第36話
「シャロンと初めて会ったとき、俺はまだ犬で……あいつを噛んだことがある」
確かめるようにハーデスを見遣ると、同じことを思い起こしたのか、はたと納得した様子で手を打った。
「……首の蛇毒か」
渦巻くような記憶を辿った先に見つけたシャロンは、蛇に噛まれた傷もそのままに相変わらず自分を睨みつけていた。毒蛇たちの仕業に悪態を吐き、思惑に反して眩暈を起こしたのはこちらの方だったが、噛み付いたのは確かだ。
「でも、毒蛇の毒と天界で生成された毒を一緒に考えて良いものでしょうか」
ケルベロスの不安を、グローアがすかさず言葉にする。と、大魔女が難しそうに唸った。
「その蛇がケルベロスと一心同体であったことを考えれば、あるいは――」
「ああ。かつて首元にいた蛇は、ケルベロスと共生していたと言えるだろう。少なくとも、体を共にする以上、めぐる血は同じだったはず」
迷いながら考察を呟いたハーデスは、それからまた口を噤んだ。顎にあてた親指が忙しなく口元をさすり、考えをまとめているのか時折
「毒に変化したとはいえ、主要素がケルベロスの血であるなら、その理解でよろしいかと」
二人は揃って頷いた。
「となると、すでにシャロンの中にある程度ケルベロスの毒への抗体があると考えてもいいのかな」
「ええ、仮死魔法も効いているのでしょうけれど、抗体の作用もあると信じたいところですね」
「ただ、そうだとしてもシャロンの血も猛毒だ。転じて解毒薬を作るにしても、扱いが難しい」
すると、大魔女の背後に立っていたグローアが『恐れながら』と進言する。
「この森には沼の毒でさえ解毒薬を作れる魔女がおりません。シャロンの毒ではなおのこと……」
「いいわ。大魔法典を開きましょう」
カップに差し込んだ匙で渦を作り、大魔女はその中央あたりに雫を落とす。それから驚くグローアに何かを言付けた。グローアは戸惑いながらも早々に部屋を後にする。
そして、数人を引き連れてまもなく部屋に運ばれてきたのは、さっきの子供の背丈くらいある大きな本だった。
「ちょっと御免遊ばせ」
大魔女は、本に向かっておもむろに杖を振るった。一緒に小さく何かを唱えると、本の表紙の文字が赤く浮かび上がる。大魔女に言われて、まるで扉のように厚い表紙をケルベロスが開くと、現れた中表紙にはケルベロスの顔よりも大きな閉じた瞳が描かれていた。
「大魔法典には、ここで生まれた魔女が生み出したあらゆる魔法が綴じてあります。マティルデの餐腹についても、その後を追った者たちが使った術式も。魔女である限り、その使った魔法はこの本に刻まれる仕様になっているのです」
「ということは、シャロンが使ったものも」
「ええ。その様式を見れば何か手がかりを得られるかもしれません」
大魔女はにこりと笑うが、グローアの表情は浮かない。気付いたハーデスがその理由を問うと、グローアは大魔女の方を窺いながら『いえ』と一言口を噤んで俯いた。
「大魔法典は、それが持つ壮大な力故に開く者の魔力を吸い取りますから、この子は心配しているのでしょう。でも大丈夫よ、私ならまた眠れば良いのだから」
「ですが……!」
「ならば私が代わりに開こう、キルケ」
「いえ、これは魔女でなくては開けませんの。ほら、こうして目が見張っているでしょう」
閉じた目は、ただの絵のように見えた。けれど、ハーデスは静かに頷く。
「これが大魔女の誓約だね」
「ええ。さて、それじゃあ早速見てみましょう。本よ、毒婦の頁を開いて頂戴。シャロンの項があればそこを」
瞳は、大魔女の声でぱっと大きく目を見開いた。そして、ぎょろりと目玉だけをそばに居たケルベロスの方に動かす。その不気味さにケルベロスが咄嗟に後ろに跳ねると、本は視線を大魔女に改め、勝手に頁を送り始めて終わりかけの方で徐に止まった。
シャロンが煮込んでいたあの鍋を見た時と同じような気味悪さを感じながら、ケルベロスは遠目に本を窺う。見慣れない文字の下には井守の黒焼きの焼き加減についてや、涙の採取方法らしきものが描かれていて、一際目を惹く大きな絵は竜が飛ぶ姿だった。
「流石シャロンね、生み出した魔法の頁がこんなにも。毒を精製し、抗体から解毒薬を作る方法……、吸毒はここね」
