ケルベロスと魔女
第37話
夜から明け方へ移る僅かな赤い光を感じて、ケルベロスは立ち上がった。煉獄山の稜線から漏れ出る赤月は一日の始まり、今日はハーデスがアテネに会いに行く。
昨日、ハーデスと二人で魔女の森を後にしたケルベロスは、久しぶりにぼんやりとした夜を過ごした。手元の本は置いたまま一度も手に取らず、大穴の明かりの揺らぎを見つめている内に迎えた朝は、鬱陶しいほどに澄んでいる。
もし、オリーブが手に入らなかったら、そのときは本格的に金竜を探すほかない。ハーデスには言っていないが、ケルベロスは心に決めていた。生き竜を殺すなという魔女の禁忌は自分に関係ないし、近場であれば王城の西側、数が多いと聞く煉獄山の麓には心当たりがある。
ただ、狩場を選んで探しに行くにしても、時間は限られている。渡守が交代になる前に何とかなればいいが、数が少ない金竜を相手にそれはとても難しいだろう。
その時は、門番をしながら死者のいない夜に狩りをすることになるが、どちらにしろシャロンの側を離れることになるのは不安だ。よって、ハーデスが天界から戻り次第、王城に赴いてこの話を詰めるつもりだった。
山積する課題に、腐るほどあった暇な時間が割かれていく。果たしてそんな生活がまかり通るのか想像もつかないが、オリーブがなければ他に手段はない。とにかく、ハーデスがうまくやってくれる事を願いながらアケローンで顔を洗い振り返ると、遠くの方でひとつの灯りが待ち受けていた。
「おはよう。……早いのね。意外だわ」
声をかけてきたのは、ランタンを片手に持つグローアだった。音ひとつ立てない登場に驚くケルベロスを他所に、灯りを床に置くと、乗ってきた箒を小脇に差して乱れた髪を整える。そして、まだ暗がりの一帯を見渡した。
「な……にしに来たんだよ?」
ケルベロスは、見慣れぬ来訪者に眉を顰めた。指先からはまだアケローンの冷たい水が雫となって滴り落ちる。
「シャロンの契約について、気が付いたことがあって」
「契約?」
ええ、と応えたグローアは岩陰に眠るシャロンを見つけ、遠巻きに眺めた。ハーデスやペルセフォネのように駆け寄ったりはせず、ただ一瞥するに留めると、そっと視線を戻す。
「昨夜、ハーデス様が天界まで赴かれる間に何かできることはないかと考えていて。貴方、シャロンがアケローンと使役の契約を交わしていることは御存知かしら?」
「……いや、詳しくは知らない」
グローアは、ケルベロスの答えを当然のように受け取って小さく頷く。
「よく聞くでしょう、魔女と黒猫、鴉に蜘蛛。小さいものは昆虫や爬虫類から動物、力があれば翼竜や一角獣なども契約で従えることが出来る。そんな魔法が魔女にはあるのです。特にシャロンは優秀だから、自然も使役として扱えるの」
ケルベロスは使役と聞いて、ああ、と生返事を返した。頭の中には、ハーデスの使い魔が浮かんでいる。必要なときに呼び出して、意のままに使える便利なやつのことだろう。
「それがどうかしたのか?」
「ええ。一口に契約と言っても、それには相応の対価が必要です。蛇や猫なら週に一度は鼠を与え、翼竜ならひと月に一度は陽炎の花を食べさせてやらねばなりません。シャロンが司るアケローンの場合は、死者から貰った銅貨がそれに当たります。もし損なえば、シャロン自身が魔力という形で対価を払わねばならない。そして、今のアケローンの流れを見るに、既に銅貨での対価は尽きて、魔力で支払っているように見受けられます」
「あの日以来、死者は誰一人渡ってないからな」
「対価を魔力で贖うことは、弱りゆくシャロンに酷でしょう。尽きればそれで死ぬことにもなりかねない。だから、もしシャロンがまだいくらか銅貨を持っていれば、それを川に落とすことで少しは魔力の消耗を抑えられるかと思ったのですが」
