ヤクザと刺青と芳香剤の匂い

ワゴンの荷台で揺られている間、現実感なんてとっくにどこかに消えていた。

マリア先輩が助手席から「ついたよ」とだけ振り返る。

時計を見れば午前二時、場所は西新宿。

眠らない街の一角、古びたマンションの最上階。


案内されたのは、ヤクザの事務所。

ドアノブの手垢、薄汚れた玄関マット。

ああ、こういう場所にも“終わり”は来るんだな、とかどうでもいいことが頭をよぎる。


中に入った瞬間、鼻をつくのはアルコールとタバコと、……そして血の匂い。

掃除の痕跡がそこかしこに残ってるのに、それでも“死”だけは消せてない。


部屋の真ん中に、背中をむき出しにされた男が三人。


床には血の湖が広がっていて、内臓のいくつかは零れ落ち、タイルの上で冷たく固まりかけている。

首はそれぞれ変な角度で捻じれていて、一人はほとんど胴体から外れかけていた。

顔面は…もう“顔”と呼べるものじゃなかった。

鼻は潰れ、目玉はどろりと流れ出し、歯がむき出しになった顎が、“笑っているように”壁のほうを向いている。


背中だけが、異様なほど丁寧に洗われ、色鮮やかな和彫り…鯉、龍、不動明王が、

まるで“遺品”みたいに無傷で並べられている。

骨の軋む音、肉の裂ける音…

あちこちから“人間”が“ただの肉”に変わっていく匂いと音が、やけに鮮明に響いていた。


この空間だけが、現実の続きを拒絶している。

“生きていたもの”の重さと、“それを道具として扱う連中”の手際だけが、部屋の空気を静かに圧し潰していた。


「依頼内容、聞いてるよね?」


マリアが俺の肩をぽんと叩く。

俺はうなずくだけで精一杯だ。


「背中の彫り物、保存希望。遺体は明け方までに撤収。

現場は何もなかった状態に。タイムリミットは朝九時。」


先輩作業員たちはみんな、

家具を運ぶみたいに遺体を持ち上げて、

何の感情もなく動き出す。


作業手順どおり、

まずは血の海から片付けだ。


業務用の太いモップを手に取って、

床に広がった血溜まりをグイッと吸い上げていく。

まだ乾ききっていない赤黒い血が、

モップの繊維に絡みついて重たくなる。


バケツにしぼるたび、

生ぬるい鉄の匂いが鼻先にまとわりつく。

吸い取りきれなかった部分は、

スポンジと使い捨てクロスで丁寧に拭き取る。

角や目地に入り込んだ血は、

スポンジでこそげ落としていくしかない。


血の色が消え、床の表面がようやく“普通の部屋”に戻りはじめたころ、

マリアが無言でブルーシートを差し出してくる。


俺は手袋をはめ直し、

部屋の中央にブルーシートを広げた。

布地の擦れる音が、やけに大きく響く。


次の作業は、

この上で“刺青”を剥がして保存すること。

そう頭では分かっていても、

どこか他人事みたいな気分のまま、

俺はただ手を止めずに作業を続けた。


「エターナル君、初めてだし、無理しないでいいから。

でもこの彫り物だけは絶対に傷つけないようにね」


医療用のメスを手渡された。

正直、こんなもの握るのは初めてだ。

俺は手袋越しに、死人の背中をそっとなぞる。

体温はとうに失われていて、皮膚の感触は“人間”というより冷たいゴムに近い。


まず、刺青の外周…彫り物の輪郭をなぞって、浅く刃を滑らせる。

メスの先端が、皮膚の下の白っぽい脂肪に突き当たる感覚が、じわじわ指先に伝わる。


「最初は怖いけど、丁寧にね。傷つけると依頼主がキレるから」


マリアがそう呟くのを背中で聞きながら、

俺は静かに、切り込みを深くする。

刃を寝かせ、慎重に皮膚の下へ滑り込ませていくと、

手袋の指先が、じっとりぬるぬると滑った。


皮膚と脂肪の境目を、“ペリペリ”と音を立てて剥がしていく。

時々“ブチッ”という嫌な音が混じるたびに、

俺の胃袋がキュッと縮む。


途中、刃先が硬い筋や骨に当たり、

「もっと浅く、皮下で進めて」とマリアが助言をくれる。

俺は、死体の背中を慎重に捲り上げていく。

剥がれた皮膚の裏側は、脂と血と消毒液でびしょびしょに濡れて、

生温い臭いが手袋を突き抜けて鼻まで染み込んでくる。


一枚、大きな背中の皮が“めくれた”。

思っていたよりずっと重い。

グロテスクな和彫りの文様が、肉と一緒にゆっくり剥がされていく。