大魔女の皺の多い指が、文字の羅列をなぞっていく。そして、とある場所でぴたりと止まった。
「……いけませんね」
言葉少なに困惑して、大魔女はグローアを振り返る。グローアも同様に小さく頷いた。
「どうした?」
ハーデスの問いかけは虚しく部屋に響いて、言葉に詰まった様子の二人が目を合わせる。
「シャロンの吸毒から得る解毒薬には竜翼が必要なようです。それも、金竜のものが」
「金竜か。確かに昔はよく飛んでいたけれど、今はあまり見ないね」
「ええ、それこそ吸毒が主に使われていた頃にはよくおりましたから、ここにも載っているのでしょうけれど、今は私たちと同じ希少種です」
残念そうに伝えた大魔女は、そのまま目を伏せた。冥界に竜は多いが、金竜は滅多に見ない。噂でその鱗が不老不死の薬になると聞いたことがあるけれど、それで乱獲でもされたのだろう。煉獄山の麓に竜の住処があるが、そこでも見ることは稀だった。
「そうだわ、ナリヤタのところに行けばあるかしら?」
「いえ……金竜のものはここ数十年森にはないはずです」
小声で交わした二人は、残念そうに揃って息を吐く。大魔女は、困りましたね、と零した。
「魔女は翼竜を度々使役として使う事がありますから、生きた翼竜を仕留めることは出来ません。ですから、今から用意するにはとても時間がかかってしまう……」
「時間がかかるとは?」
「魔女が竜翼を手に入れるには、使役したものが死んだ時か、竜の谷へ赴いて亡くなったものを見つけなければなりません。そんなわけですから、金竜などとても」
「そうか……。じゃあ、闇市はどうだろう?」
「あそこで見かけるものはまがい物ばかりで、使い物になりませんわ」
「じゃあ、俺が取ってくる。それなら問題ないんだろう」
見かねたケルベロスが言うと、大魔女がゆっくりと首を振った。
「お願いしたいのは山々ですが、相手もかなりの希少種。同様の立場である私共が手をかけるわけには参りませんわね。逆の立場で考えれば抗争が起こっても不思議ではありません」
こんな時であっても種族間の駆け引きを踏まえなければならないのか疑問に思いながら、しかしハーデスがなにも言わないので、ケルベロスは大人しく黙った。
すると、不意に大魔法典が風を起こしながら頁を前へ戻す。古い埃の匂いが巻き上がり、皆が本を振り返ってもなお捲れる頁は表紙の近くまできてやっと速度を緩めた。
「これは……」
やがて開かれた頁には、どこにでもありそうな樹木がひとつ大きく描かれていた。驚くハーデスの隣で、大魔女は見出しを読み上げる。
「未知の項目……中でも未解析の分類、これは復活の実がなるとされる樹木ですね。実を煎じて飲ませれば良いもので、その昔、シャロンが毒沼の毒を飲んだ時に探したことがあります。でも、何故これが今……?」
不思議そうに首を傾げた大魔女は、先の頁をふたつ、みっつと捲った。しかし、本はそれを厭うようにぱらぱらと元の頁に戻す。意思を持った本が、明らかにそこに何かあるとばかりに示す様子は、只事ではなさそうだった。
「いったいなんでしょう。珍しいこともあるものです」
「キルケ、これを見つけることは出来たのかな?」
「いえ、それがどこを探しても見つからないのです。実は今も月に一度はグローアが探しに出ておりますが、未だ見つかりません。似たような樹木は幾つかあるようなのですが……」
ハーデスが黙って文字を追うようにケルベロスも倣ってみるが、そこにミノスに習った文字はひとつもない。挿絵に描かれているのはすらりと伸びた枝と細長い葉、先には葡萄一粒と変わらない小さな果実が生っている。見たところ妖樹のように背は高くないようだが、それでも自分の背丈を越えるくらいはありそうだった。
「キルケ、私はこれを知っている」
「……本当ですか?」
「ああ。しかも、数年前だが見たばかりだよ。そうだね、この実はたしかにここでは見つからないだろう」
すると、グローアが落ち着きなく本の前に転がり出る。
「ど、どちらで御覧になられたのですか? ハーデス様は、この樹木のある場所を御存知なのですか?」
「これは冥界の植物ではないんだ。オリーブと言って、天界にしか実らない」
グローアは、そんな、と膝をつく。
「では、御覧になられたのは天界へ訪れた際に?」
