第39話
「ケルベロス、どうした? 大丈夫かい?」
いつになく心配そうな顔をして、ハーデスは現れるや否やケルベロスの両肩に手をかける。そんなに急がせるつもりはなかったのだが、着ているものはまだ寝巻きのようだった。
「オリーブ……かも知れないものが、見つかった。見てくれ」
グローアを振り返り、オリーブの実を出してもらう。さっきまでの話はまるでなかったかのように、二人はどちらからともなく自然にハーデスへオリーブの実を差し出した。
改めて見ると色はさらに黒ずんで、似ているのかさえ疑わしいただの木の実に見えた。貴方は触れてはいけないから、と横から顔を覗かせたペルセフォネは、優しくそれを抓み取る。そして、上から下からしげしげと実を眺めて、にこりと微笑んだ。
「間違いありませんわ。少し痛んでいるけれど、アテネのオリーブですわね。懐かしいものを見ましたわ。でも、どうして? なにを慌てていらっしゃるの?」
どうやら、ペルセフォネは事情を知らないらしい。ハーデスが昨日の出来事を改めて説明する間、ペルセフォネはタルタロスを訪れた時はいつもそうするようにシャロンの顔をハンカチで拭い、髪を整えながら聞いていた。
「まあ、なんて僥倖でしょう。それなら早くシャロンちゃんに飲ませてあげなくては」
「しかし、その方法がわからない。目覚めぬ者に、このまま飲ませれば良いというものでもないだろう」
確かに、意識がないどころか脈さえない者に小さいとはいえ一粒の実を飲ませるのは難しい。それに、大魔女のところで見たあの本には、実に何か手を加える絵が書かれていた気がする。ハーデスはしばらく悩んだ末に手を打った。
「とにかく、まずは私が大魔女を連れて来るよ。十分ほど待っていてくれるかな」
ケルベロスはそんなハーデスを引き止める。脳裏には、あのおぞましい森があった。
「十分なんて、到底無理だろう。あの森を抜けるだけでも……」
三十分はかかる、そう言おうとした言葉尻は、ハーデスに遮られた。
「大丈夫だよ、ケルベロス。こう見えても、冥界の王なんだ。やってやれないことはない。なに、天界に行ってアテネにオリーブを貰うことに比べたら、いくらか楽だよ」
「あらあら、でもその前にお着替えなさらないと。寝巻のままではキルケに笑われてしまいますわ」
ああ、いけない。と今更慌てるハーデスが急ぎ何かの文言を唱えると、瞬時に寝巻が余所行きの正装に変わる。
いつ見てもその呪文は便利そうだと感心する横で、最後にひとつ歌を歌ったペルセフォネは、シャロンの頬に触れる。これをすると、風雨にさらされた肌も整うらしい。そう言われてみると、シャロンは五年も経つ割に見た目が綺麗だった。
やがて、御武運をと祈るペルセフォネに見送られてハーデスは姿を消した。と、それまで黙っていたグローアが控えめに歩み寄る。
「ペルセフォネ様、お初にお目にかかります。魔女の森に住んでおります、グローアと申します」
「あら、私こそ御挨拶が遅れてしまってごめんなさい。グローア、ハーデスから先ほど伺いましたよ。キルケの一番弟子だとか」
「い、いいえ。一番弟子など畏れ多いですわ。私はただ、大魔女様のお側にお仕えさせていただいてるだけです」
どこかで見たような謙遜だ――ケルベロスはそんな事を思いながら、ハーデスの帰りを待つ。ペルセフォネとグローアが耳の痒くなるような話を続ける間、大穴の周りを当てもなくうろついた。
気分はなんだか優れない。オリーブの実だと分かってからは、少しの緊張からそわそわとして、三分に一度はなにともつかない息を吐いては空を仰いだ。
そんなわけだから、ハーデスを待つ間の時間はとても長く感じられて落ち着かなかった。時間の感覚が薄いケルベロスにとって日々は滔々と流れるものだが、人を待つとなると何かが違う。シャロンの目覚めを待つのも然り、何かを待ちながら過ごすと時間は遅く流れるのだと知ったのは良いのか悪いのか、いつも過ごし方に迷う。
と、青銅の門の近くが煙立ち、ハーデスが飛び出した。後には、大魔女と一緒にさらに大きな影を引き連れている。
「あらあら、まあまあ。今日はペルセフォネ様もお揃いで」
「キルケ!」
ペルセフォネは、杖をついたキルケを柔らかく抱きしめて挨拶を交わした。