「……なるほど」
銅貨とは、シャロンが前庭で死者から受け取っているもののことだろう。ひとり一枚と聞いているが、人によっては大量に用意するらしいから、余りもあるのかもしれない。相槌をついて黙っていると、グローアが痺れを切らして首を傾げる。
「貴方、そのあたりの事情を御存知ではないの?」
「悪いが、まったくわからない。銅貨をもらうことは知ってたが、使い道は今知ったばかりだ」
「では、銅貨の場所などは」
「知るわけないだろ」
即答するケルベロスに、グローアは少し呆れて眉根を寄せる。
「シャロンと一緒にタルタロスで働いていたのでしょう?」
「だけど、あいつが銅貨を扱うとこなんて見た事がない。そういう事情はあんたの方が詳しいんじゃないか? ああ、舟が川底にあるのなら知ってるぞ。銅貨もそこじゃないか?」
「……対価を媒体の中に置くわけないでしょう。他に心当たりはないのですか?」
そんな事を言われても、知らないものは知らない。頷くケルベロスを横目に、グローアは短い息を吐く。
「勝手なことを申し上げるようですが、もう少し親しい間柄だと思っておりました」
――それはお互い様だろう。相変わらず遠目にシャロンを見て話すグローアに、ケルベロスは心の中で毒尽いた。
シャロンをあれこれ心配して言うわりに、随分と事務的だ。昨日アテネに会いに行くと凄んだのが嘘のように今日は素っ気ない態度で、シャロンとの関係性はまったく見いだせなかった。
とはいえ、こちらもシャロンのことを知っているようで知らないのは事実だ。二人はしばし顔を見合わせた。のちに、グローアは眠るシャロンを今一度振り返る。
「ときに、シャロンが身に着けているのはあの日のままですか?」
「ああ、そうだ」
言われてみれば、シャロンは自分の上着に袖を通したままだった。元々衣服は既存のものから逸脱していたと思うが、それにしたって今グローアが着ている法衣に比べると明らかにかけ離れている。
そういえば、と目を留めたグローアの足元は丈の長い黒衣に隠れてはいるが、見えるつま先から推測するに、きっちりと編み上げられた踵の低いブーツだ。これもまた、シャロンとはまったく違う。
「では……」
掛けられた声にはっとして、ケルベロスは顔を上げる。
「申し訳ないですけれど、あの腰の巾着を取っていただけるかしら?」
目線で示されたその先を慌てて追うと、草臥れた巾着があった。しかし、ケルベロスは反射的に断る。
「嫌だ。なんで俺が。必要なら、お前が取ってくればいいじゃねえか」
「いいえ。私はシャロンに近づけないので」
「近づけない?」
意味がわからず問い返すと、グローアは笑みを作って黙って返した。なぜと問い返しても、声は発せず微笑むばかりで埒があかない。終いには『なので、どうか』と、言葉少なに頭を下げた。
暫く待っても頑なな態度に、それ以上無碍にもできないケルベロスは、仕方なく後ずさって渋々シャロンの方へ歩み寄る。そして、使い古された黒革の巾着に注目した。
少しくすんだ表面はよく見ると数カ所に補修が為されて、随分と愛着があったものだとわかる。腰に巻かれた革紐を辿ると、金の鎖に絡まるように結び目があった。そばにしゃがみ込んでそれを解くと、巾着は意外なほど簡単に外れてその手に収まる。手のひらには、じゃらりと硬いものを撫でる感覚があった。
こんなにシャロンの近くに来て触れたことは今までになかったので、長い革紐をまとめる途中ふと目覚めるのではと期待した。しかし、期待は虚しく乾いた風が頬を撫でていく。それに、思ったよりも巾着の中は痩せていて、ケルベロスは足早にグローアの元に戻った。
「取ってきたぞ」
