「江美って、背も高いしスタイルいいしねー。」
「積極的らしいよ。告白したの、江美の方からなんだって。」
私の心は、静かに、音もなく沈んでいった。
***
その日も、強志くんは何も変わらない様子だった。
私の後ろの席から、いつもと同じように「消しゴム貸してー。」と声をかけてくる。
私は笑って、「はい。」と言って、手渡した。
……それだけだった。
それだけなのに。
消しゴムを渡した指先が、かすかに震えていた。
***
次の日、体育のあと。
水を飲みながら隣にいた強志くんが、ふと口を開いた。
「なあ、香菜……最近、元気ないね?。」
「え?。」
「いや、なんか……前より静かっていうか。いや、元から静かか。ははっ。」
気まずそうに笑うその声に、私は「うん……ただ疲れてるだけ。」と作り笑いで返した。
***
数日後の昼休み、教室が、少しざわついていた。
「おい、C組の江美が来てる!。」
「強志のとこじゃね?。」
そんな声が飛び交い、一部の生徒たちがそわそわと浮ついた空気をまとっていた。
「ねぇ、強志〜!。」
明るく、通る声。
教室の入り口に現れたのは、江美だった。
長い脚。揺れる黒髪。
そして、どんな視線も真正面から受け止めるような強さを持った彼女。
その隣で、強志くんは少し照れくさそうに笑っていた。
「きたきた、強志の彼女じゃん!。」
「うわ、ほんとだ!かわいいー!。」
私はプリントを読んでいるふりをして、顔を上げなかった。
けれど、笑い声やひやかしの声が響くたび、体の奥が、きゅっと縮こまるような感覚に襲われた。
「よっ、恋人同士〜、キスして!。」
「やれやれ〜!。」
「キス! キス!。」
はやし立てる声、拍手、笑い声――
教室中が“ガヤ”に包まれていく。
その中心に、強志と江美がいた。
そして、これ以上耐えれない私は、誰にも気づかれないように、そっと席を立った。
教室のドアを開けたとき、誰かが私の横を通りすぎた。
でも、それが誰だったのかすら分からなかった。
***
いつの間にか、校舎の影が長くなっていた。
体育館の入口近くのベンチに座り、ぼんやりと中を見つめる。
バスケットボールの音。
誰かの掛け声。
そのなかに、汗をぬぐいながら走る強志くんの姿があった。
大声で仲間に指示を出し、全身でボールを追いかけている。
背中も、横顔も――全部、まぶしかった。
けれど、私はもう笑えなかった。
習慣のように、無意識のように、彼を目で追ってしまう。
でも、どこかで分かっていた。
――もう、見ているだけでは、つらくなるばかりだと。
彼が笑っていると、誰かと話していると、とくに江美と並んでいると、胸が締めつけられる。
それは、たぶん「ヤキモチ。」という感情だった。
自分には似合わないと思っていた。それでも――確かにそこにあった。
だから私は、少しずつ距離を取るようになった。
話しかけられても、できるだけ短く返すようにして。
ノートを見せる回数も、少しずつ減らしていった。
バレないように、気づかれないように。
ただ、静かに、まるで自分からそっと手を離すように。
私は、彼の隣から、少しずつ身を引いていった。
***
高三になった春の朝。
教室前に貼り出されたクラス替えの張り紙で、自分の名前を見つけたとき――「三年A組 香菜。」
私はうすうす、分かっていた。
……あ、強志とは、もう同じクラスじゃない。
彼はスポーツ推薦コースへ。
私は国立大学を目指す進学クラスへ。
それは、当然の結果。
目指す道が違うから、それだけのこと――のはずだった。
私は誰にも声をかけず、そのまま静かにA組へ向かった。
けれど胸の奥には、小さな穴が空いたような、ぽっかりとした感覚が残った。
***
A組は、進学クラスらしい空気に満ちていた。
教室には静けさが漂い、誰もが黙々と問題集に向かっていた。
無駄な会話は一切なく、張り詰めた空気に、私も自然と背筋が伸びた。
――虚しさから逃げるようにして、私は勉強に没頭した。
英単語帳、化学の問題集、かこもん、ノート。
手を止めなければ、心の中にあるもやもやした想いに触れずに済む。
そう思って、私は目の前の文字を追い続けた。
でも……
後ろの席から「香菜、これ教えて!。」と声がかかることは、もうなかった。
「うわー無理!脳が死ぬ!。」と笑う彼の声が響くことも、ここにはなかった。
***
時だけが流れて、何も変わらない日々が続く。
そして、進学クラスでの初めての定期テストが返ってきた。
――英語、学年24位。
――数学、クラス10位。
進学クラスでは、決して悪くない順位だった。
答案を受け取って席に戻ると、同じクラスの子がふいに話しかけてきた。
「ねえ、香菜ってさ、D組の強志と同じクラスだったんでしょ? 一年と二年?。」
「……うん、そうだけど。」
「今ね、私の友達が強志の隣の席なんだけどさー。この前、授業中にうっかり“香菜”って言ったことあるんだってー。しかも、なんかキョロキョロして『あれ?今日いないの?』って聞いたこともあるってー。」
「……え?。」
「笑えるよねー。まだ香菜のこと、そばにいると思ってたのかな?。」
彼女は冗談めかして笑い、すぐに別の話題へ移っていった。
でも私は――何も言えなかった。
胸の奥が、ぎゅっと苦しくなった。
彼の中に、まだ少しでも私の名前が残っていたこと。
ふいに呼ばれた「香菜。」という、そのひとこと。
たったそれだけで、こんなにも心が揺れるなんて――
名前は、呼ばれるだけで、涙になることがあるんだと。
私はそのとき、初めて知った。
もしあの日、ほんの一瞬でも彼が私のことを思い出してくれていたなら。
もし「今日いないの?。」って、本当に私を探してくれていたのだとしたら――
私は、まだそこにいたかった。
隣の席じゃなくてもいい。
せめて、見える距離に。
けれど私は、また何もなかったふりをして、ノートを開いた。
ただ、前を見ていた。
***
好きという気持ちは、消せない。
時間で薄れるわけでもない。
隠せば隠すほど、深く沈んでいく。
それでも、私は前を向こうと思った。
もし、届かないなら、見ないように。
もし、忘れられないなら、せめて遠くへ。
私は、もう一度だけ深呼吸して、明日の予定を手帳に書き込んだ。
進学模試の日付。
提出物の期限。
次の授業の予習内容。
書けば書くほど、胸の奥に沈んでいく感情があった。
でも私は、黙って、ひたすら書き続けた。
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