「本当に久しぶりだわ。身体は大丈夫?」
「お陰様で。今回の目覚めは刺激的な事が多くて、なかなか眠くなりませんのよ」
「まあ、じゃあ後でたくさんお話ができるかしら」
「そうだね、時間があれば王城でお茶でもすると良い。だけど、その前にまず大魔法典を開いてもらわないといけないよ」
時間通りの帰還を果たしたハーデスが抱えていたのは、先日の大きな本だった。それを適当な岩場に立てかけたハーデスは、ふう、と一息つくと、さらに大きな布袋も脇に置いてから皆を振り返る。
「キルケ、頼むよ」
「ええ、かしこまりました」
大魔女はそれから杖を本に差し向け、あの時と同じように文言を唱えて本を起こす。その傍らにはいつのまにかグローアがついていて、杖を本に差し向ける大魔女の手を取って支えていた。
「方法はここに書いてある通り、必要なものは揃えて参りましたから準備いたしましょう」
大魔女が杖を振るうと、まず大きなテーブルが一台現れる。そこに、杖を振るうたび古ぼけた天秤、羽根のついた長い薬匙、大きなすり鉢とすりこぎ、あとはよくわからない道具が並んだ。
それをグローアがてきぱきと使いやすいように整え、ハーデスは布袋から薬草の束と小瓶などを取り出して、ペルセフォネもそれを手伝う。何をどう手伝っていいのかわからないケルベロスは、せめて邪魔にならないようにあの大きな本の側に寄る。中表紙のあの目が見開くのだから、当然中の挿絵も動いていた。
「この本は生きてるのか?」
早々に支度を終えて隣に立つ大魔女に、ケルベロスは尋ねた。
「ええ、そうですよ。だからといって、人を襲ったりはしませんから安心なさって。これは代々の大魔女だけが契約できる魔術書なのです。秘術もたくさんありますよ」
秘術と聞いて、ケルベロスはふと顔を上げる。
「なあ、犬に戻る魔法もあるのか?」
すると、大魔女は困ったように振り返った。
「あるにはありますが……施すことは出来ませんよ。ハーデス様の術は私には解けません」
隣で聞き耳をたてていたらしいハーデスが少し得意げにしたのを、ケルベロスは見ないふりをする。ただ、なんとなくわかっていたことだし、それほど期待したわけではなかったのだが、ちょっと残念な気がした。
やがてすべての準備が整い、辺りは溶ける蝋の匂いで満たされる。そこに焚き上げられる青い葉の匂いが重なるとかなり刺激的で、ケルベロスは少し火から遠ざかった。
「さあ、これより復活の実を煎じます。治癒の薬は総じて赤月の出ている内に煎じなければなりません。急ぎますよ」
テーブルの上を見渡した大魔女は、磨いていた銀の匙を静かに置く。集う面々は、固唾を飲んで進行を見守ったが、意に反して大魔女はテーブルの上の何に触ることもなかった。
「ですが、その前に……。大変勝手ではございますが、この調合を是非グローアにさせてもらえないでしょうか?」
「えっ?」
大魔女の一言に、グローアが身動ぐ。皆の視線も集まる中、ハーデスは首を傾げた。
「私は構わないが、どうして?」
「グローアはシャロンの親友ですから。思いの強い方が薬効は良くなります」
グローアの動揺は、言葉にせずとも見ればわかるくらいあからさまだった。ケルベロスは、なんとなくグローアから目が離せずにその挙動を見つめる。
「お、大魔女様。そんな大役、私には無理ですわ」
「あら、難しいことはないわ。いつも通りに煎じれば良いのですよ」
「ですが……」
いつも冷静な態度を崩さないグローアが、取り乱したように狼狽える。まるで子供のように手を振って拒否し、眼鏡の奥は困惑に溢れていた。
「ですが、扱うのは貴重な天界の実です。大魔女様を差し置いて私などがやるわけには……」
グローアは未だ尻込みして一向にその場から動かず、頑なに拒み続ける。すると、大魔女は杖をつきながらゆっくりとグローアの元へ歩み寄り、耳元でなにかを囁いた。
さほど長い時間ではなかったと思う。重なる沈黙の中には、余人には知れない何かがあるのだろう。少なくとも、ケルベロスには分からない。大魔女は、じっとグローアの返事を待っていた。好奇心という意味では、ケルベロスも同じように待ち続けた。
その背中をそっと
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