第40話

 このところのタルタロスは、明け方前に東の方から魔女が飛んでくる。他の誰でもない、グローアだ。

 

 外出用の大きなとんがり帽子を目深にかぶり、小さな藤籠を手にしたグローアは、実に魔女らしい出立ちで現れる。到着すると箒にぶら下げていたランタンを片手にまだ暗がりの辺りを見渡し、ケルベロスの姿を確認して小さく会釈した。

 ディーテの市の明るさで本を読んでいたケルベロスはそれに気付くと勉強をやめて、とぼとぼと歩いて岩場に戻り、遠くから様子を見守る。それから、二言三言なんでもない会話をした。

 

 朝早くにも関わらずきっちりと結い上げた緑の髪が、真面目を物語る。毎日同じように、手元の籠から大事そうに薬瓶を取り出して慎重に定量を測り、シャロンの口元に添える。そして、文言を唱えてシャロンの身体がふんわりとした光に包まれると、じっと動かずにその光が消えるのを待ち、それが終わるとまたケルベロスに向かってひとつ頭を下げて帰っていく。時間にして十分程度だろうか、そんな習慣がここ三ヶ月ほど続いていた。

 

 オリーブを煎じたあの薬は、上手くできていたようだ。煎じて含ませてすぐに、シャロンの血色が良くなった。感じる魔力も微々たるものだが、日毎に増えている気がする。ただ、鼓動が復活し、目が覚めるまでには至らない。

 つい先日再び眠りについた大魔女の話では、様子を見ましょうとのことだったが、グローアがこうして熱心に通っても、あれからシャロンの様子に大きく変わったところはない。このままでは、オリーブの薬の方が先に尽きてしまいそうだった。


 ケルベロスはこの日、ハーデスを待っていた。

 煉獄山の噴火を遠くに見ながらぼんやりしていると、不意に靄のような煙が湧き立つ。見る間に濃くなったその中から現れたハーデスは、登場するや否や物憂げに息を吐いた。

「辛気臭え面だな、おい」

 思わず声をかけると、ハーデスは慌てて表情を作り直す。

「やだなあ、見てたのか」

 

 それから二人はシャロンの眠る場所から少し離れた岩場に座り、ハーデスはペルセフォネが持たせたという軽食を広げた。広がる香りは魅力的だったが、二人はそれに手を付けない。辛うじて瓶に入った牛乳は口にしたが、ケルベロスは重苦しい雰囲気に呑まれないよう、早めに今日の本題を切り出した。

「渡守の目処はついたか?」

「……うん。一応ね」

 

 接ぐ言葉はなく、ハーデスは口を噤む。今日訪れた理由は他でもない、アケローンの渡守の交代についてだった。

 シャロンが眠り始めて五年、タルタロスの管理を思えば確かに潮時だ。誰がアケローンの渡守を引き継ぐのかはさておき、今さら駄々をこねて反対する程子どもでもない。しかし、目覚めないまま迎えることになるシャロンの渡守としての最後の日を思うと、無力感が襲う。

 

「本当、あいつはいつまで経っても起きる気配がねえな」

「最近思うんだ。もしかしたら、シャロンは目覚めたくないんじゃないかな」

 初めて聞く見解に、ケルベロスは首を傾げる。

「前から感じてはいたんだ。シャロンは、生への執着心が希薄……まあ、冥界でそんなことを言うのも変なのだけど」

 

 すべての終わりを司る冥界この場所では、他者の命、特に同部族外のものに価値を見出さないことが多いが、シャロンの場合はさらに、自分の命にも興味がないように感じる――。ハーデスはそう言って、シャロンに目をやった。

「忠誠心が高く、任務で身体を消耗することにも抵抗がない。捨鉢かと思えるほどに自身を疎かにして、いつ死んだって構わないと思っている節がある。普段表に出すことはしないけれど、彼女の根本には常にそれがあった気がする」