「開けてくださるかしら?」
被せ気味に返すグローアの丁寧だが横柄な一言をぐっと飲み込み、ケルベロスは言われた通り巾着の口紐を開く。中には細々としたものが入っていて、はじめにひとつふたつ大きめの銀貨や石を取り出すと、あとはしゃがんで地面にぶち撒ける。そこに目当ての銅貨は一枚もなかった。
「……そんな」
グローアは落胆して膝をつく。硬貨は先程の大きめの銀貨だけで、他はがらくたと言っても差し支えないものばかりだった。硝子玉が二つに円形の石が大小合わせて三つ、それに金の髪留めと石の外れた指輪の台座、欠けた青い宝石は恐らくそこについていたものだろう。そして、赤い葉に何かの実、折り畳まれた紙は開くと下手くそな絵が描いてあった。
「……思惑が外れたな」
中身はどれもこれも、なぜシャロンが持っているのかわからないものばかりだった。その中で唯一の望みの銀貨を手に取って、ケルベロスはグローアに差し出す。しかし、やんわりと拒否された。
「契約の銅貨以外は塵を投げ入れるのと同義です。人の生きる世界では銀貨の方が価値が高いと聞きますが、ここでは通用しません」
「それにしても、なんでこんな……それこそ塵みたいなものをとっておいたんだろう」
「きっとそれぞれ、シャロンにとっては思い入れのある――」
座り込んでひとつひとつ手に取っていたグローアの手が止まる。指先にあるのは、なんの果実かよくわからない実だった。黒ずみが始まっていて、元の色であろう緑がかろうじて残っているが、食べられそうにはない。
「これ――」
実を手のひらに乗せて、グローアが窺う。
「なんだよ」
「オリーブではないかしら――?」
「え?」
ケルベロスは思わず上擦った声をあげた。言われてみれば、確かに大魔法典に載っていたものと良く似ている。
本では黒だと書かれていたが、ヘラクレスが持っていた若い実は、ハーデス曰く緑色だ。この実は傷みが進んだように見えたが、熟れかかっている途中にも見える。
「まさか、いやでも」
「ハーデス様に御判断を仰ぎましょう。私が王城まで行って参りますわ」
グローアは言うが早いか実を巾着に戻し入れて、ケルベロスに渡した。
「無くしてはいけませんから、貴方がお預かり下さい。ハーデス様にお会いしたら、話をつけてすぐに戻ります」
「ちょっと待て。ハーデスは今日、天界へ……それこそアテネにオリーブの話をつけに行くって」
恐らくまだ朝早いから大丈夫だとは思うが、それでもハーデスと行き違いになっては困る。ここから全速力で自分が駆けても二十分はかかる道のり、魔女が箒で飛べば幾分早くは着くのだろうが、それでもより早い方がいい。
「あんたとハーデスの使い魔と、どっちが早い?」
ケルベロスはすでに箒に腰掛けるグローアを引き留めた。咄嗟に思い出して取り出したのは、先日ハーデスから渡された使い魔の石だ。
「ハーデス様の使い魔を持っているのですか?」
「ああ。何かあった時のために渡された」
「ならば、それを使うべきです。私が飛んでも、城門での面通しに時間がかかってしまう。でも、使い魔ならハーデス様の元へ直接、しかも早く飛べるはず」
それを聞いて、ケルベロスは石を三度擦った。途端に姿を現した使い魔は、恭しく頭を下げる。
「御用件をお伺い致します」
「急いでハーデスを連れてきてくれ。とにかく早く」
「畏まりました」
使い魔はもう一度深々と頭を下げると、次の瞬間にはぱっと消えて空の彼方へと飛んでいった。羽の瞬きか、細い光がなだらかな弧の軌跡を描く。二人はそれが消えるまで見送り、どちらともなく足元のがらくたに視線を落とした。
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