「いや、ヘラクレスが冥界に落としていった巾着の中に実が幾つか入っていたんだ」
「落としていった……」
期待するグローアに、ハーデスは頭を振る。
「オリーブは、パルテノン神殿の女神アテネが自ら育てる神聖なもの。だから、私が触れると灰になってしまうんだ。ヘラクレスが落としたものも、ひとつは私が拾ってしまったので無くなったよ。それに、残っていた分はケルベロスを助けに行った時にすっかりヘラクレスに返してしまった」
ヘラクレスがそんなものを持っていたとは知らず、ケルベロスは懸命に当時を思い出す。そういえば、ヘラクレスの体力を異常なまでに増幅させていたのが、今話に出ているオリーブなのだろうか。
あれくらいの回復力があれば目覚めも期待できるし、天界ならハーデスが行けるのだから、取りに行けばいい。思いついたケルベロスはそれを安易に伝えた。だが、ハーデスの表情は浮かない。
「オリーブの効能は高くて貴重だからね、アテネはそう簡単に譲ってはくれないんだ。それに、分け与えるのは熟した黒い実と決まっている。ヘラクレスが持っていたものは緑の若い実だったから、恐らく盗難品だろう。だとすれば、あの件以降オリーブ園の管理は一層厳しくなっているはずだ。私が行っても、冥界で使うと聞けば許してはくれないかもしれない」
それを聞いて、大魔女は落胆しながら椅子に腰掛けた。
「場所が天界では、私達にはどうしようもありませんね」
すると、グローアが突然床に平伏する。
「恐れながら申します。どうか私を天界のアテネ様に謁見させていただけないでしょうか。分不相応のお願いと重々理解しております。貰えぬのは百も承知、ですが可能性があるならば――」
「これ、グローア。いけません」
グローアの悲痛な声を、大魔女の手が止める。はっと口を噤んだグローアの振り返る先には、必死の視線を遮るように目を閉じ、首を振る大魔女がいた。
「いいですか。シャロンを助けるために万策手を打ちたいのは私も同じです。が、ハーデス様にそのように易く物事を頼むのはいけませんよ。三界は私達の想像が及ばない世界であることを弁えなさい」
声こそ優しいが、その意味は厳しい。嗜められたグローアは震える唇を噛み締めて俯いた。けれど、グローアの気持ちも分からなくはない。断られるかどうかは、行ってみなければ分からないのだ。
「おい、ハーデス。お前、そのアテネに会う気は無いのか?」
「いや、グローアの言う通り、私もここで可能性を自ら潰してはならないと思う。早急にアテネに面会を申し込もう」
「ですが、天界との取り次は時間も手間もかかると聞きます。冥界の王に御足労を願うなど畏れ多いですわ」
大魔女が言うと、ハーデスは大魔法典に載るオリーブの絵をひと撫でしてから振り返る。
「大丈夫だよ、キルケ。実のところ、前庭の死者の滞りはもう限界なんだ。閣議でも、次の渡守が議論されている。そんな中でキルケが目覚めたと聞き、私はこれが最後の好機だと思ってここに来ているんだ。私にできる限りのことはやらせて欲しい」
「……次の渡守は、もう決まってしまったのですか?」
「シャロンほどの能力を持つ者はそういないのでね。後任はまだ決まってはいないけれど、このままだと半年後には渡守の交代だけでも決定事項となるだろう。そうなる前に、打てる手は打っておきたいんだ」
考えないわけではなかったが、ケルベロスはミノスから聞いた時よりもずっと動揺する。
穏やかなハーデスの声はいつまでも頭に響いて離れず、息を呑むことすら憚られた。なぜこんなにも自分が焦るのかはわからないが、兎に角、シャロンの存在意義が欠ける寂しさに心がついていかない。
気付けば大魔女もグローアも皆一様に俯く中、窓の外はすっかり暗くなっていた。時を知らせる大地の鳴動や狼煙に気付くこともなく、森に足を踏み入れてからの一日が終わろうとしている。
「だから、明日一番に私はアテネに会いに行くよ。そして、時間はかかってしまうかも知れないが、必ずオリーブを持ち帰る。お前たちはその間、シャロンを守り、目覚めの準備をしておいておくれ」
久方ぶりに聞いた気がするハーデスの号令に、一同は各々小さな返事を返した。
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