 気力がなければ、目覚めない。グローアがどんなに熱心に薬を作っても、周りがどんなに願っても、本人にその気がなければ、何も起こらない――。

 ケルベロスは声に出さずに同意した。多分、恐らく――過去にシャロンは一度、生きることを諦めたことがあるはずだ。その昔、毒から生き長らえたことを『耐えて“しまった”』と零したのは、そういうことだろう。

 シャロンにとって、長い寿命は枷でしかないのかもしれない。でも、その一方でそれを楽しんでいる気もする。そう思うと、起きる気力がないとも言い切れない。


 それから二言三言交わして、ハーデスは広げた軽食をそのまま包み直す。

「ずっと見守ってくれているお前には申し訳ないが、次の新月からは新たな渡守になる。シャロンの処遇と、引継ぎの者との顔合わせについては、また改めて知らせに来るよ」

 優しい声に、ケルベロスは子どもみたいに小さく頷く。今は半月を過ぎたあたりだから、新月まではまだ時間がある。ハーデスはそれ以上何も言わず、同じように頷いて返すと、横たわるシャロンをひと目見てから移動の文言を唱えた。

 

 なんてたくさんの事が変わってしまったんだろう。ハーデスの消えた跡を見つめて、ケルベロスは置き去りにされた軽食の包みを胡座の上に乗せた。

 タルタロスの風景はなにも変わりはしないのに、自分の周りはいつだって落ち着きなく変化する。その速度についていけずに取り残されたと気付いても、出来ることは追いつけるように歩むだけだ。

 

 渡守のいないアケローンの川面、死者が通らなくなった青銅の門、それでも大穴からは呻き声とディーテの市の炎の明かりが漏れてくる。止まった歯車は、動くように戻さなければならない。ただそれだけの事なのに、気が乗らない。そしてケルベロスは、とぼとぼとシャロンの元へ歩いた。


 不意の風が大地をさらって、シャロンの黒髪を揺らしていく。朽ち果てもしない長い睫毛も一緒になって揺れれば、瞬きをしたのかと思うほどなのに、相変わらず他はぴくりとも動かない。けれど、堅く閉ざされた唇の血色は赤々としているから、ケルベロスはため息をついた。

 

「おい、シャロン」

 呼びかけて返事が返ってくるはずもなく、虚空に響いた声は虚しさだけを残す。動かないシャロンを目の前にすると、毎回思う。独りきりのタルタロスはつまらない。

「いつまで寝てんだよ、お前。役目なくなっちまうぞ」

 呟いたケルベロスは、やるせなく両手で顔を覆った。交代が間近に迫った今日は流石に気鬱になって、ため息が出る。

 

 長い月日が流れる冥界において、こんな思いをするのはたった数日――されど数日。千の年月を越えて生きるくせに、一年がとてつもなく長い。さらに、寝ずにじっと待つだけのケルベロスには、それはとても果てしない時間に感じられた。

 

「……なんで」

 

 不意に飛び出した言葉を一度は飲み込もうとした。けれど、これで文句を言うのも最後だと思うと止められなかった。

「なんで俺がお前を待っていなきゃなんないんだよ。っていうか、俺の毒くらいで死んだりすんなよ。お前は冥界屈指の毒婦なんだろ? いい加減起きろよ!」

 誰も聞いていないのをいいことに、ケルベロスは一人喋り始め、段々と語気を荒げた。大きな声が響いて、それが木霊を呼んで消える。

 

「……ふざけんな」

 急に訪れた静寂が妙に虚しくなって、最後吐き捨てて口を噤む。そして、顔を覆っていた両手を、そろりと力なく離した。

 ハーデスの言うように、もう起き上がりたくないのならそれでもいい。けれど、なにもこんな終わり方をしなくたっていいだろう。結局、なんの力にもなれなかった悔しさが、恨み節となって溢れる。

