第38話
「あれがオリーブだとしたら……、なぜシャロンが持っていたのかしら」
ばらばらと散らばったものをなんとなくまとめていたケルベロスは、グローアの声にふと顔を上げた。
「ヘラクレスが冥界に来た時、一番最初に気付いたのがシャロンだったんだ。前庭から来た奴を、とりあえずアケローンで引き留めようとして、舟の上でオリーブを使われたらしい。もしかしたら、その時に拾ったのかもしれないな」
ケルベロスは巾着から実を取り出して、代わりにがらくたを詰め直す。ふと脳裏を掠めたあの日の光景は、未だ鮮明だ。ヘラクレスがこれを口に入れた途端に浮き立つ血管と増幅する生気、そしてシャロンの忠告、それから――。先を思い出すと喉を苦いものが通り、ケルベロスは息を吐いてそれを払拭する。
「これ、食うと馬鹿みてえに強くなるんだよ」
赤月にかざした木の実は、検めるとただの痛んだ木の実にしか見えなかった。
「御存知なのですか?」
「ああ。瀕死でも、食えばものの三秒で起き上がるような、とんでもない実だよ」
木の実を渡されたグローアは眉を顰めたが、それほどの効力が〈復活の実〉である所以だ。だからこそ、この実にかける価値がある。
「もしこれがそうなら、あの復活力だ。目覚めの可能性は期待できる」
「そうですか……。そう聞くとなんだか安心しますけれど、言換えればその実は貴方やシャロンにとってとても厄介だったという事でしょう。御苦労なさったのですね」
「苦労なんてしてねえよ。結局、シャロンは――」
期せずして気持ちがまた過去に引きずられる。これではいけないと、ケルベロスは咄嗟に話題を変えた。
「そういや、あんたはよく此処へ来られたな。普通は近づくのも嫌がるんだろ?」
「ええ。
ケルベロスはそれを聞いて、改めてグローアと視線を合わせた。
「俺が言うのも何だけど、あんたはなんでそんなにシャロンに気を遣ってるんだ?」
さっきの反応からして聞かれたくないことだろうと分かっていたが、それでも気になった。シャロンを窺う余所余所しい顔つきを見せたかと思えば、その心遣いは極めて細やかで丁寧だ。最早、言葉と態度が違いすぎて意図が掴めない。
「そもそも、なんでシャロンに近づけないんだ? そういう魔法か?」
これで再び沈黙されればそれで構わなかったが、グローアは意外にもすぐに首を振った。
「いいえ、魔法など」
それから、黒衣についた砂埃をはたいて立ち上がり、眼鏡の縁に触れてずれを直す。そのまま冷たく一蹴されるかと思いきや、向き合って呟いた。
「ただの償いです」
「償い?」
「……シャロンに毒を盛ったのは、私なのです」
静かに言って、薄い笑みを重ねる。唐突な告白に、ケルベロスの理解は追いつかない。毒とは、シャロンが毒婦になるきっかけのものだろうか。
「じゃあ、あんたがシャロンの言ってた親友なのか」
すると、グローアは一瞬目を見開いた。そして、少し困ったように視線を泳がせる。
「親友だなんて……」
「いいえ、今も昔も私はシャロンに親友と呼んでもらえる立場には御座いません。私は毒殺を試みて、失敗した途端に事の重大さに気付くような愚か者ですから」
噤んだ口元から溢れたのは、意外にも後悔だった。シャロンの話から、毒を飲ませた奴はもっと憎悪に溢れていると想像していたが、目の前にいるのは身を小さくして反省を口にする模範的な魔女だった。
「謀らず本心を言うならば、シャロンはそんな私を生かしてくれた恩人だと思っています。魔女の森では、同族殺しの罰は即死刑――けれどあの時、大魔女様は私の沙汰をまだ復活していないシャロンに委ねました。シャロンにあまりにも一方的だった事件に対する報復の機会を与え、生きがいとさせるつもりだったのでしょう」
ちらちらと足元に揺れる炎の揺らめきを、グローアはそっと見やった。
「シャロンが息絶えても復活しても、その日が私の最期の日となる。獄中で近況を知ることもできない私は、いつ来るやもしれぬ死の日に怯えておりました。そんなある日、大魔女様がやってきて仰ったのです、シャロンはすでに目覚めていると。私は最期を悟りました。しかし、そうではなかったのです」
腹のあたりで組んでいた両手をほどき、グローアは肩で大きく息を吐いた。これは懺悔なのか、聞いているケルベロスは相槌を打っていいのかさえ分からずに黙り込む。そうしてお互いやり場のない目線をただ下方に向けた。
「シャロンは、大魔女様に罰の経緯を聞いて憤慨や悲嘆に暮れることもなく、さらに私を責めることもなく、自ら森を去ったと聞きました。彼女が起きるまでの二百年、目覚めたその日が最期の日だとばかり思っていた私には青天の碧礫です。今でもその本意はわかりません。ただ、不問にした理由はなんとなくわかります、彼女が手を下すほどの価値が私にはないのでしょう。ならばせめて、二度と目の前に姿を見せてはならない。私はシャロンの中で死んだのです」
