なまら西成だぁ

ポチョムキン卿

第1話 絶望の果て見知らぬ街へ

湿った空気が纏わりつく。北海道の、あの身を切るような凍える寒さとは違う。まるで身体の芯まで黴が生えそうな、重くて澱んだ空気だ。夜行バスを降りて、そのまま乗り継いだフェリー。甲板で凍えながら見ていた荒れた海の記憶は、もう遠い。大阪の港に着いて、さらに電車を乗り継ぎ、この見知らぬ場所にたどり着いた。新今宮。地図アプリで見ても、やたらと複雑に線が絡み合った場所だった。


バッグの重さが肩に食い込む。中身は着替えと、ほんの少しの現金と、あとはもう、どうしようもない絶望だけ。彼から逃げてきた。あの部屋から、あの暴力から、あの地獄から。生きるか死ぬか、毎日そればっかり考えてた。なんであたしがこんな目に、って。何が悪かったんだろうって、ずっと思ってる。でも、もういい。考えるのなんて、疲れたべさ。


駅の改札を出ると、そこはもう異世界だった。昼だというのに、薄暗い。北海道じゃ考えられないような、ごちゃごちゃとした建物がひしめき合ってる。人影も多い。だけど、みんなあたしとは違う生き物みたいに、見慣れない顔をして、見慣れない言葉を喋ってる。


「…どこ、だべさ、ここ…」


思わず口に出た北海道の訛りも、誰も気にしない。あるいは、誰も聞いてないのかもしれない。ただ、目が合ったと思った途端、そそくさと目を逸らす人もいれば、妙にじっとあたしを見つめてくる人もいる。じっと見つめられて背筋が凍った。興味本位で見ているだけだと分っていても前の恐怖が、また身体の奥底から這い上がってくるが、京子はそれを押し殺した。


スマホの画面を見る。昨日、ネットカフェで必死こいて探した「1泊3千円以下」の文字。「きらめき荘」。たったそれだけの情報で、あたしはここに予約を入れたんだ。他に選択肢なんてなかったから。


大きなキャリーケースを引いて歩く。車道と歩道の区別が曖昧な道。自転車がすり抜けていく。どこからともなく、酔っ払いの怒鳴り声が聞こえた。ゴミの匂い。煙草の匂い。よくわからない、ごちゃ混ぜの匂いがする。嫌だ。帰りたかった。でも、帰る場所なんて、もうどこにもないんだ。


ようやくたどり着いた「きらめき荘」。外観は、写真で見たよりも古びていた。錆びた看板が、風に軋む。自動ドアなんてない。重い引き戸を横にスライドさせると、独特の埃っぽい、そしてなんだか懐かしいような匂いがした。


フロントにいたのは、白髪交じりの、少し猫背になったおじいさんだった。無愛想、というわけではないけれど、愛想がいいわけでもない。


「あの…予約してる、京子です」

「おお、京子さんか。待っとったで。身分証明書出しといてや」


北海道訛りのあたしを、おじいさんは一瞬怪訝そうに見たけれど、すぐに元の表情に戻った。慣れてるのかな、こういうの。身分証明書を差し出すと、じっくりとそれを眺める。その視線が、なんだか査定されているようで落ち着かない。


「うん、間違いないな。ほな、あんたの部屋は三階の角部屋や。エレベーターはないから、階段で上がってな。鍵はこれやからな」


そう言って、おじいさんは年季の入った金属の鍵を差し出した。ずっしりと重い。三階か。心は鉛のように重いけれど、まだ二十歳を少し過ぎたばかり。体までは、そう簡単に悲鳴を上げたりしない。むしろ、これからどんな場所で、どんな風に過ごすことになるんだろう、という、微かな冒険心みたいなものが湧いてきた。ギシギシと音を立てる木造の階段。壁に貼られた古びたポスター。踊り場に置かれた年代物の花瓶。一つ一つが、北海道で見てきたものとは違う。興味津々で辺りを見回しながら、京子はゆっくりと階段を上っていった。この階段の先に、あたしの新しい生活が始まるんだ。どんな生活になるかは、まだ全然わからないけど。


