第2話 ときめき

その日は、買い物の帰りだった。


夕方の駅前は人で賑わっていて、私はその人の波に飲まれるように、歩いていた。


家に帰る前に、ふと思いついて文房具屋に立ち寄った。

特に欲しいものがあったわけじゃない。

でも昔から――

文房具屋の、あの静かな雰囲気が好きだった。


棚に整然と並んだペンやノート、付箋、レターセットなど、ひとつひとつを眺めながら歩く時間は、なぜか心を落ち着かせてくれる。


私は、新しいペンを手に取って、その書き心地を試そうとしていた。


――そのときだった。


「……あれ? 香菜?。」


心臓が跳ねた。


顔を上げると、数メートル先に強志くんがいた。

運動した後かな?髪が少し乱れていた。

そして、手にはシャープペンの替え芯のパッケージを持っている。


「なんか買うの?。」


「あ……えっと……ペンが欲しくて……。」


目が合ったまま、私は動けなかった。

強志くんも、少し照れくさそうに笑っていた。


「香菜って、文房具好きなんだ。」


「うん。なんとなく……落ち着くから。」


「へぇ……なんか意外。いや、意外でもないか。」


意味のよく分からない言葉だった。

けれど、その何気ない一言すら――

私は、胸のどこかに大切にしまっておきたくなった。


買い物を終えて、店の外に出た。


「じゃあ、また月曜な。」


強志くんは手を振って、駅の方へ歩いていった。

私はその背中を、夕焼けに染まる街の中で、見えなくなるまで見送った。


――それ以来。

私は週末に出かけると、つい、あの文房具屋に立ち寄るようになった。

ほんの少しだけ、期待しながら。

また、偶然が重なるんじゃないかっていう小さな奇跡を信じながら。


文房具屋の香り。

ペンのインクの滑らかさ。

ふいに呼ばれた、あの日の自分の名前。


そのすべてが、私の中で、ひとつの光りのような記憶になっていた。


***


この日の一時間目の英語の授業が始まる直前。

私はカバンの中を、何度も、何度も確認した。


……けれど、気づいてしまった。

英語の教科書を――家に忘れてきたことに。

息が止まりそうな気持ちだった。


英語の先生は、ちょっと厳しい。

特に遅刻や忘れ物には容赦がなくて、教科書を忘れた生徒にはきまって「教室の後ろに立ちなさい。」と命じる。


私は椅子に座ったまま、顔を伏せた。

脈は速くなり、指先が冷たくなっていく。


「どうしよう……。」


小さくつぶやいた、そのときだった。


背後から、そっと一冊の教科書が差し出された。

驚いて振り返ると、強志くんが声も出さずに目で「いいから。」って言っていた。

でも……と視線で問い返すと、彼はニッと笑って、「俺、ノート見るから大丈夫。」、口パクでそう伝えてきた。


私はただ、黙って頷いて、その教科書をそっと受け取った。

先生が教室に入ってきたとき、私は何もなかったようにページを開いていた。

……でも、それは長くは続かなかった。


「強志。お前、教科書は?。」


その声に、私はびくっと肩を震わせた。


「……忘れました。」


彼はそう言って、ゆっくりと立ち上がった。


「後ろに立ってなさい。」


強志くんは、何も言わずに教科書も持たず、荷物を抱えて教室の後ろへと歩いていった。

私の胸の奥には、罪悪感と感謝と、そして何かあたたかいものでいっぱいだった。


授業が終わると、私は教科書を返しにいった。


「……ありがとう。ほんとに、ごめんね。」


彼は肩をすくめるようにして笑った。


「気にすんなよ。……香菜が立ってたら、絶対落ち込むじゃん?。」


その一言に、胸がぎゅっと締めつけられた。

彼はただ優しいだけじゃない。

人の気持ちを、ちゃんと見てくれる人なんだ――そう思った。


泣きそうになるのをこらえて、私は小さく笑った。

強志くんはふざけたような顔で、


「てか、俺の点数下がったら、今度なんか奢ってよなぁ。」と笑ってみせた。


私は、うなずくことしかできなかった。