 どんなに物分かり良く取り繕っても、ただシャロンがそばから居なくなることが嫌で嫌でたまらないのだ。


 ――眠ってしまいたい。

 ケルベロスは、そっと目を閉じた。このまま眠ってしまえたら、どんなに楽だろう。少なくとも、眠っている間はシャロンのことを考えて心配しなくてもいい。けれど、どんなにそう思っても眠気というものが襲ってくるはずもなく、諦める腹いせにもう一度息を吐く。そして、閉じていた目をゆっくりと開いた。


 目の前のシャロンは、相変わらずだ。いつ見ても変わらない光景から、ケルベロスは目を逸らそうとした。

 だけどこの風景すら、もうあと少しかもしれない。ふとよぎった考えに動揺して、ひとり身じろぐ。そして、ゆっくりとシャロンに向き直り、手を伸ばした。


 シャロンの頬へ指先を向けながら、触れる理由を探す。そんな自分の躊躇が伝わり、指先がぴくりと跳ねる。けれど触れたい気持ちは抑えきれず、その葛藤で心が震えるようだった。

 

 そのとき、また風が吹いた。くるくると小さく渦を巻いて近寄った風は悪戯に黒髪を揺らして、その毛先が誘うように指にかかる。綿毛のような細い髪の毛を咄嗟に捕まえた途端なんとも言えない感情が湧き上がって、せめて優しく指先で撫でた。

 絹糸に似た黒髪は月日が経っていても艶めいて、初めて会った時と同じように不思議と惹かれる。この時にはそれが愛しいと気付きながら、ケルベロスは細い毛束を指に絡めた。


 あと少し――。シャロンの頬との距離は、もうほとんどなかった。触れたい気持ちは押さえきれなくなって、それが指先と頬との距離に現れているようだった。やがて、こくり、と息を飲んだケルベロスは、誰も見てはいないのに、けっしてわざとではない、とでもいうように髪の毛を捕まえたその指の背で、そっとシャロンに触れる。

 けれど、触れた瞬間、やっぱり怖くなってすぐに手を引いた。触れた、というよりは掠った、という方がずっと正しかったが、それでもケルベロスは、やましい気持ちでいっぱいになる。

 

 実際のところ、なにか変化があるわけではなかったのだけれど、あんまりにもびくびくしている自分が臆病な小動物に思えた。と同時に、途端に恥ずかしくなって顔を背ける。だから、閉じた貝が開くようにゆっくりと、漆黒の睫毛と共にその瞳が開くのに気が付かなかった。


 ――ケルベロス。


 風の中に優しい声が囁く。柄にもなく感傷的になったせいか、と空耳と決めて疑わないケルベロスは、視線を逸らしたまま聞き流す。けれど、声は再び耳に届いた。

「ケルベロス」

 やけにはっきりと聞こえる久方ぶりの声に、心が共鳴する。それが、待ち望んだものだとわかって、目を見開いて大きく振り返る。

 

「……え」

 あんなにも硬く閉じられていた瞳が、こちらを見ていた。後を追う柔らかい笑みは、寝覚めの微睡を含んで儚い。

 まるで昼寝から目覚めたように小さな欠伸を零したシャロンは、それからゆっくりと上体を起こした。五年の歳月もなんのその、寝ぼけ眼をこすり口を拭って、大きく伸びまでしてみせる。

 

「おはよう」

 小首を傾げたのが、可愛らしいなんて絶対に思わない。けれど、固く閉じていた瞼はぱっちりと、印象的な黒目はいつも以上に潤んで見え、長い睫毛が翳す影は大きい。

 ゆっくりと確かめるように大きく深呼吸するその呼吸音は生々しく、続けて赤月を見上げて肩にかかっていた黒髪がはらはらと落ちるのを見れば、動揺が心を襲う。茫然と口を開けて、目覚めたその一挙一動を追うケルベロスの視線に気づいたシャロンは、そちらを振り返りもう一度微笑むと頭を下げた。