手で皮を持ち上げると、

まるで“ずぶ濡れのビニールシート”でも扱うみたいにヌルヌル滑った。


「はい、もう少し……」


マリアの声が遠くなっていく。

俺は、皮膚の下の筋肉や骨の赤黒さを見ないようにしながら、

慎重に、皮膚全体を“シート状”に剥がしていく。


剥いだ皮は専用のパックに収める。

もう何も感じない…

むしろ、感情のほうがどこかに逃げ出している気がした。


背中だけが鮮やかに残り、

他はただの“肉”になっていく。

現実が、ぐずぐずに溶けていく音がした。


「大丈夫。慣れるまでみんな一回は吐くから」

マリアが慰めるみたいに言うけど、

俺は“吐く”って感覚すら、

遠いところに置き忘れてきた気がした。


背中の皮を剥ぎ終わった遺体を見下ろす。

筋肉がむき出しで、もう“人間”というより解体途中の肉塊だ。

鼻の奥に、血と脂と消毒液の混じった匂いがいつまでもまとわりつく。


「じゃあ、エターナルくん、袋に詰めて運ぼうか。

頭からね。内臓がこぼれてるのは中に押し込んで。

途中で破けないように気をつけて」


マリアの声がやけに平坦で、

まるで引っ越しの梱包手順を説明するみたいだった。


俺は手袋をきつく締め直し、

作業用の遺体袋を床に広げる。

死体の腕や足を曲げて、

崩れないようにそっと頭から滑り込ませる。

はみ出た腸や脂肪の塊も、袋の奥に押し込む。


チャックを引き上げる音だけが、

異様に大きく響く。

何度も経験があるわけじゃないのに、

体が勝手に“正しい作業手順”をなぞっていく。


「よし、次」


マリアが、もう一体、もう一体と指示を出す。

血まみれの作業着がずしりと重い。


三体分、全て袋詰めにして、

台車に乗せてエレベーターまで運ぶ。


地下駐車場、

指定された“引っ越し業者”のロゴ入りトラックの荷台が開いている。

俺とマリアで、重い袋を一つずつ積み込んでいく。


次は細かい“飛び散り”の処理だ。


使い捨てクロスを何枚も重ねて、

床の隅、家具の脚の影、コンセント周り…

血が飛び跳ねて乾いた跡を、丁寧に拭き取っていく。

ちょっとでも見逃せば“事件”になるから、

一滴たりとも妥協できない。


壁の下のほうや巾木の細い隙間には、

割り箸にクロスを巻き付けて差し込む。

薄茶色に変色した汚れを根こそぎ拭い、

目地に入り込んだ染みは歯ブラシでこそげ落とす。


カーペットの繊維に入り込んだ血は、

強めの消毒液をたっぷり吹きかけ、

ひたすらタオルで叩いて色を浮かせてから吸い上げる。

拭き取るたび、タオルの白がどんどん赤茶色に染まっていく。


テーブルや壁、ドアノブ…

人間が触れそうな場所はすべてクロスで磨く。

指紋も汗も、皮脂も残さない。


仕上げに消毒液を撒いて、

部屋全体をもう一度ざっと拭き上げる。


“事件”の匂いも、痕跡も、

この世から全部消し去る。

プロの現場は“証拠ゼロ”が最低条件。

血の色も、生臭さも、

拭いて拭いて、徹底的に磨き落とす。


壁紙やカーペットもきれいに張り直す。


その手つきだけが、

“自分がどんどん現実から離れていく”感覚を

逆に強くしていった。


誰も何もいなかった…

そんな顔で部屋を仕上げる作業員たち。

その無表情さが一番怖い……と、思っていたら。


「おーい、エターナルくん、

こっちの血、富士山っぽくね?」

片付け担当のオッサンが、

床の血痕を指差してニヤニヤしている。


「ほら、赤富士。インスタ映えするなー」

「おまえ黙ってやれよ……」と、

隣の若手がぼそっとツッコミを入れる。


「細かい染みはこの『秘密の染み取り棒』の出番だぜ!」

と、得意げに割り箸クロスを振り回す作業員。

無駄にネーミングセンスだけは一人前。


「エターナルくん…こういう時はな、

血染みの隅は“丸めたティッシュ”で“トントン”や」

突然、関西弁で親切なアドバイスを始める別の作業員。

血の海の中で“お掃除講座”が始まっている。


「誰が一番きれいに仕上げられるか勝負!」

「いや、普通にやろう……」

「ここ拭き終わったら缶コーヒー買いに行こな」

現場のプロ意識は高いくせに、

テンションはどう見ても“深夜バイトのノリ”。