***


夏が近づくにつれ、教室の空気もどこかだるさを帯びてきた。

窓の外では、早くも蝉が鳴き始めている。

昼休みの教室には、ゆるやかな、ぼんやりとした空気が漂っていた。


私は腕時計をチラリと見て、午後の授業の準備をしていた。


そのとき、背後から声が飛んできた。


「香菜、今って何時? ……俺、腕時計してないんだよ。」


「あ……。」


私は左腕に視線を落とし、答えようとした瞬間――


「ちょっと見せてー。」


そう言って、強志くんは私の手首をふいに軽く取った。

彼の指先が、私の手首の内側に触れる。


「……あ、あと10分くらいあるな。サンキュー。」


強志くんはあっけらかんと笑って、手を離す。


それは彼にとって、ただの何気ない仕草だったかもしれない。

でも私には――

まるで世界の時間が一瞬止まったように感じられた。


***


こんな日もあった。


体育のあと、教室に戻ってきた強志くんが、汗を拭きながらつぶやいた。


「はぁ、のど渇いたぁ……。なぁ、香菜、それ、なに飲んでんの?。」


「え? あ、これ、レモンソーダ……。」


彼はしばらく、じっと私の手元を見つめていたかと思うと、さらりと口にした。


「一口ちょうだい。」


「えっ……。」


戸惑う私に、彼は笑いながら続ける。


「別に風邪とかひいてねーし、大丈夫。ね?。」


冗談めいた口調だったけれど、その目はまっすぐ、こちらを見ていた。


私は、恥ずかしさで顔が真っ赤になりながらも、おそるおそる、レモンソーダのボトルを差し出した。


「ありがと~。うん、うまっ……ってか、香菜って甘党だよな。」


「……う、うん。」


こんなふうに、彼はときどき、ふいに私との距離感を崩してくる。

彼にとっては、ただの仲のいいクラスメイトなのかもしれない。

けれど私にとっては――そのたびに心が大きく揺れていた。


ふれられた手首……

名前を呼ばれた声……

あの目の奥に、一瞬だけ映る私への優しさ……

それらの全部が、私の中で、静かにでも確かに、積もっていった。


***


放課後に、特に用事があったわけじゃないけど、

私は、窓辺の席に座ったまま、少しだけ教室に残っていた。


夕日が斜めから差し込んで、グラウンドを金色に染めていた。


クラブ活動の音が、廊下の向こうから響いてくる。

誰かの笑い声。机を動かす音。

そして、遠くからかすかに聞こえる、ボールの弾む音。


ふと窓の外に目をやると、白いユニフォームの一団がノックを受けていた。

その中に、強志くんの姿を見つけた。

——キャップをかぶって、軽やかに走る後ろ姿。

仲間に声をかけながら、大きく振りかぶってボールを投げている。


いつも教室で見るのとは少し違う。

引き締まった背中と、まっすぐな目。


私は、思わずその姿を目で追っていた。

その光景が視界から消えないように、そっと、静かに見つめ続けた。


風がそよぎ、窓のカーテンがふわりと揺れた。

まるでその一瞬だけが、心に刻まれていくみたいだった。


彼の存在は、日に日に私の中で大きくなっていく。

もう、隠せないくらいに。


……でも。私は、言えなかった。

この気持ちを伝えて、もし何かが変わってしまったら。

そう思うと、怖くて、たまらなかった。


***


好き、って気持ちは、声に出さなくても育っていく。


最初は、ほんの少し気になるだけだった。

でも――

会話を重ねるたびに。視線が合うたびに。

ふとした瞬間に彼を思い出すたびに。


気づけば、一日のなかで何度も、私は彼のことを考えるようになっていた。


だけど、私はまだ臆病だった。


彼は、太陽みたいに明るくて。

誰とでも気さくに話せる人で。

そんな彼と話せる時間が、嬉しくて、楽しくて、だからこそ――


……これ以上、好きになってはいけない……


そう思ってしまう自分がいた。


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