部屋の扉を開けると、そこには畳の部屋があった。六畳くらいかな。質素な布団が敷いてあって、小さなテレビと、エアコン。それだけ。窓を開けると、隣の建物の壁が見えた。遠くで、電車の音が聞こえる。ゴオォォォ、という低い音。


「…なまら、質素だべさ」


思わず笑ってしまった。声に出すと、少しだけ気が楽になった。バッグを床に下ろすと、どっと疲れが押し寄せる。布団に倒れ込むように寝転がった。天井を見つめる。ここから、あたしの新しい人生が始まる。どんな人生になるんだろう。いや、人生なんて、もうないのかもしれない。ただ、生きるだけだ。


気づけば、深い眠りに落ちていた。


目が覚めると、部屋は薄暗くなっていた。どれくらい寝てたんだろう。喉がカラカラだ。水を求めて、よろよろと起き上がる。部屋には、小さなポットと、粉末のお茶が置いてあった。お湯を沸かして、お茶を淹れる。温かい湯気が、冷え切った身体に染み渡る。


窓の外は、もう完全に夜になっていた。知らない街の夜。不安と恐怖が、またじわりと這い上がってくる。でも、不思議と、昼間感じたような絶望感は薄れていた。


階下から、人の声が聞こえる。賑やかな笑い声。ガチャガチャと食器の音。なんだろう。宿の共用スペースだろうか。少しだけ、興味が湧いた。


部屋から出て、階段を下りる。一階に降りると、玄関の奥に、共同のリビングスペースのような場所があった。テレビの音が大きく響いている。そして、たくさんの人がいた。宿の宿泊者だろうか。みんな、あたしと同じくらいの年齢の人は見当たらない。ほとんどが、おじいさんだ。煙草の煙が充満していて、少しむせる。


「おお、京子ちゃん、起きたんか」


フロントのおじいさんが、あたしに気づいて声をかけてくれた。テレビを見ていた他のおじいさんたちも、ちらちらとあたしを見る。妙にじっと見てくる人もいる。それはまるで、迷い込んだ小動物を案じるような、あるいは、遠い親戚の娘を見るような、親のような関心のこもった視線だった。京子にはまだその意味が分からなかったけれど、昼間のような直接的な恐怖は感じなかった。


「あ、はい京子と申します…なんだか、寝すぎちゃったべさ」


あたしがそう言うと、隣に座っていたおじいさんが、くくっと笑った。


「そら、旅してきて疲れてたんやろ。ゆっくりしときや」

「…はい」


京子は、少し離れた場所に遠慮がちに座った。テレビでは、なんかのバラエティ番組をやってる。みんな、それぞれのペースで、酒を飲んだり、テレビを見たり、新聞を読んだりしている。誰もあたしに干渉してこない。でも、どこか、不思議な一体感があった。


その空間が、なんだか、すごく落ち着いたんだ。北海道で、彼と二人きりでいたあの部屋とは、全然違う。そこには、いつも張り詰めた空気しかなかったから。でもここは、こんなにたくさんの人がいるのに、なぜかとても穏やかで、温かい気がした。


「あんた、腹減ってへんか?向かいのコンビニ、行ってみたらええで。そこそこ品揃えもええしな」


別のおじいさんが、ぼそっと声をかけてくれた。優しい声だった。


「あ、はい…ありがとうございます」


コンビニ。北海道のコンビニと、どう違うんだろう。ちょっとだけ、ワクワクした。この街は、なんとなく怖い感じがするけどそれは気のせいだろう。けど、でも、なまら不思議で、もしかしたら、あたし、ここが嫌いじゃないのかもって、ちょっと思った。


外に出ると、夜の西成の街は、昼間よりもさらに活気に満ちていた。煌々と輝くネオン。様々な店から漏れる光と音。賑やかな喧騒。京子は、ゆっくりと、コンビニへと歩き出した。身体の底に澱んでいた重い鉛が、少しだけ軽くなったような気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

なまら西成だぁ ポチョムキン卿 @shizukichi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