「ごちそうさまでした」

「お前……」

 耳に届いた声が、酷く懐かしい気がした。それよりも、単純に嬉しかった。でも、そのことを悟られまいと、ケルベロスは気付けば見つめあっていた視線を、すぐに逸らす。すると、くすくす、と笑う声が聞こえた。

「なんだよ……」

「尻尾が揺れてる」

「はっ?」

 

 ケルベロスは慌てて後ろを振り返り、自分の腰を手で押さえた。だが、尻尾などあるはずがない。それを見たシャロンは、あっはっは、とより大きく笑った。

「馬鹿ねえ。相変わらず馬鹿犬」

「……っ、ふざけんな。俺がどれだけ――」

 心配したと思ってる。言葉を飲みこんで、怒りに震える手を握り締める。するとシャロンは、その握り締めた拳に手を伸ばして、優しく両手で包みこんだ。

 

「冗談よ」

 不意に包まれた両手から伝わる体温に、どうしようもなく戸惑ってしまう。けれど、あんなに触れることを躊躇していたのが嘘のように、重ねた手は馴染む。ケルベロスは、茶化されて立てた腹のことももう忘れて、動くシャロンの指先を見つめた。


「……お前、しぶといな」

「耐えたのよ。優秀だから」

 にやりと笑ったシャロンは、両手でケルベロスの拳を握ったまま、向き合うように、ぺたりと座りなおした。二人の距離がほんの僅か近くなり、目線がきちんと揃う。

 

「最近強い毒に当たってなかったから……。こんな所で猛毒に会えるなんて、私もついてるわ」

「お前、なんともないのか?」

「なんとも。耐えたって言ったでしょ」

 いけしゃあしゃあと言ったシャロンは、それから包んでいた拳の指を、一本ずつゆっくりと開いていく。その奇妙な動作に、ケルベロスは照れ隠しに毒づいた。

 

「なんだよ、くそ。心配して損した」

 すると、シャロンは手を止めてこちらを見上げ、首を傾げる。

「心配したんだ?」

 大きな黒目がちの瞳が覗きこみ、ケルベロスの心臓はどくん、と跳ねあがった。あんなにも開くことを待ち望んだ瞳なのに、いざ見つめられると、どうしていいかわからなくなる。次第に頬が上気していくのがわかって、シャロンからまた視線を逸らした。

 

「……してねえ。誰がするか、馬鹿」

「今、したって言ったばっかりじゃない」

「…………」

 ケルベロスは黙り込んだ。なにかを言えば、すぐにぼろが出てしまいそうで、口を噤む。すると、シャロンは悪戯っぽく笑ってまたひとつ近づいた。

 

 目の端に映る紅い唇が、物言いたげに薄く開く。吐息が頬にかかる距離で、ケルベロスは胸を弾ませながらちらりと視線を戻した。刹那、ふわり、と覚えのある感触が唇に触れた。唇が優しく重なると、今までケルベロスにあった心配や不安がほろほろと蕩けた。


 ――ああ、良かった。


 さらさらと目の前で流れ落ちた黒髪に、ケルベロスはそっと瞳を閉じた。タルタロスでは考えられない甘い香りが鼻をくすぐって、心までもがとっぷりと酔いしれる。

 いつしか開かれていた拳は、シャロンの細い指と絡まって、きゅっと握りあう。ここにいる、とお互いに確かめあうような仕草は、口づけの間ずっと続いた。


 月の傾くタルタロスに、たった二人。唐突に触れた唇は、いざ離れようとすると難しかった。それがなぜなのかはわからないが、柔らかな感触はいつまでも味わっていたいと思うほど甘美で、中毒のように幾度も重ねあった。

 

 時が過ぎて二人はゆっくりと唇を離し、沈黙の中に吐息を潜ませる。時間を惜しむため息が揃えば、甘い余韻が零れ落ちた。

 と、絡めた指に気付いて、少しの気まずさにお互いがそれとなく視線を逸らし、指を解いていく。触れていたあたたかな体温がなくなり、離れてできる二人の隙間が寂しい。同時にやり場のない思いが込み上げてきたケルベロスは、つい、とシャロンに視線を戻した。