哀しみに満ちた告白が、タルタロスの空気を一層重くする。眼鏡の奥の瞳はシャロンに向けられることはなかった。
「――だけど、あんたはここに来た」
「ええ、そうですね……。私が言うのもなんですが、シャロンがこんな目に遭うなんてあまりにも不憫で納得がいかないから……。でも、それすらも本当は多分違うんです」
「違う?」
グローアはゆっくり頷いた。
「会えないなんて言っておいて、本当は見つけて欲しいんです。今この瞬間にも、目覚めて罵ってくれたらいい。あの時感じた恨み辛みを全部投げつけて、私を殺して欲しい。心のどこかでそう思って、願っているんです。……最低でしょう。そうしてくれれば、私の罪は相殺される気がする。私が楽になれる気がするから」
もはや懺悔なのか開き直りなのか、ケルベロスには分からなかった。懺悔にしては傲慢で、開き直りにしては謙抑だ。でも、自分に投げかけられた視線には記憶がある。ケルベロスは少し前の自分を思い出した。
「あんたの苦しみは、少しわかる気がするよ。俺もシャロンに迷惑をかけて、あんたほどじゃないが同じようなことを考えたことがある。でも、俺は自分が同じような罰を受ければ、差し引いてやったことが帳消しになるとしか思ってなかった。……そうか、あいつに罵られたら、自分が許される気がするからなんだな」
妙に納得してしまって、ケルベロスはふとシャロンを振り返る。結局、相手に悪い事をしたと思っているから、赦しを乞いたくなってしまうのだろう。それがどんな形であれ、相手の望みを受け入れたという事実が、自分の心を軽くする。
そもそも、謝ることすら初めてだったあの日までそんな感情も湧かなかった事を思うと我ながら恐ろしいけれど、あれから随分と相手の事を考えるようになれた。ただ、その分酷く悩むようになったのも事実だ。
「俺は少し前まで、シャロンの事を考えて生まれて初めて死んだほうが良いんじゃないかと思うくらい病んだ。きっと、あんたも同じなんだろうな」
「でも、一番に辛いのはシャロンだろうと考えると、申し訳なくて死ぬこともできないのよ」
ケルベロスは同感だ、と小さく頷く。
「あいつが目覚めるためなら、とりあえず何でもしてやりたい。あんたの言葉を借りるなら、それが俺の償いだな」
「そういうことですわ」
グローアは、ふふ、と笑みを零した。作られたものでない自然な笑みを見て、ケルベロスは何故か天鵞絨の夜を追憶する。初めてシャロンの本心を垣間見た、夜の岸辺。そこで語られた親友を目の前にして、ふと思い出した。
「……そういえばあいつ、あんたのこと恨んではいないって言ってたな」
「え?」
言われたグローアは、虚を衝かれたように目を見開く。
「もう良いんだって。ああ、別に投げやりな意味じゃなくてな」
と、グローアは即座に否定した。
「あ……ありえないわ。いいわけないじゃない」
「でも、あいつはあんたのことを親友だと言ってたし、なんなら感謝もしてるってよ」
「嘘よ。……傷を舐め合う仲だからといって、そんな気休めはいらないわ」
強めた語気から、苛立ちが伝わる。しかし、突然の苛立ちに呆然とするケルベロスを見て、些か冷静を欠いたことに気付くと、グローアはすぐに居住まいを正して謝った。
「……ごめんなさい。貴方がそんな気を遣えるわけないわね」
「それ、謝ってんのか? まあ、実際気遣ってねえからいいけど」
「……だけど、貴方と違って私はシャロンを故意に傷つけたのよ。もういいというのは、やはり見限ったという事だわ」
確かに言葉だけではそう取れなくもない。だからこそ前置いたのに、ケルベロスは小さく肩を竦めた。
「気休めと思うならそれでもいいけど、俺はあんたに気を遣う必要もなければ嘘を吐く意味もないからな。あいつは、色々あったけれど毒婦になるきっかけをもらったって――感謝してるって俺に言ったぞ」
「……もうやめて。いいのよ、その話は終わりに――」
一瞬怯んだグローアが、自身の身をぎゅっと抱いて目を背けたその時、視界の端に煙が沸き立っているのに気が付いた。やがてもくもくと大きく膨らむ中に黒い影が見えると、ケルベロスは我知らず声を上げる。
「ハーデス!」
声につられてグローアもそちらに視線を寄せる。期せずして重苦しい話に終止符を打たれたことに安堵したのは、グローアも同じだったのだろう。と、目の前の影が二つに分かれる。煙が晴れて現れたのは冥府の王夫妻だった。
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