作業が終わる頃には、

外の空がほんのり白んできていた。


「終わったら一服いこ。ベランダ、解放するね」

マリアが軽く笑う。


俺はセブンスターを持って、

まだ血の臭いが消えない指で、ベランダに出る。

朝焼けの西新宿を見下ろしながら、

「…地獄の底にも、朝は来るんだな」

と、どこか他人事みたいに思いながら、煙草に火をつけた。



車の後部座席に、黒い遺体袋が三つ並ぶ。

助手席のマリア姐さんは、窓の外をぼんやり眺めて、

「焼却場まで、混んでなきゃ二十分くらいだよ」とつぶやいた。


エアコンの風が、血と消毒液と安っぽい芳香剤の匂いを

強引に混ぜて車内に循環させている。

そのせいで、どこまで行っても現場の臭いが消えない。


「ねえ、エターナル。

死体、こんな近くで見るの初めて?」


マリアはサンダルのつま先でリズムを取りながら、

ミラー越しにちらっと俺を見る。


「こんな距離感はさすがに初めてっす。

ていうか、普通バイト初日にこれってアリなんですか?」


「ないよ。でも、最近どこも人手足りてなくてさ。

現場の回転率、昔のバブル期の飲み屋よりすごいから」


あっけらかんと笑うマリア。

後部座席の遺体袋のチャックから、何かがカサカサ動いたような気がして、

俺は思わず足元のコンビニ袋(セブンスターと缶コーヒー入り)を握りしめる。


「姐さん、これって焼却場に運んだら終わりなんですか?」


「うん、そう。証拠は絶対残さない。

最近はリサイクルだなんだうるさいけど、

うちは“完全燃焼主義”だから」


マリアは軽く肩をすくめて、

「前は豚小屋とか山奥の処分場とかも使ってたんだけど、

今はそういうのもうるさいしね」と平然と言う。


「この業界で一番大事なのは、

“きれいに消す”こと。

エターナルも何回かやれば、

“ああ、人間ってあっさり燃えちゃうもんだな”って思うよ」


「……いや、それ、できれば慣れたくないっすね」


マリアは笑う。

「まあ、今日は初日だし。

そのうち、焼却炉の前で煙草一服キメて“やっと一人前”とか思うようになるかもよ」


俺は缶コーヒーを一気に飲み干して、

「いや、それは遠慮しておきます」と返す。


グローブボックスからガムを取り出して一枚くれる。

「あとさ、遺体運ぶときは手、怪我しないように。

思ったより重いし、よく滑るから。

油断してると爪割れたり、指つったりするよ」


「脂肪とか……?」


「そう。皮膚もね。

あと、たまに歯が当たったりしてさ、

変なとこ傷つくから。まあ、今さら痛がる相手でもないけど」


助手席でサンダルのつま先を軽く鳴らしながら、

「私も最初は吐いたから。

でも、“仕事だ”って割り切れたら、

まあ、どんな現場でも平気になっちゃうんだよね」


「そういや、エターナルさ」

マリアが信号待ちでちらっとこっちを見てくる。

「さっき遺体袋に詰めてる時、内臓とか気にしてた?」


「……いや、マニュアル通りに腸とか押し込んだだけですけど」


「うん、それで正解。でもね、

内臓とか腸を雑に扱うと、すぐ“中身”漏れるから気をつけなよ」

サバサバした口調のまま続ける。


「死体ってさ、死後しばらくすると腸の中身、つまり“うんこ”が出やすいんだよね。

袋に詰めるとき雑に押し込んだり、

メスで腸に傷つけたりすると、すっごい勢いで漏れるんだわ。

これがもう、本当に最悪でさ…

血の臭いどころじゃない。部屋中“うんこまみれ”になってさ、

下手したら染み込んで床材全部交換とかになる」


「うわ……マジっすか」


「マジ。最初の頃、知らなくて腸ザクッてやっちゃってさ、

遺体袋から茶色い液体がドバドバ流れてきた時は泣きたくなったもん。

あの臭いは、いまだにどんな消臭剤でも勝てない」


「それはさすがに……嫌だなあ」


「まあ、そのうち“腸は絶対最後まで丁寧に扱う”って身に染みて覚えるよ。

あと、袋に詰めた後はちゃんとチャック閉めたあとでも、

一応ビニールで二重にしておくと安心」


マリアは続ける。


「ていうかさ、たまにいるんだよ。

わざと内臓傷つけたり、腸潰したりして、

“グロいのが見たい”って理由で余計な手間増やす客。

ああいうの、マジでムカつくんだよね」