「なんなんだよ……」

 すると、シャロンは思いとは裏腹に、ふふ、と笑って自分の唇に指をあてた。

 

「……あんたの唇、毒の味がするわよ。実はまだ、身体の中に残ってるんじゃない?」

「は?」

 そんな話をしようと思っていないケルベロスは、思い切り眉を顰めた。ところが、シャロンは構わず続ける。

「そうじゃないと、私と口づけなんて出来ないもの」

「……え?」

「最強の毒を持つ魔獣なんて、なかなかいないわ。良かったわね、またひとつ強くなれて」

「え?」

「まあ、色々と自由は効かなくなるけど、仕方ないわね」

 

 すらすらと喋るシャロンに、思考が追い付いていかない。けれど、ぐちゃぐちゃと考えるより、今はシャロンが目の前にいて動いているだけで十分だった。

「毒で自由が効かないのは、お互い様だろ?」

「そうよ。でも、ずっと一人だった」

 シャロンは嬉しそうに笑った。

「あんたがいるなら、寂しくないわ」

 その一言に、ケルベロスは赤面する。そういうことを臆面もなく言えるシャロンを、逆に恥ずかしいと耳まで上気した。

 

「いっ、いるって、いや、ちょっと待て」

「知ってる? 魔女とのキスは癖になるのよ」

 赤くなったケルベロスの鼻先をちょんと指先でつつき、シャロンは立ち上がる。そして、そういえばと呟いて背を向けると、借りたままだったケルベロスの上着を脱いで文言を唱え、指先で宙を切った。

 しかし、見慣れた黒衣に戻ってからも、シャロンは自身の身体のあちこちを手でぺたぺたと触れ始める。その妙な仕草に、ケルベロスは眉根を寄せた。


「なにしてんだよ?」

 なにかを確認しているような所作を見て尋ねると、シャロンは腰に手を当てて、ふふん、と鼻で笑う。若干高飛車な態度に良い予感のしないケルベロスはその意味を必死で考えるが、その答えが出るより早くシャロンが唇に指をあてた。

「よし。口付けても異常なし。ケルベロスの毒、追加しました!!」

 聞いたケルベロスは、時が止まったように唖然とする。あれはそういうことかと気付けば、その瞬間からあの甘い時間が崩れ落ちるようだった。

 

「さっきのはただの確認作業かよ、ふざけんな!」

 口づけを交わしたことをまったく意に介していないような発言に、ケルベロスは憤慨して思わず立ちあがった。すると、立ちはだかって見下ろすケルベロスを、シャロンは余裕ある表情で見上げる。

「不服ならもう一回する?」

「……しねえ」

「でも、少し考えた」

 

 この期に及んでまだ悪戯っぽく笑うシャロンを腹立たしく思いながらも、ケルベロスの赤面は取れない。それを見て、シャロンは堪え切れずに腹を抱えて笑いだした。

「あっはっはっは」

 笑うシャロンのその声が、タルタロス中に響き渡る。ばつが悪くなったケルベロスは、むっとふくれて、くるりと背を向けた。

「あ、怒った」

「怒るだろ、そりゃ」

 背を向けたまま歩きだしたケルベロスを、シャロンは後ろから小走りで追って隣に並ぶ。その手にはケルベロスの上着とハーデスが残した包みがあった。


「ねえ、この包みなあに?」

「ハーデスが持ってきた飯だ」

「それはそうと、私どれくらい寝てたのかしら」

「死んでた、の間違いだろ」

「そりゃ仮死にもなるわよ、どれだけの毒喰らったと思ってんの?」

「知らねえよ。つか、五年も寝てて今起きたばっかりなのに、よくそんな喋れるな」

「五年!?」

 