「わざと……?」


「そう。中身ぶちまけて『おもしろいでしょ?』とか言ってさ。

こっちは片付ける方の身にもなってほしいよ。

正直、そういうのは…

現場にいる連中で、一番“殺してやりたい”タイプかもね」


マリアはちらっと笑って、

「まあ、仕事だから殺さないけどさ。

でも本当に、ただのサイコより“人に迷惑かけるサイコ”の方がタチ悪いから」

と、舌打ち交じりにぼやく。


「そういう時はどうするんです?」


「できるだけ現場で注意はするけど、だいたい話が通じないからね。

結局、全部きれいに片付けるしかない。……ほんと、現場は運と我慢と根性」


助手席のマリアの横顔が、

ちょっとだけ“本気で嫌なものを思い出してる”大人の顔に見えた。


マリアは何でもない顔で話すけど、

俺の胃の奥が思わずキュッとなる。

この人の“現場力”、やっぱり本物だ。


ミラー越しに笑ってみせるマリア。

「そのうち、現場明けでラーメンもカツ丼も食えるようになるよ」

俺はまだ、そこまで自分を使い潰せそうにない……

そんな気分で、外の灰色の空を眺めていた。


焼却場が近づくにつれ、

車窓の外はどんどん薄明るくなっていく。

生きている人間の気配が、どこまでも遠のいていく気がした。


焼却場の裏口は、朝焼けも届かない灰色のコンクリートの箱だった。

俺とマリアは、無表情な作業員に遺体袋を一つずつ手渡していく。袋が転がるたびに、カラカラと中身の骨がぶつかる音がする。


ちょうど最後の一つを渡し終えたタイミングで、マリアのスマホがけたたましく鳴った。

「…あ、はい。え? ……まじか」

さっきまでサバサバしていた姐さんの声が、一気に低くなる。


俺は手についた血の跡をタオルで拭いながら、ちらりとマリアを盗み見る。

姐さんは短く何かを聞き返し、「分かった、すぐ戻る」と言って電話を切った。


「現場、戻るよ」と姐さんがこっちを見る。

「……何かあったんすか?」

胸騒ぎがして、思わず口を突いて出る。


マリアはため息混じりに答えた。

「どうもね、思ったより早くヤクザの連中が事務所に戻ってきちゃったみたい」

俺は瞬時にさっきの現場の生臭さが頭をよぎる。

「交戦になってるって。現場監督からSOS来てる」

姐さんは投げやりな表情で肩を回す。


「はあ……今日は残業かもね」

マリアはうんざりした顔で、

焼却場の煙突から立ち上る煙を一瞥し、車のキーを手に取った。


* * *


ホテルへ戻る帰り道…

窓の外は昼の光なのに、体中に血と消毒液の匂いがまとわりついている。

俺は、まだ髪の毛がベタベタのまま、車のシートにもたれかかっていた。


助手席のマリア姐さんが、渋滞にはまりながら缶コーヒーをあおる。

ふと俺を見て、「いやぁ、君ほんとに運がすごいね」とニヤリと笑った。


俺は乾いた頭皮を掻きながら、

「……運が良かったら、こんなバイトしてないっすよ」と、ぼそりと呟く。

思い出すだけで胃がひっくり返りそうだ。


……あのドタバタの現場。

血まみれの床で足を滑らせ、

倒れ込んだ俺の頭をかすめて、

ヤクザのドスが振り下ろされる。

けれど、俺が勝手に転んだおかげで、

ドスは俺の頭じゃなく、

勢い余ったヤクザ自身のこめかみをぶち抜いた。


頭から浴びるほど血をかぶって、

そのまま現場に倒れ込んだ俺を、

マリアは呆れた顔で見下ろしていたっけ。


「間違いないね」

姐さんは車内で思い出し笑いしながら缶を振る。


結局、事務所に戻ってきたヤクザたちは、

マリア姐さんを含む現場の作業員たちが全員返り討ち。

現場はめちゃくちゃ、

清掃と遺体搬送をやり直す羽目になり、

結局、午後までかかってようやく解放された。


俺はシートに深く沈み込みながら、

「……人生、諸行無常」と心の中でつぶやいた。

それでも、

どこか少しだけ……

生き残ったことに安堵している自分が、

腹立たしくて、笑えてきた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

バイト先が猟奇殺人コンサル会社だった件 柳屋玄吾 @g_yanagiya

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