 驚いてぴたりと止まったシャロンを、ケルベロスは振り返る。この隙に、手にあった上着と包みを奪い取った。

「しかもその間、いろんな奴に世話になったぞ。ミノスはもちろん、アイアコスにハーデス、ペルセフォネ、あと大魔女とグローアにもな」

 瞬間、シャロンが真顔で身動ぐ。

「……魔女の森へ行ったの?」

「ああ。丁度良く大魔女が目覚めてな。お前が目覚める方法を探して、かなり世話になった」

 

 シャロンの視線が、不意に宙に浮く。そのまま遠くに投げかけた先にあるのは、魔女の森の方だった。二人はそのまましばらく、赤月の光が消えていく方角を見つめる。

「そういえば、目覚めの方法ってどうやったの?」

「オリーブだよ。お前のその巾着に入ってた」

 ケルベロスは、顎でシャロンの腰を差した。

 

「オリーブ?」

「ヘラクレスが持ってたあの実だよ。あれを、グローアが煎じて飲ませた」

「そんな方法があったのね。知らなかったわ。……私はてっきり普通に私の血を使って解毒剤を作ったのかと」

「それだと金竜がいるって話で、そんなのは魔女の森にないって……」

「ない事ないわよ。うちにあるもの」

「……は?」

 

 山の稜線にやっていた目を戻すと、シャロンはほらあの鍋の中よ、と零した。あの家ができた時からずっとあるあの緑のふつふつした気味の悪い鍋がそうだと思い当たり、ケルベロスはため息にもならない声を上げる。

「はあ? お前それならそうとなんで言わないんだよ」

「あら、教えなかったかしら。ちゃんと聞いてなかっただけじゃなくて?」

 そこに自信はなくて、ケルベロスは黙り込む。グローアがねえ、と呟くシャロンは、優しく微笑んでいた。

 

「悪いことをしちゃったわね。まさかこんなに長く眠ると思わなかったわ」

「どれくらいだと思ったんだよ」

「一年くらいかしら」

「……呆れてものも言えねえな。沼の毒で二百年寝てたくせに」

「ハーデス様にもご迷惑をかけてしまったわ。明日謝りに行かないと。……でも、一人で行くのは心細いわね」

 

 視界の中に揺れる黒髪が入りこんで、ケルベロスはちらりとそちらを見やる。すると、そうすることを知っていたかのように、唇に指を立てたシャロンもまたケルベロスを見上げて笑った。

「心細さを感じるような玉じゃねえだろ、お前は」

「あら、そんなことないわよ。一人は寂しいじゃない」


 赤月が落ちてまもなく訪れる冥界の夜。アケローンの川面も、闇へ溶けて沈む準備をする。静かで殺風景な冥界の果てで、並んだ薄い影がつかず離れず真っ直ぐ歩く先には、ハーデスが建てたあの家が見えた。ケルベロスは、いつまでもこちらの様子を窺うシャロンに口を尖らせる。

「仕方ねえなあ」

「流石、忠実な番犬だわ。お利口ね」

 聞いたケルベロスは、不意に立ち止った。そして、華奢なシャロンの腰に手を回し、強く引き寄せる。

 

 はらりと宙に広がった黒髪と、大きく見開かれた黒目が驚きに自分を見つめる。その瞼が閉じる前に口づけてやれば、シャロンは一瞬驚いたような、困ったような、恥ずかしそうな表情を浮かべた。初めて見せたその表情を見て、やっと一矢報いた気になったケルベロスはにやりと笑う。

「誰がお利口だって?」

「前言撤回。馬鹿犬のくせに、生意気だわ!」

「油断してるからだろ。大体、言うこと聞かせたいなら餌やるのが躾の基本だぞ」

「だとしても、不意打ちなんて百年早いのよ」

 

 言い合う二人の声がタルタロスに響く。いつまでも、仄かな明かりが窓から漏れる。

 千年、二千年――それは、この先きっとずっと変わらない。



《完》




 Cerbrerus and the Witch


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ケルベロスと魔女 織音めぐ @meg_orine

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